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珈琲の香りと二十五年越しの初恋  作者: 佐倉穂波


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10/19

09

 夕暮れの喫茶店には、昼の熱気が嘘のように静かな時間が流れている。

 外ではまだ祭り囃子が遠くに響いていたが、この店だけは別の世界のように穏やかだった。


「お待たせしました」

 マスターが、百合子の注文した樹樹ブレンドを運んでくる。

 湯気の向こうで、深く焙煎された豆の香りがゆっくりと広がり、胸の奥にまで沁みていく。

 カップを両手で包みながら、百合子はふと昔のことを思い出していた。


(そういえば……ずっと前にも、笹原くんに見つめられたこと、あったな)


 この喫茶店での思い出だった。

 健太は文化祭の準備で遅れると言っていて、あの日は笹原とふたりで過ごしていた。

 百合子は課題を、笹原は難しそうな本を読んでいた気がする。

 ふと視線を感じて顔を上げると、笹原が静かにこちらを見つめていた。

 そのときは、一瞬目が合っただけだったし、ただの気のせいだと思っていた。

 ーーもしかして……。

 けれど今、その視線の意味を思うと、胸の奥が少し熱くなる。


「どうした?」

 笹原の声に、はっと我に返る。

「ううん……少し昔のことを思い出してたの」

「高校の頃のこと?」

「そう。ここの珈琲の香りを嗅ぐと、懐かしくってあの頃のことを思い出すのよね」

 こんなふうに昔のことを思い出すのは、樹樹の珈琲を飲むときだけだ。

 それはきっと、店の雰囲気と香りが重なって、記憶を呼び起こすからだろう。


 窓の外では、橙の空がゆっくりと群青に溶けていく。

 懐かしい時間と、いまの時間が、ふっと重なった気がした。


「そういえばさ、前から気になってたんだけど」

 笹原が、思い出したように口を開く。

「どうして、健太は名前呼びなのに、俺は苗字呼びなんだ?」


 不意を突かれ、百合子はカップを置いた。

 まさかそんなことを聞かれるとは思わなかった。

「えっと……健太くんとは共通の友だちを通して知り合ったの。最初から“健太”って紹介されて、苗字を知ったのはずっと後だったのよ」

「なるほど」

「笹原くんは……ほら、成績優秀者の掲示板にフルネームで載ってたから。だから“笹原”の印象が強くて」

「そんな理由か」

 笹原は小さく笑ってから、ふいに真顔になった。

「じゃあ――今からでも、名前で呼んでくれる?」

「えっ、それは……」

 冗談めかしているのかと思ったが、彼の目は真剣だった。

 百合子の心臓が、小さく跳ねる。


「……わかったわ。じゃあ――透くん」

「うん」


 その一言に、笹原の目がやわらかく細められる。

 まるで、ずっと聞きたかった言葉をようやく手にしたように。

 その表情を見ているうちに、百合子の胸の奥がじんわりと熱を帯びた。

 ただ名前を呼んだだけなのに――どうしてこんなに胸が高鳴るのだろう。


「わ、私のことも苗字呼びじゃない。不公平だわ」

 思わず誤魔化すように言うと、笹原が少し笑って答える。

「俺も名前で呼んでいいのか?」

「う、うん」

「……百合子」


 その声が、胸の奥にやさしく落ちた。

 呼ばれ慣れているはずの自分の名前なのに、まるで別の響きを持っている。

 外のざわめきが遠のき、世界がふたりきりになったようだった。


 その瞬間、遠くで小さく花火の音が響く。

 夜の幕がゆっくりと降りていくなかで、百合子の心にもひとつ、静かな火花が散った気がした。


 甘い空気が流れ、居たたまれなくなって、百合子は立ち上がった。

「そろそろ花火大会、始まる頃よね」

「そうだな」


 会計へ向かうと、マスターがにこやかに声をかけた。

「常連さんにおまけです。花火大会、楽しんでくださいね」

 持ち帰り用のカップに注がれたアイスコーヒーの氷が、からんと澄んだ音を立てた。

 冷たい香りが、少し高ぶった胸を落ち着かせてくれる。


「ありがとう、マスター」

「二人とも、いい夜を。」


 外に出ると、夜風が浴衣の裾を揺らした。

 遠くの空に、花火がひとつ咲く。

 ぱっと広がる光が、百合子の頬を照らした。


 その隣で、笹原がふとこちらを見る。

 目が合いそうになって、百合子はそっと視線を逸らした。

 年甲斐もなく胸が高鳴っているのは、きっと花火のせい――そう思うことにした。


 紙コップのアイスコーヒーを口に含む。

 苦味のあとに、ほんのりとした甘さが広がる。

 その味が、今日という日の記憶と重なっていく。


 夜空に、大輪の花がもう一度咲いた。

 その光が消えても、胸の奥には小さな灯が残る。


 この夜のことを、きっと忘れない。

 そんな確信だけが、静かに百合子の胸に残った。

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