第25話 『中間管理職の限界と、甘いベリーの処方箋』
一日の営業を終えた『キッチン・ブラン』に、夜の静寂が訪れていた。
俺、アルフレッドは小麦色の腕をまくり、明日への仕込みを終えたばかりの厨房で、お気に入りの包丁を丁寧に研いでいた。
店内の奥、窓際の特等席に深く腰掛けたディアボロが、磁器のように白い指先でワイングラスを揺らし、青白い月光を浴びながら、ゆったりとした時間を楽しんでいる。
そんな穏やかな空気を破ったのは、裏口の扉の下から漏れ聞こえる、弱々しい声だった。
「……すみません。開けて、いただけますか。ボク、もう……立てないんです……」
俺が不審に思って扉を開けると、そこには灰色がかった黒髪を石畳に広げ、べちゃりと溶けて床に張り付いているゼノンの姿があった。以前この店に逃げ込んできた時よりも、その姿はさらに酷く、人の形を保つことすら諦めたように地面に広がっている。
「……ゼノン君、また溶けてるのか。前より酷いな……」
俺は小麦色の腕を剥き出しにしたまま駆け寄った。
ゼノンはもはや自分の形を保つ気力すら失っているようで、その傍らには、魔王代理の証である漆黒の杖が、持ち主から投げ捨てられたように転がっている。目の下のクマは、前回見た時よりもさらに深く、顔色は青白かった。
「……アルフレッドさん……。ボク、もう……ダメです。限界です……。胃が、胃が痛くて……溶けるのも止まらなくて……」
ゼノンが床に張り付いたまま、絞り出すように呟いた。その声には、いつもの几帳面さも、真面目さも、何も残っていなかった。
「……書類は、完璧に仕上げました。一分の狂いもなく、全て提出しました。でも、ルシウスさんに『これでは不十分だ』と言われて……。陛下の無茶振りを、現実的なプランに変換して、魔界中を走り回って……。ボク、何のために働いてるんでしょうか……」
「ゼノンさん……」
俺は溜息をつき、小麦色の腕に力を込めて、べちゃりと潰れたゼノンを丁寧にかき集めるようにして抱え上げた。腕に伝わる、弱々しくて形のない感触。これが、魔界で一番働いている男の姿なのか。
俺は彼を店内に運び込み、月光が差し込む窓際の主のもとへと運んだ。
「マスター、ゼノンさんが……」
俺が声をかけると、ディアボロはグラスを置くこともせず、ただ伏せていた睫毛をゆっくりと持ち上げた。深紅の瞳が、俺の小麦色の腕の中に収まった灰色の塊を射抜く。
「……ふん。また溶けているのか、ゼノン」
「陛下……すみません……。ボク、もう……形を保てなくて……」
ディアボロの低い声に、ゼノンは震えながら、俺の腕から逃れるように床へ滑り落ちた。だが、ゼノンは椅子に座ることもできず、ディアボロが座る椅子の足元までズルリと這い寄り、そのまま床に力なく広がった。
ディアボロは、自分の靴先まで届いた灰色の影と、その横に力なく転がった杖を、月明かりの下でグラスを傾けたまま見下ろした。
「……ゼノン、また溶けているのですか。業務が滞っていますよ」
夜の闇に紛れるようにして、静かに扉が開いた。
冷徹な声の主は、徴収官ルシウス。
彼は鉄の算盤をパチリと鳴らし、眼鏡を光らせた。
「陛下、お休み中に失礼。ゼノンの業務処理速度が、先週比で23%低下しています。このままでは、魔界の行政が回りません」
「ルシウス、言葉が過ぎるぞ」
ディアボロが低く、地を這うような声でその言葉を遮った。
ルシウスが驚いたように口を噤む。ディアボロは空いた方の手で、床に広がるゼノンの灰色の髪を、その手触りを確かめるように靴の先で軽く押さえた。
「……ゼノン。我は、貴様に全てを任せすぎたようだな」
「……え?」
ゼノンが、床に張り付いたまま顔を上げた。
「我が人間界でパフェを食っている間、貴様は魔界で書類の山と格闘していた。我が厨房で包丁を研いでいる間、貴様はルシウスの詰めに耐えていた。……我の代わりにな」
ディアボロが、珍しく自嘲気味に笑った。
「貴様は有能だ。だからこそ、我は全てを貴様に押し付けてしまった。……それは、我の怠慢だ」
「陛下……!」
ゼノンの声が震える。
俺は、ディアボロがこんな風に自分の非を認めるのを初めて聞いた。
「ルシウス。明日から、ゼノンの業務量を半分に減らせ。残りは、我が直接処理する」
「……陛下、それでは陛下が過労に……」
