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元勇者の俺、魔王が経営するレストランで働くことになりました  作者: pakipaki
第1部:魔王と勇者のホワイトな職場
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第5話 『猫化の後遺症と、消えない喉鳴り』

 昨日の毛玉騒動から一夜明け、王都の職人街にはいつも通りの朝が来た。俺、アルフレッドは、開店前の厨房で重い溜息を吐きながら、スラックスにこびりついた銀色の毛を一本ずつ取り除いていた。魔力枯渇による猫化。あの屈辱の極みとも言える一日を経て、マスターである魔王ディアボロは、今朝には無事元の姿に戻っていた。


「アルフレッド、何を掃除している。そのような瑣末なことより、我に朝の献立を捧げよ。昨日の不敬な聖騎士のせいで、我の胃袋は空虚な暗黒騎士に支配されているのだ」


 銀髪を後頭部で完璧に結び、漆黒の燕尾服を翻して厨房に現れたのは、紛れもなく「人間形態」のディアボロだった。身長二メートル近い巨躯、磁器のように白い肌、そしてルビーのように鮮烈に輝く深紅の瞳。どこからどう見ても、傲慢不遜な魔王そのものだ。


「……おはようございます、マスター。無事に戻れたようで何よりですよ。ところで昨日のこと、どこまで覚えていますか?」


 俺が小麦色の腕を休めずに尋ねると、ディアボロは一瞬だけ、その白い頬を僅かに朱に染めた。彼はルビーの瞳を泳がせ、不自然なほど大きな音を立ててカトラリーを並べ始める。


「昨日のことだと? ……ふん、覚えておらぬ。我が意識は高次元の魔力潮流を漂っていたのだ。下俗な人間にもふもふ……あ、いや、蹂躙された記憶など、一分子も残っておらぬわ!」


「今、もふもふって言いましたよね。……まあいいです。自覚があるなら、二度とあんな怪しい魔導具を握りつぶさないでくださいよ」


 俺は朝食の準備に取り掛かった。本日のメニューは、香ばしく焼いた厚切りベーコンと、半熟の目玉焼き、そしてたっぷりとした温野菜だ。ジュワリと肉の焼ける音が厨房に響き渡る中、俺は背後に妙な気配を感じて振り返った。


「……マスター、何してるんですか?」


 ディアボロが、俺のすぐ後ろで腰を屈め、俺が調理している手元を食い入るように見つめていた。それだけならいつものことだが、問題はその姿勢だ。彼は燕尾服の裾が床につくのも構わず、四つん這いに近い体勢で、鼻先をひくひくと動かしている。


「な、何でもない! 貴様の調理法に不備がないか、近距離で監視しているだけだ!」


 慌てて立ち上がるディアボロだったが、その銀髪の隙間から覗く耳が、どこかピクピクと小刻みに揺れている。どう見ても、猫の時の癖が抜けきっていない。


「あの、姿勢が猫のままですよ。……それから、さっきから銀髪が俺の肩に当たって邪魔なんです。一歩下がってください」


「貴様……我に下がれと命じるのか! この魔王ディアボロに向かって……あ! おい、その……そのベーコンを、我の前に置け。今すぐだ」


 俺が皿をテーブルに置くと、ディアボロは椅子に座るなり、フォークも使わずに顔を近づけようとした。


「フォークを使ってください! あんた、本当に戻ってるんですか?」


「……わかっている。我の指先が、一時的に魔力の重力異常を起こしているだけだ」


 ディアボロは不器用にフォークを握り直したが、ルビーの瞳はフォークに刺さって揺れているベーコンの脂身を追って左右に激しく動いている。食事中も、彼は一口食べるごとに「ぐる……ぐるる」という、あの独特の重低音を喉から漏らしていた。


 ランチタイムが始まっても、後遺症は深刻だった。ディアボロはフロアに立ち、客席を回っているのだが、動きが妙に音もなく、しなやかすぎていた。それどころか、窓から差し込む陽だまりを見つけるたびに、彼の足が自然とその方向へ向かってしまう。


