第22話 『魔界の針子と、二人の至高なる正装』
王都の職人街に、かつてないほど濃密な魔力が渦巻いていた。アルフレッドは、包丁で手際よく仕込みの野菜を切りながら、少しだけ溜息をついた。看板を出す前の『キッチン・ブラン』。本来なら仕込みで忙しいはずの店内に、今は不穏な銀色の輝きが満ちている。
窓際のいつもの席では、マスターが昨日同様、五歳児ほどの愛くるしい姿でふんぞり返っていた。外を眺めるのに飽きたのか、彼はどこからかメニュー用のチョークを持ち出すと、それを小さな手に握った。
アルフレッドの力任せな洗濯によって、ぎゅっと縮み上がった燕尾服は硬く、動くたびに裾が持ち上がる。彼はそれを短い指で苛立たしげに弾きながら床に這いつくばると、迷いのない手つきで複雑な図形を描き始めた。
「……マスター。その、いくらやることが無いからって、店の中にらくがきを描くのはどうかと思いますよ」
アルフレッドがそう言うと、ディアボロはリスの尻尾のようにくるんと丸まってしまった燕尾服の裾を、短い指で不機嫌そうに直した。
「愚か者め、これは暇つぶしでも落書きでもない。召喚陣だ。そもそも我が服に合わせるのではなく、服を我に合わせるのが道理であろう」
マスターは、一生懸命に短い腕を伸ばし、床に這いつくばるようにして魔方陣を描き足していく。「んと、ここはこうだ」なんて、小さな声で呟きながらチョークを動かす、真剣な後ろ姿。床に這いつくばるたびに、ピンと上を向く短い燕尾服の裾が、まるでご機嫌を伺う猫の尻尾のようにピコピコと動いている。
かつての威厳はどこへやら、床に這いつくばってチョークを動かすディアボロの姿は、まるで床に夢中で落書きをしている子供そのものだ。アルフレッドは、その愛らしさに、思わず彼を抱き上げそうになるのを必死で堪えた。
「よし、できたぞ」
マスターが立ち上がってチョークを床に叩きつけると、描き込まれた銀色の魔方陣が、意思を持つかのように激しい光を放ち始めた。次の瞬間、爆煙と共に、甘く刺激的な、それでいてどこか冷ややかな香水の香りが店内に充満した。
「ああ! なんてこと! この埃っぽい空気と安っぽい木材の匂い! 私の繊細なインスピレーションが、一瞬で干からびてしまいそうだわ!」
煙の中から現れたのは、ナイトパープルの鮮やかな髪をアシンメトリーに切り揃えた男だった。片目を隠す鋭い前髪の間から、鋭利なモノクルが光る。アルフレッドが思わず腕を構えて警戒すると、男は優雅に一歩前へ出た。
「お初にお目にかかるわ、野蛮な勇者さん。私はサルトル。魔界の全ての美を糸で紡ぎ、ディアボロ様の正装を一手に引き受ける至高の服飾師よ!」
サルトルと名乗った男は、そのあと驚愕のあまり、ナイトパープルの髪を振り乱してマスターに駆け寄った。彼は魔法のメジャーを蛇のように操り、マスターの周囲を計測し始める。
「ディアボロ様! なんてコンパクトでキュートなサイズになっちゃって!」
「サルトル、無礼だぞ。……それより、この服をどうにかしろ。我が不甲斐ない下僕が、野蛮な力で洗濯したせいで、我が矜持がここまで縮小したのだ」
「洗濯? 誰よ、そんな衣類に対する大虐殺を行ったのは!」
サルトルが、血走った目で店内を見渡す。アルフレッドが「俺です」と手を挙げると、サルトルはアルフレッドに詰め寄り、逞しく鍛えられた小麦色の二の腕を、舐めるように凝視した。
「……なんてこと。この野蛮な筋肉、暴力的なまでの生命力! あなた、この腕で魔界の至宝を揉んだの? 石鹸水にぶち込んで、雑巾みたいに!」
「あ、はい。泥汚れがひどかったので、ついガシガシと」
「……信じられないわ! 芸術に対する究極の冒涜! でも、……でも、この筋肉のライン、オーダーメイドしがいのある最高のキャンバスじゃないの……!」
サルトルの瞳に、狂気に満ちた火が灯った。アルフレッドはそっと逃げようとするが、彼はアルフレッドの肩をがっしりと掴み、熱烈にディアボロに提案した。
