第11話 『鏡の中の他人と、聖女の突撃』
王都の職人街に届く朝の光は、今日も平穏な幕開けを告げるはずだった。しかし、その日の『キッチン・ブラン』の厨房には、割れんばかりの絶叫と、その後に続く心臓が止まるような沈黙が立ち込めていた。
事の始まりは、ディアボロが魔界の倉庫の奥から、禍々しい装飾の施された真鍮製の姿見を掃除しようとしたことだった。鏡の表面を彼が磨き上げた瞬間、眩い紫色の閃光が店内を包み込んだのだ。
「なんだ。視界が、異様に高いぞ」
俺、アルフレッドは、問題の鏡を目の前にし、声を漏らした。だが、その声は自分の聞き慣れた野太いものではなく、地を這うような重低音でありながら、どこか冷徹で高貴な響きを帯びていた。
視線を下に落せば、そこにあるのは小麦色の逞しい腕ではなく、磁器のように白く、細長い指先だ。漆黒の燕尾服を纏ったその体は、紛れもなく俺のマスター、ディアボロのものだった。
「おい!! 貴様、何をした! 我の、我の気高い肉体が、なぜこのような汗臭い小麦色の塊に変わっているのだ!」
目の前で、俺の姿をした男が、俺の声で叫び声を上げていた。彼は慣れない肉体の重さに翻弄されるように、バタバタと手足を動かし、近くの調理台に小麦色の腕をぶつけて「痛っ」と情けない声を上げている。
中身がディアボロであるその男は、信じられないものを見るような目で、自分、すなわち俺の姿を見つめていた。
「マスター、落ち着いてください。どうやらあの鏡の魔力で、俺たちの精神が入れ替わってしまったみたいです」
俺はディアボロの麗しい体を動かそうとしたが、その瞬間、全身を突き抜けるような凄まじい魔力の奔流に、思わず目眩を起こした。
魔王の肉体は、存在しているだけで周囲の空間を歪めるほどの圧力を放っている。さらには、何もしなくても喉の奥から「ぐるる」という、あの独特の重低音が勝手に響き渡るのだ。精神が俺であっても、肉体に刻まれた猫の本能までは制御できないらしい。
「落ち着けるか! 貴様のこの腕、重すぎる! それに、なんだこの胸の内に沸き起こる、不気味なほどの正義感と善意は! 我の魂が、貴様の清廉潔白な精神に晒されて死んでしまうぞ!」
「それは俺が元々持っている気質ですよ。魔王の魂には刺激が強すぎるのかもしれませんね。でも、文句を言いたいのは俺の方です。この体、勝手に喉が鳴るし、爪がいつ飛び出してもおかしくないくらい指先がムズムズするんですから」
俺たちは互いの姿を見つめ合い、深い溜息を吐いた。鏡の魔力が回復するまでは、この状態で過ごすしかない。そう覚悟を決めた瞬間、店の扉がバーン! と勢いよく開き、眩いばかりの聖なる光が店内に差し込んできた。
「アルフレッド様!! お迎えに参りました! あなたを弄ぶ邪悪な存在を、今日こそ神の御名において排除いたします!」
そこに立っていたのは、黄金の杖を握りしめ、瞳に不退転の決意を宿した聖女エレンだった。最悪のタイミングだ。今のアルフレッドは中身が魔王で、今の魔王は中身がアルフレッド。エレンの目は、期待に満ちた表情で俺の姿をしたディアボロに向けられている。
「ぽ、ポンコツ聖女!? なぜここにおるのだ!」
俺の姿をしたディアボロが、俺の声で驚愕の声を上げた。だが、その立ち振る舞いは勇者のものではなく、傲慢な王そのものだった。彼は小麦色の腕を組み、不遜な態度でエレンを睨みつけた。
「おい、小娘。騒々しいぞ。我……いや、俺の店で大声を出すな。今すぐ立ち去らねば、その杖を薪にしてかまどに放り込んでやるぞ」
「……」
エレンの動きが止まった。彼女の憧れる高潔な勇者アルフレッドが、自分を「小娘」と呼び、杖を薪にすると脅している。そのあまりの変貌ぶりに、彼女は絶望に染まった表情であとずさった。
「アルフレッド様。そんな、あなたの瞳に宿るその禍々しいまでの不遜な輝き。やはり、このオーナーに魂を売り渡してしまったのですね! あなたはもう、私の知っているアルフレッド様ではないのですか!」
エレンが涙を浮かべながら、背後に立つ俺に向けて杖を構えた。杖の先には、魔族を一分子も残さず消滅させる超高火力の光が収束し始めている。今の俺は魔王の肉体だ。これを喰らえば、一瞬で灰になる。
「待て! 違うんだエレン! 彼は……アルフレッドは、ちょっと今、情緒不安定なだけで」
俺はディアボロの重厚な低音ボイスで必死に否定したが、その声にすら魔力が宿り、空気を震わせてしまう。エレンの瞳には、愛する仲間を誘惑した邪悪な魔王が、勝ち誇って言い訳をしているようにしか映っていない。
