09
夕暮れの喫茶店には、昼の熱気が嘘のように静かな時間が流れている。
外ではまだ祭り囃子が遠くに響いていたが、この店だけは別の世界のように穏やかだった。
「お待たせしました」
マスターが、百合子の注文した樹樹ブレンドを運んでくる。
湯気の向こうで、深く焙煎された豆の香りがゆっくりと広がり、胸の奥にまで沁みていく。
カップを両手で包みながら、百合子はふと昔のことを思い出していた。
(そういえば……ずっと前にも、笹原くんに見つめられたこと、あったな)
この喫茶店での思い出だった。
健太は文化祭の準備で遅れると言っていて、あの日は笹原とふたりで過ごしていた。
百合子は課題を、笹原は難しそうな本を読んでいた気がする。
ふと視線を感じて顔を上げると、笹原が静かにこちらを見つめていた。
そのときは、一瞬目が合っただけだったし、ただの気のせいだと思っていた。
ーーもしかして……。
けれど今、その視線の意味を思うと、胸の奥が少し熱くなる。
「どうした?」
笹原の声に、はっと我に返る。
「ううん……少し昔のことを思い出してたの」
「高校の頃のこと?」
「そう。ここの珈琲の香りを嗅ぐと、懐かしくってあの頃のことを思い出すのよね」
こんなふうに昔のことを思い出すのは、樹樹の珈琲を飲むときだけだ。
それはきっと、店の雰囲気と香りが重なって、記憶を呼び起こすからだろう。
窓の外では、橙の空がゆっくりと群青に溶けていく。
懐かしい時間と、いまの時間が、ふっと重なった気がした。
「そういえばさ、前から気になってたんだけど」
笹原が、思い出したように口を開く。
「どうして、健太は名前呼びなのに、俺は苗字呼びなんだ?」
不意を突かれ、百合子はカップを置いた。
まさかそんなことを聞かれるとは思わなかった。
「えっと……健太くんとは共通の友だちを通して知り合ったの。最初から“健太”って紹介されて、苗字を知ったのはずっと後だったのよ」
「なるほど」
「笹原くんは……ほら、成績優秀者の掲示板にフルネームで載ってたから。だから“笹原”の印象が強くて」
「そんな理由か」
笹原は小さく笑ってから、ふいに真顔になった。
「じゃあ――今からでも、名前で呼んでくれる?」
「えっ、それは……」
冗談めかしているのかと思ったが、彼の目は真剣だった。
百合子の心臓が、小さく跳ねる。
「……わかったわ。じゃあ――透くん」
「うん」
その一言に、笹原の目がやわらかく細められる。
まるで、ずっと聞きたかった言葉をようやく手にしたように。
その表情を見ているうちに、百合子の胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
ただ名前を呼んだだけなのに――どうしてこんなに胸が高鳴るのだろう。
「わ、私のことも苗字呼びじゃない。不公平だわ」
思わず誤魔化すように言うと、笹原が少し笑って答える。
「俺も名前で呼んでいいのか?」
「う、うん」
「……百合子」
その声が、胸の奥にやさしく落ちた。
呼ばれ慣れているはずの自分の名前なのに、まるで別の響きを持っている。
外のざわめきが遠のき、世界がふたりきりになったようだった。
その瞬間、遠くで小さく花火の音が響く。
夜の幕がゆっくりと降りていくなかで、百合子の心にもひとつ、静かな火花が散った気がした。
甘い空気が流れ、居たたまれなくなって、百合子は立ち上がった。
「そろそろ花火大会、始まる頃よね」
「そうだな」
会計へ向かうと、マスターがにこやかに声をかけた。
「常連さんにおまけです。花火大会、楽しんでくださいね」
持ち帰り用のカップに注がれたアイスコーヒーの氷が、からんと澄んだ音を立てた。
冷たい香りが、少し高ぶった胸を落ち着かせてくれる。
「ありがとう、マスター」
「二人とも、いい夜を。」
外に出ると、夜風が浴衣の裾を揺らした。
遠くの空に、花火がひとつ咲く。
ぱっと広がる光が、百合子の頬を照らした。
その隣で、笹原がふとこちらを見る。
目が合いそうになって、百合子はそっと視線を逸らした。
年甲斐もなく胸が高鳴っているのは、きっと花火のせい――そう思うことにした。
紙コップのアイスコーヒーを口に含む。
苦味のあとに、ほんのりとした甘さが広がる。
その味が、今日という日の記憶と重なっていく。
夜空に、大輪の花がもう一度咲いた。
その光が消えても、胸の奥には小さな灯が残る。
この夜のことを、きっと忘れない。
そんな確信だけが、静かに百合子の胸に残った。