「ディアボロ様! 良いことを思いつきましたわ! あなた様の正装を直すついでに、この野蛮な下僕も、私の手で仕立て直してあげましょう!」
「ふん……。名案だな。我の隣に立つ者が、いつまでもそんな簡素な格好でいるのは我の美学に反する。……アルフレッド、そこでじっとしていろ」
「え? いや、俺は動きやすい今の服で」
「黙れ、アルフレッド。これは王命だ」
そこからは、まさに嵐のような時間だった。サルトルが空中から魔紡の糸を紡ぎ出し、店内の空気を熱く染め上げる。彼は縮んだ燕尾服に魔界の蒸気を当て、丁寧に繊維の並びを揃えていき、小さいままの燕尾服は柔らかく綺麗に整えられる。
「ほら、この小さな燕尾服は記念に残しておいてあげるわ。ディアボロ様の愛くるしい記憶の結晶よ!」
サルトルがミニサイズの燕尾服を掲げた瞬間、なぜか扉を蹴破って入ってきたルシウスが、その場に崩れ落ちた。
「サ、サルトル殿……! それだ、それこそが私が求めていた至宝! 私が私費を投じて、店の中央に完全防御仕様の展示ケースを設置しましょう!」
美学をぶつけ合うサルトルとルシウス。その横で、アルフレッドはサルトルによってモデル立ちをさせられ、全身を締め上げられていた。
「さあ、背筋を伸ばして! その小麦色の二の腕に、魔界のサテンを巻き付けた時に、最も美しく影が落ちるように計算してあげるわ!」
そして、ついにその時が来た。店内を漆黒と銀の光が満たし、サルトルは陶酔しきった表情で、その魔法の鋏を虚空で鳴らした。
「さあ、目覚めなさい! 私が贈る、至高の闇の衣を!」
光が収まった中心に立っていたのは。威厳ある長身に戻り、元の燕尾服よりも深く、鋭い輝きを放つ漆黒を完璧に着こなした、新たなる装いのマスターがそこにいた。
そして、アルフレッドはいつの間に瞬間移動したのか、ディアボロの隣に控えるように立っていた。彼が纏っているのは、深い漆黒を基調とし、金糸の刺繍が施された特製のコックコートだ。
魔界の素材は、アルフレッドの小麦色の肌を、まるで熱を帯びた大地のように引き立てていた。特に、捲り上げた袖の設計は、彼が腕を動かすたびに筋肉が最も逞しく見えるようになっている。
「……ふん。ようやく、我が淹れさせた茶を運ぶに相応しい下僕になったな」
マスターは、満足げにアルフレッドを見下ろすとスッと背を向けた。その瞬間、新調された燕尾服の長い裾が、生き物のように優雅にしなやかに揺れた。まるで、主の機嫌の良さを表す尻尾のように、ゆらゆらと空気を撫でる。マスターは、その裾の感触を確認するように、わずかに腰を振って裾を遊ばせた。その猫のような仕草に、アルフレッドは思わず吹き出しそうになった。
サルトルとルシウスが、展示ケースの予算について言い合いながら店を去り、ようやく静寂が訪れる。床にはマスターが一生懸命描いた魔方陣のチョーク跡が、まだ少しだけ白く残っていた。
アルフレッドは、エプロンの裾に触れていたときと同じ仕草を、マスターが無意識にしているのを見て微笑んだ。
「マスター。元の姿に戻ったのに、さっきからずっと、俺の服の裾……触ってませんか?」
「……なっ! 貴様、何を!」
マスターは反射的に手を引こうとしたが、その大きな指先は確かに、アルフレッドの新しくなったコックコートの生地を愛おしむように掴んでいた。ちびディアボロだった時に感じた、あの小麦色の腕の温もりを、彼の体はまだ求めていたのだろう。
「いいですよ。今日は新しい服のお祝いですから、好きなだけ触っててください」
アルフレッドは動きやすくなったコックコートを確かめながら、マスターのために最高の一杯を淹れた。カウンターの隅では、ミニ燕尾服が輝いている。二人の間に流れる時間は、これまで以上にほかほかとした熱を帯びていた。
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