狼の王子 最強の世界ライト級王者 ロベルト・デュラン(1951~)
デュランのことはライト級統一王者になった頃に、ボクシングとは無関係の雑誌の記事で知った。その記事が印象に残っていて、ボクシングに本格的に興味を持ち始めた時、一番気になりフォローしていた外国人ボクサーがデュランだった。その頃はウエルター級でむしろクレバーなファイターという感じだったが、リングでの立ち姿、存在感が他とは一線を画していた。デュランと比べたら、ガッツ石松や具志堅用高もせいぜい名脇役という役どころだった。
ロベルト・デュランはパナマシティのスラム街チュリオ地区で生まれ育った。パナマ人にしては白人に近い顔立ちをしているのは、父がメキシコ系アメリカ人三世だったからである。両親は正式に籍を入れておらず、父親はデュランが一歳の時に出奔したため、下の六人の異父弟妹とは顔つきが違う。
子供の頃から家計を支えるため、靴磨き、新聞売り、漁師とあらゆる仕事に就いてきたが、貧しさゆえにかっぱらいをして補導されたことも一度や二度ではない。最初のマネージャーとなったパナマの実業家カルロス・エレタとの出会いも、腹を空かせたデュランがエレタ邸に忍び込み、庭に生い茂っているココナッツの実を盗もうとして捕えられたのがきっかけだった。デュラン十一歳の時のことである。
エレタとロベルトは何か惹かれあうものがあったのだろう。すっかり意気投合してしまった。
四年後、アマチュアボクシングを始めたロベルトの試合を観戦に行った時、エレタはボクサーとしての才能を確信し、マネージャー契約を結んでいるが、ストリートファイトでは無敵のデュランもボクシングとなると完全な自己流で、この頃はただ闘争心だけで戦っていたという。
アマで十三勝三敗(八KO・RSC)の成績を残したロベルトは、一九六七年三月八日、十五歳で初めてプロのリングに立ち、カルロス・メンドサと対戦する。
後に「石の拳」の異名を取るデュランのこと、さぞかし派手なデビューかと思いきや、メンドサの歯を殴ってしまい骨が指の皮を破って飛び出すほどの重傷を負っている。それでも棄権せずに四ラウンドを乗り切って判定を拾ったのは根性以外の何物でもない。
それにしても後に伝説を作る石の拳が、栄えあるプロ一戦目から壊れてしまったというのは何とも皮肉な話である。しかし、この試練を乗り越えてからのデュランは凄かった。一九六八年までの十試合に全勝、そのうち九試合はKOで決めているが、一ラウンドで終わらせた試合が八度もある。まさしく当たりさえすれば倒せる凶器の鉄拳だった。
連勝を続けるデュランは一九七〇年五月、後にWBAフェザー級チャンピオンになる同国人ライバル、エルネスト・マルセルを九ラウンドでナックアウト。これで十九戦全勝(十五KO)となり、翌月のWBA世界ランキングでフェザー級十位にランクされた。まだ十八歳の若さだった。
この時期の世界ランキング表を見渡すと壮観である。フェザー級チャンピオンは西城正三で、一位にはカムバックしてきたビセンテ・サルディバルの名が見える。そしてデュランのすぐ上の九位があのエデル・ジョフレなのだ。サルディバル、ジョフレ、デュランはともに後年、階級別の歴代王者十傑に名を連ねるレジェンドボクサーだけに、この三人の揃い踏みというのは凄い(その頂点が、我が日本の西城というのも泣かせるが)。
しかも一階級下のバンタム級チャンピオン、ルーベン・オリバレスも減量苦からノンタイトル戦はフェザー級リミットで行うようになっていたため、マッチメーク次第ではこの四名によるバトルロワイヤルの可能性もあったと思うと、サルディバル対ジョフレ戦以外は実現しなかったことが何とも惜しまれる。
デュランは後にレナードやハグラーと名勝負を繰り広げているが、彼らとの一戦は試合の焦点が駆け引きの妙にあったことに比べると、天性のナックアウト・アーティストであるサルディバル、ジョフレ、オリバレスが相手ならKO決着しか想像がつかない。少なくとも前者とは段違いに迫力のある試合展開になっていたことは間違いないだろう。
成長するにつれJ・ライト、ライトと階級を上げていったデュランは、その間もずっと世界ランキングに留まってはいたが、ランキング下位ということもあって、ファンの認識はパナマのローカルファイターの域は出なかった。
そんな彼が本場アメリカのボクシングファンからの注目を浴びるきっかけとなったのが、ケン・ブキャナン対イスマエル・ラグナのWBA世界ライト級タイトルマッチのセミファイナルで激突したベニー・ヒュータス戦である(一九七一年九月十三日)。
世界ライト級六位のデュランは十六戦無敗のヒュータスを最初のラッシュで一気に攻め落とし、わずか六十六秒で秒殺。ライオンが人間に襲いかかるような残酷なシーン目の当たりにし、常軌を逸したヒュータスの恋人が突然にリング駆け上がりデュランの横っ面を張り飛ばす一幕もあったこの試合、リングサイドで観戦していたロッペ・サリエル(フィリピンの大物プロモーター)も「チャンピオンのブキャナンでも、下手をすれば吹っ飛ばされる」とそのラッシングパワーに驚きの色を隠せなかった。