「我は魔王だ。これしきのことで倒れはせぬ。……それに、我が下僕が作る料理があれば、十分だ」
ディアボロが、窓際から俺の方を一瞬だけ見た。その深紅の瞳には、いつもの傲慢さとは違う、何か温かいものが宿っていた気がした。
「……っ、陛下……ありがとうございます……。ボク、ボク……!」
べちゃりと床に張り付いたまま、ゼノンが声を震わせる。だが、その体は相変わらず溶けたままで、人の形を取り戻す気配がない。
「まあまあ、二人とも。とりあえず、何か食べてもらおうか」
見かねた俺が、小麦色の腕で割って入るようにして、温かい湯気の立つボウルを二人の間に置いた。俺が二人の前に差し出したのは、黄金色に透き通った、芳醇な香りのコンソメスープだ。具材は最小限に抑え、胃に優しい仕上がりにした。
「……っ。あぁ、温かい……。胃に、染み渡る……」
ゼノンが床に張り付いたまま、スープを啜った。その瞬間、彼の体が少しだけ、ほんの少しだけ形を取り戻し始めた。
「……流石ですね、アルフレッド様。冷え切った神経が、解きほぐされるようです」
ルシウスもまた、静かに息を吐いて眼鏡を曇らせた。魔界で共に苦労する二人が、スープの湯気の向こうで、初めて穏やかに肩を並べた瞬間だった。
「ふん。スープだけで満足するな、下僕。我がベリーソースを、この無様な影たちにも分けてやれ。甘みでその疲れ切った頭を叩き起こしてやるのだ」
ディアボロが尊大に命じると、俺は待ってましたと言わんばかりに小麦色の腕を動かした。差し出したのは、真っ白でプルプルとした、素朴なミルクプリン。その上から、魔界の深紅のベリーを煮詰めた、宝石のように輝く濃厚ソースがたっぷりとかけられている。
ゼノン用には、さらに胃に優しいよう、ソースの酸味を抑えてある。一口食べた瞬間、ゼノンの顔に輝きが戻った。
「……これ、美味しい……。胃が、痛くない……。ボク、生きててよかった……」
ゼノンがスプーンを握りしめ、静かに、しかし確実に涙を流しながら、プリンを食べ続けた。その様子を見ていたルシウスも、端正な顔を少しだけ緩めてその甘さを堪能していた。
「……陛下、アルフレッドさん。ボク、明日からまた頑張ります。……書類だけは、完璧に仕上げますから」
ゼノンが震える手で、足元の漆黒の杖を拾い上げた。その動きは、まだ危なっかしいが、先ほどよりもずっとしっかりしていた。
「帰れ、我が影よ。次に現れる時は、その杖でも磨いてからにしろ。我の影で居るに相応しい鏡にな」
ディアボロが去り際のゼノンの頭を、磁器のように白い手でわしゃわしゃと乱暴に、けれど慈しむように撫で回す。ついでに隣にいたルシウスの頭も、同じようにわしゃわしゃと撫でた。
「……っ、陛下、髪が乱れます……!」
「ゼノン、陛下に甘えすぎです。……でも、少しだけ、羨ましいですね」
ルシウスが少し嫌そうな顔をしつつも、その表情はどこか柔らかかった。ゼノンは杖を抱きしめ、少しだけ前屈みだった背筋を伸ばして立ち上がった。
「アルフレッドさん、本当にありがとうございました。……この味、また胃が痛くなったら思い出します」
「いつでも来てくださいよ。胃に優しい料理、たくさん作りますから」
俺がそう言うと、ゼノンは初めて、本当に心からの笑顔を見せた。二人は少しだけしっかりとした足取りで店を後にした。
俺は小麦色の腕で空になった器を片付けながら、月光を浴びて走り去る二人の背中を見つめた。
「……マスター、たまにはいいこと言いますね」
「ふん。我は常に正しいことしか言わぬ。……だが、あやつらには、たまには休息が必要だろうな」
ディアボロがグラスを傾けながら、窓の外を見つめた。
「……アルフレッド。我が魔界の仕事を処理している間、貴様がこの店を守れ。我が戻った時、温かい料理を用意しておけ」
「はいはい、わかってますよ。マスターが頑張ってる間、俺も頑張りますから」
俺は笑いながら、カウンターを拭いた。店内に戻った静寂は、どこか前よりも温かいものに変わっていた。窓の外では、月光が穏やかに差し込み、真っ白な壁を優しく照らしていた。
「……次は、もっと驚くような美味いのを作ってやるからな」
俺は心の中でそっと呟き、明日への準備を始めた。
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