「黙りなさい、悪魔め! アルフレッド様を返しなさい! 大聖光破!!」
「ちょ、マスター! 避けて! いや、俺の体だから傷つけないで!」
俺の姿をしたディアボロは、勇者の肉体の驚異的な反射神経で、飛来する光の弾を間一髪で回避した。彼は小麦色の腕を使い、厨房のフライパンを盾にしながら叫んだ。
「貴様! 我……いや、俺のこの完璧な肉体に傷をつけようものなら、一生セロリしか食わせぬぞ!」
「その言葉のチョイス、やはりあなたはアルフレッド様ではありませんね! 中身を入れ替えたのですか!? 卑劣な、どこまでも卑劣な魔王め!」
エレンの勘が、ここに来て鋭く冴え渡った。彼女は俺に向けて、さらなる魔法を放とうとする。俺はディアボロの肉体に宿る魔力を必死に制御しようとしたが、極限の緊張状態で、ついに肉体の本能が爆発した。
「ぐるる!!」
喉の奥から、自分でも驚くほどの大きな喉鳴りが響き渡る。同時に、指先からシャキッと黒い爪が飛び出し、俺は反射的にエレンの放った魔法を、その爪で斬り裂いて霧散させてしまった。
「あ、やべ」
俺が呆然としていると、エレンは驚愕し、その場に膝をついた。
「魔法を素手で消すなんて。それに、今のその鳴き声。まさか、あなたは魔王などではなく、高位の魔獣に憑依されているのですか!?」
「いや、違うんだ、これはその」
「いいえ、分かっています! 苦しいのですね、アルフレッド様! 今、その悍ましい肉体からあなたを解き放ってあげます!」
エレンはもはや対話不能な状態に陥っていた。このままでは店が、俺の肉体が、そしてディアボロのプライドが完全に破壊される。俺は一か八か、ディアボロの体を使って、勇者として「説得」を試みた。
俺はゆっくりと歩み寄り、エレンの前に跪いた。魔王の麗しい顔に、勇者としての慈愛に満ちた笑みを浮かべる。これは非常に表情筋に負担がかかる作業だったが、背に腹は代えられない。
「エレン。俺を信じてくれ。俺は今、一時的にこの姿になっているけれど、心は変わっていない。君と一緒に世界を救った、あのアルフレッドだ。頼む、俺を見てくれ」
俺が彼女の手を優しく握ると、エレンの体がビクンと震えた。魔王の冷たい手のはずなのに、そこから伝わる温かな魂の鼓動が伝わったのか、彼女の瞳から涙が溢れ出し、杖が床に落ちて大きな音を立てた。
「この温もり、この熱い思い。やはり、アルフレッド様なのですね。でも、どうして、どうしてそんなにお耳が三角で、そんなに喉を鳴らしているのですか」
「これは、その……最新の修行法なんだ。ほら、マスターも、反省して俺の代わりに肉を焼いてるから」
俺が指差した先では、俺の姿をしたディアボロが、不機嫌そうに、しかし完璧な手つきでステーキを焼き上げていた。
そんな彼は小麦色の腕を振るいながら、ボソリと呟いた。
「ふん。小娘、騒ぎすぎだ。我……俺の焼いた肉を食って、大人しく聖堂へ帰るが良い」
エレンは混乱しつつも、差し出されたステーキの味に感動し、その美味しさに号泣しながら完食した。彼女が去っていった後、店内にようやく静寂が戻った。
夕暮れ時、鏡の魔力が再び満ち、紫色の光が二人を包み込む。
次に目を開けた時、俺の視界は元の高さに戻り、小麦色の腕には心地よい疲労感が宿っていた。
「ふう……やっと戻った。エレンのやつ、次に来た時は何をしでかすか分かったもんじゃないな」
「貴様、我の美しい肉体で、あのような小娘に媚びを売るとは。一分子の矜持もないのか。おかげで我が、貴様の体で腰を低くして接客せねばならぬ羽目になったではないか」
ディアボロは元の麗しい姿に戻り、燕尾服を整えながら、不機嫌そうに紅茶を淹れた。だが、その喉の奥からは、まだ興奮が冷めないのか「ぐる」という音が小さく漏れていた。
「いいじゃないですか。おかげで店も、俺の体も無事でした。それに、あんたの焼いた肉、エレンが絶賛してましたよ。勇者の肉体に宿った魔王の技術、まさに最高の料理人だったんじゃないですか?」
「ふん。貴様の腕が、案外使いやすかっただけだ」
俺たちは互いに顔を見合わせ、言葉少なに笑った。入れ替わってみて初めて分かった、互いの重み。ホワイトな職場とは、単に環境が白いだけではなく、こうして絶体絶命のピンチを共に乗り越え、少しずつ秘密を共有していく場所なのかもしれない。
俺は再び包丁を握り、小麦色の腕で夜の仕込みを始めた。隣では、鏡を倉庫の奥深くに封印したディアボロが、上機嫌で燕尾服の尻尾を無意識に振っているのを、俺は見逃さなかった。
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