次の対戦相手は前WBA世界J・ライト級チャンピオンの小林弘。芸術的な右クロスカウンターを武器とするクラス屈指の技巧派は過去最強の対戦相手だった。
名伯楽レイ・アーセルをトレーナーに迎えたデュランはこれまでのラッシュ戦法に加えて、クレバーさも身につけていた。この試合、右クロスを警戒するデュランはオーソドックスな戦法で足を使いながら冷静に小林に対峙。小林も敵地にもかかわらずジャッジの一人が六ラウンドまでイーブンと採点したほどの善戦を見せたが、七ラウンドに石の拳の集中砲火を浴び玉砕した。
一九七二年六月二十六日、三十戦全勝(二十五KO)の二十歳の若獅子はボクシングの殿堂MSGのリングに登場した。対するはWBA世界ライト級チャンピオン、ケン・ブキャナン(英国)である。
一ラウンドからたたみかけるようなラッシュで王者の度肝を抜いたデュランは早くも先制のダウンを奪うが、その後は冷静なアウトボクシングに徹する王者を捉えきれず迎えた十三ラウンド、終了のゴングにも気づかずに両者が打ち合っている最中にデュランのパンチを下腹部に受けたブキャナンは悶絶したままカウントアウト。
ローブローと言われてもおかしくないほど微妙なパンチだったが、判定は覆らなかった。
ブキャナン戦の勝利は拾い物だったが、運命の女神とは気まぐれなもので、四ヶ月後、ワーゲンを運転中のデュランは追突事故を起こし、顔と右肘を負傷した。
この影響で一週間後に予定されていたカルロス・オルチス(元ライト級王者)との試合をキャンセルするが、練習不足のまま臨んだMSGでのエステバン・デ・ヘスス戦(十一月十七日)では、一ラウンドに出会い頭のカウンターでダウンを奪われた挙句にうまくポイントアウトされ、判定を失った。
試合後、エレタやアーセルとレストランで食事中にデュランは悔しさのあまり突然泣き出したという。どんな対戦相手でも恐れることなく常に強気だったデュランがスタッフの前で見せた初めての涙だった。
一九七四年三月十六日、すでに三度の防衛に成功したデュランは宿敵エステバン・デ・ヘススを迎えて四度目の防衛戦に挑んだ。
とにかく早く倒したい一心のデュランは一ラウンドから猛攻をしかけるが、またもやヘススのロングフックを顎に浴びて膝から崩れ落ちた。しかし、前回と違ってベストコンディションで臨んでいるだけにすぐさま立ち直り、じわじわと反撃を開始する。
一方のヘススはデュランを倒せる自信があったのか、激しい打ち合いに付き合ってしまったのが運のつきだった。七ラウンドにダウンを奪い返されたヘススはそのまま失速し、十一ラウンドに右クロスでマットに沈められた。
ライト級時代のデュランは、それはもう強かった。ラッシュ時の迫力も凄かったが、それ以上に印象に残っているのはステップインの速さである。
ジャブで様子を見ているかと思った次の瞬間、鼻同士がぶつかりそうな距離まで体を寄せてボディアッパーを突き上げているところなど、まるでコマ落としをしているかのように見えたものだ。あのスピードでインサイドに飛び込まれたら、よほどの動体視力の持ち主でもない限りカウンターで迎撃するのは至難の業だろう(全盛期のヘススはそのスピードを見切ることが出来た)。
ヘスス戦の後、高山将孝を迎えた五度目の防衛戦では、「俺より強いやつがいることが許せない」という理由でボクシングを始め、十七歳で東京オリンピックに出場した天才肌のエリートを試合開始から一〇〇秒でそのプライドもろとも木っ端微塵に打ち砕いた。
WBC王者のガッツ石松より上と言われた高山のディフェンスも、石の拳の前では砂上の楼閣に過ぎなかった。相手が動く方向にナチュラルに反応して放つパンチの命中精度が高く、二階級くらい上のボクサーでも吹っ飛ばす衝撃力である。一発もらった時点で高山は今宵の自分の運命を悟ったに違いない。
猫科の捕食獣のように隙を見計らってしなやかな動作で獲物を仕留めるのとは違って、掛け引き抜きで正面から一気に襲いかかり、急所に牙を突き立てる狼のような獰猛さが若き日のデュランにはあった。
六年近くもライト級王座に君臨し続けたデュランは、減量苦を理由にウエルター級に転向するまで王座を防衛すること十二度、そのうち十一度はKOで片付けている。
連続KO防衛の世界記録は後にJ・フェザー級チャンピオン、ウィルフレド・ゴメスが記録した十七だが、これは新設後間もない選手層の薄い階級での記録であり、統一王者でもなかったことを考えれば、デュランの十連続KO防衛(当時の世界記録)もそれに匹敵する快記録と見て差し支えないだろう。
デュランが統一王者になったのは十二度目の防衛戦だが、当時のWBC王者はかつてKOで決着をつけたライバルのヘスス(防衛三回)であり、その前のWBC王者はかつてKOで退けたことのあるガッツ石松(防衛五回)だったため、この時期デュランがライト級最強だったことは誰もが認めるところだった。