「マスター! 三番テーブルにお冷やを! そこで日向ぼっこしないでください!」


「わ、わかっている! 我はただ、太陽の魔力分布を調査していただけで……」


 言い訳をしながら動き出すディアボロだが、その手元はどこかおぼつかない。さらには、客が落とした銀のスプーンが床でカランと音を立てた瞬間、ディアボロの体が反射的にビクンと跳ね、獲物を狙う猛獣のような鋭い目つきでスプーンを凝視した。


「マスター! 拾って、洗って、戻す! 飛びかからないでください!」


「……貴様、我を何だと思っている」


「今は半分くらい猫だと思ってます」


 俺の苦労は、午後になっても終わらなかった。店内の片付けをしていると、背後から音もなく忍び寄ってきた白い手が、俺のベストの裾をシャキッ! と出した爪で軽く引っ掻いた。


「アルフレッド。……我は、不愉快だ。なんとなく魔力が、不足している」


 振り返ると、そこには不満げに口を尖らせたディアボロが立っていた。彼のルビーの瞳は潤んでおり、その手はなぜか、俺の小麦色の指先をじっと見つめている。


「魔力なら、そこの紅茶でも飲んで回復してくださいよ。……何ですか、その手は」


「……昨日の、あの不敬な聖騎士が行った……あの、特定の部位を圧迫する魔導術だ。あれを、我が魔力回路の調整のために、貴様も行うが良い」


「……もしかして、顎の下、撫でろって言ってます?」


 ディアボロは顔を真っ赤にし、銀髪を激しく揺らしながら叫んだ。


「撫でろなどと言っていない! 魔力回路の、物理的干渉による調整だと言っているのだ! さあ、早くしろ! 貴様のその熱苦しい小麦色の指で、我を……我を救済しろ!」


 俺は深い溜息を吐き、手を洗ってから彼に近づいた。巨躯の魔王が、俺の前で僅かに腰を落とし、白い首筋をさらけ出す。俺は小麦色の指を、彼の顎の下にそっと添えた。


「こうですか?」


「…………ふん、下手くそだ。もっと、こう……昨日の男は、もう少し右側を……」


「注文が多いですよ。……ほら」


 俺が指先で優しく、しかし確かな力加減で顎の下を撫で上げると、ディアボロの喉から「ぐるるるる……」という、今日一番の大きな音が響き渡った。彼のルビーの瞳はトロンと蕩け、長い銀の睫毛が震えている。


「……いいのか、こんなことして。あんた、魔王でしょう」


「……我は……王だ。王は、最高の癒やしを享受する権利がある……。ぐる……あ、そこだ……そこを、もっと……」


 魔王としての威厳はどこへ行ったのか。そこにあるのは、ただの甘えん坊な銀色の「何か」だった。俺は、自分の指先に伝わる魔王の体温と、柔らかい銀髪の感触に、妙な敗北感を感じていた。


 やがて夜の帳が降り、店内の明かりを落とした後。ディアボロはいつもの窓際の椅子で、月明かりを浴びていた。後遺症はまだ完全には消えていないようで、彼の銀色の尻尾……ではなく、燕尾服の裾が、時折パタパタと楽しげに揺れていた。


「アルフレッド。明日は、もっと大量のミルクを仕入れておけ。我が魔力の安定のために必要だ」


「はいはい。パンナコッタ用じゃなくて、マスターが飲む用ですね。……全く、ホワイトな職場どころか、猫の世話係ですよ、俺は」


 俺が小麦色の腕でカウンターを拭き上げると、ディアボロは満足げに目を閉じた。俺の胃痛は明日も続くだろうが、この奇妙な主従関係は、案外悪くないのかもしれない。俺は月光に照らされた銀色の頭を見つめ、少しだけ口角を上げた。

ここまで読んでくださってありがとうございます!

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