第15話 『魔王の焦燥と、二人だけの祝祭』
※ディアボロ視点
我が城である『キッチン・ブラン』に、不愉快な余韻が残ったのは昨日のことだった。掃除婦として雇い入れたあの金縁眼鏡の小娘、レンが、帰り際に余計な爆弾を落としていったのだ。彼女は鼻先からずり落ちた眼鏡を指で押し上げ、厨房で小麦色の腕を振るう下僕へ、銀の刺繍が施された白絹の包みを差し出した。
「アルフレッド様。明日はお誕生日ですよね。一日早いですが、私からの感謝を込めてこれをお贈りします」
その包みから漏れ出たのは、聖堂の奥深くに秘蔵される宝具にも似た、清冽な加護の気配。中身は、古の霊木で丁寧になめした暗褐色の革の腕抜きだった。
あろうことかアルフレッドは、それを嬉しそうにその逞しい小麦色の腕に装着し、まるで宝物でも手に入れた子供のように相好を崩したのだ。
我はカウンターの奥で、指先に力が入りグラスが軋むほど握りしめ、その光景を苦々しく見つめることしかできなかった。我が胸の内で燃えるような苛立ちが、磨き上げたグラスの表面に赤い光を投げかけていた。
そして今日。カレンダーの数字が、あの男の生誕の日を刻んでいる。店は週一の掃除婦も不在、客の入りも落ち着いた、静寂に包まれた夜を迎えていた。
厨房からは、規則正しい包丁の音が響いている。アルフレッドは、昨日の今日だというのに、あの小娘から贈られた聖なる腕抜きを誇らしげにつけて、いつも通り小麦色の腕を躍動させていた。
「……ふん。貴公、その腕に巻き付いた汚らわしい聖なる気配を、いつまで見せびらかしているつもりだ」
我はカウンターに頬杖をつき、不機嫌を隠そうともせずに言い放った。銀髪が肩に落ちる感触と、薄明かりに温められた肌の気配を感じながら、懐に忍ばせた漆黒の箱の重みを確かめる。
「汚らわしいなんて。これ、本当に使い心地が良いんですよ、マスター。腕が軽くなって、いくらでも料理が作れそうな気がします」
アルフレッドは、小麦色の腕を回して笑ってみせた。その無邪気な笑顔が、我のプライドをこれ以上なく逆撫でする。掃除婦風情に、我の胃袋を預ける男の心と体を、一歩先に甘やかされたという事実。魔王として、これを上回る「真実」を突きつけねば、我の存在意義が揺らぐ。
我は昨夜、私室で一睡もせずに宝物庫をひっくり返した。龍の逆鱗、神を眠らせる竪琴、あるいは不老不死の果実。だが、どれもあの逞しく温かい小麦色の腕には不釣り合いだった。
我は結局、自らの指先を切り、魔界の深淵から引き上げた無銘の魔鋼に、我が加護を直接注ぎ込んだ。白い肌から流れる滴が刃に意志を宿すまで、我は一刻も休まず魂を削り、魔力を注ぎ込み続けたのだ。
今、我が懐にある箱から、その執念が漂っているのを感じる。
「……アルフレッド、手を止めろ。貴公に、真に相応しきものが何かを教えてやる」
我は立ち上がり、カウンターの上に漆黒の箱を音もなく置いた。アルフレッドが「マスター?」と不思議そうに手を止め、小麦色の腕を拭いながら歩み寄ってくる。
我は白磁の指先で、静かに箱を開いた。中から現れた魔鋼の包丁は、周囲の光をすべて吸い込み、深淵の底で揺らめくような怪しくも神聖な輝きを放っていた。
「それは、我が自らの白磁の手で打ち直した、魔鋼の包丁だ。レンの持ってきた腕抜きが『盾』に対するならば、これは万物を切り拓く『矛』だ。貴公のその小麦色の腕が持つ技術を、極限まで引き出すために誂えた」
我は胸を張り、期待と自信が混ざり合った熱を帯びながら彼の反応を待った。
「……これは、信じられない。マスター、あなたがこれを、俺のために?」
アルフレッドは、言葉を失って立ち尽くした。
月光を宿したような白い刃先に、彼の小麦色の肌が反射している。彼は震える手で、その吸い付くようなグリップに触れた。その瞬間、魔鋼が主を得たことに歓喜し、刀身が微かに鋭い共鳴音を上げた。我の視界に映る彼の瞳には、我が注ぎ込んだ魔力の赤が、反射となって揺らめいているはずだ。
「ふん。当然だ。我が城に相応しいのは至高のみ。掃除婦の贈り物にばかり見惚れていては、我の食卓が疎かになるからな。だが勘違いするな、我はただ、貴公の腕が鈍るのを防ぎたかっただけだ」
アルフレッドは、聖なる腕抜きを巻いた小麦色の腕で、その魔鋼の包丁を力強く握りしめた。聖なる腕抜きと、魔王の矛。矛盾する二つの力が、彼の小麦色の腕の上で奇跡のような調和を見せている。
彼は我を見つめ、これまでに見たこともないほど、深い尊敬と喜びが混じった笑顔を見せた。
「ありがとうございます、マスター。この腕抜きで腕を護り、あなたのくれたこの包丁で、最高の料理を作ります。……俺、今この瞬間、世界で一番の幸せ者かもしれません」
「……ふん、そうか。ならばとっとと厨房へ戻れ。我の腹は、すでに最高の一皿を求めている。貴公の言葉など、皿の上で語れば良い」
我は再びカウンターに座り、彼から見えぬ場所で、微かに震える手を隠した。誰かのために、これほどまでに思案し、自らの加護まで捧げたことなど、我が永い生涯において一度たりともなかった。
だが、厨房から聞こえてくる、今までにないほど鋭く澄んだ包丁の音と、アルフレッドの小麦色の腕が躍動する気配を感じていると、我の胸の奥には、どんな至宝を手に入れた時よりも深い充足感が満ちていき、自然と口角が上がる。
レンの贈った聖なる腕抜き。我が贈った魔鋼の包丁。どちらがより彼を喜ばせたかなど、もはや問う必要もなかった。あの男は今、二つの加護を纏い、我だけのために祝祭を生み出している。
「……ふん。悪くない」
我は独りごちて、目を閉じた。瞼の裏には、先ほど見たアルフレッドの誇らしげな小麦色の腕と、我が贈った刃の煌めきが焼き付いている。
磁器のように白い肌の魔王と、それを支える小麦色の腕の料理人。この静寂に満ちた聖域で、二人の絆が、また一つ、名もなき記憶として刻まれていく。今宵の料理は、きっと、どんな魔力よりも深く我を酔わせるに違いない。
窓の外では、月が静かに二人を見守っていた。昨日の掃除婦の騒々しさも、今は遠い夢のようだった。ここには、完成された調和と、至高の味だけが存在していた。
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