デュランがJ・ウエルターを飛び越えて一気に二階級も上げたのは、年齢的なこともあるが、練習嫌いのうえ、酒とスイーツに目がない本人の自制心の無さによるところも大きい。
この頃のデュランはエレタやアーセルですら御せないほど天狗になっており、金と地位に群がってきた遊び仲間たちの誘惑に勝てなかった。油断するとライトヘビー級リミットまで増えてしまうため、ひどい時は二十キロもの減量を強いられたこともあるという。
それでもパスカル・ペレス、シュガー・ラモス、ルーベン・オリバレスといったラテン系天才ボクサー特有の破滅型人生を歩まなくて済んだのは、デュランに家族愛があったからである。自身の妻子だけでなく母や弟、妹たちを心から愛していたデュランは、試合に負ければ現在の生活を維持できないという自覚だけは持ち続けた。
ウエルター級に上げても順調に勝ち星を重ねたデュランは、一九八〇年六月二十日、中量級最高のスーパースター、シュガー・レイ・レナード(WBC世界ウェルター級チャンピオン)と対戦する。
モントリオール・オリンピック、ライトウェルター級金メダリストを手土産にプロ入りした際は、プロモーター、TV局が争奪戦を繰り広げただけあって、デビュー戦のファイトマネーが六回戦で六万ドルという破格の待遇だった。
派手なパフォーマンスとめくるめくスピード、新時代のヒーローの要素を漏れなく備えたレナードは期待通りの活躍を見せ、デビューから三年足らずで“怪童”ウィルフレド・ベニテスを十五ラウンドKOで粉砕し、世界ウエルター級の頂点に立っていた。
ライト級歴代最強の声が高いデュランもウエルターではKOパンチも不発気味で、体重が重くなったぶん全盛期ほどのスピードもない。戦績こそ七十三勝一敗(五十三KO)と立派でも、全盛期を過ぎた彼ではレナードのスピードについてゆけないだろうというのが大方の見方だった。
序盤はデュランがリードした。二ラウンドにはクリーンヒットでレナードをぐらつかせるシーンも見られたが、後半は両者一歩も引かず激しい打ち合いを展開。プライドの高いレナードはアウトボクシングを捨ててデュランを倒しにかかったのが失敗だった。ショートレンジでの打ち合いでは分のあるデュランに誘い込まれてポイントを失ったレナードは、小差の判定負けで初黒星を喫した。
二階級制覇に成功したデュランは三日後、パナマの英雄として大統領専用機で凱旋帰国した。パナマ中がデュランの勝利に喝采を送る中、デュランが帰国した六月二十三日は「ロベルト・デュランの日」として国民の祝日に定められた。
思えばデュランのピークはここまでだったのかもしれない。ファン待望のレナードとの再戦(十一月二十五日)では史上最高の二十一億円というファイトマネーを手にしながら、レナードのヒット・アンド・アウェー戦法に攪乱されているうちに試合に嫌気が差し、八ラウンド途中に「ノー・マス(もうたくさんだ)」とレナードに背を向け試合を放棄してしまった。
公式発表は胃痙攣による途中棄権ということだったが、ファンは納得するはずもない。
この醜態に、長年苦楽を共にしたマネージャーのエレタは潔くリングを去ることを勧めたが、三階級制覇を目指すデュランはこれを拒否し、一九八二年一月三十日、ウィルフレド・ベニテスの持つWBA世界J・ミドル級王座に挑むが、ベニテスのスピードについてゆけず十五ラウンド判定負け。
その後、無名のカークランド・レイングにも敗れ、遂に英雄は過去の人に成り下がってしまった。
レイング戦はエレタの反対を振り切っての出場だったため、さすがのエレタも、もうこれ以上は面倒を見切れないとデュランの元を去っていった。トレーナーのアーセルとブラウンもエレタに続き、デュランで大儲けしたプロモーターのドン・キングにまで商品価値を見限られてしまった。
困り果てたデュランが頼ったのが、ルイス・スパダだった。過去に大勢の世界チャンピオンを育てたスパダだったが、ちょうど持ち駒の選手の中に世界チャンピオンがいなくなっていた時期だけに、お互いにとって渡りに船だった。
新マネージャーとなったスパダとともに、ドン・キングのライバルに当たるトップランク社のボブ・アラムがデュランの再起プログラムに着手することになった。
アラムはデュランのプロモートを持ちかけられた時、こう答えたという。
「デュラン?彼はまだ使えるよ。本気になったらあいつに勝てる奴はいない」
デュランには三階級を制覇出来る余力があるとみたアラムは、テストマッチとして前WBA世界ウエルター級チャンピオン、ピピノ・クエバスとの対戦を用意した。
「ヤングライオン」の異名を取るクエバスは、十八歳の若さで世界王座に就き、タイトルを防衛すること十一度、そのうち十回をKOで終わらせている早熟のハードパンチャーである。
トーマス・ハーンズにKOされてタイトルを失ったとはいえ、まだ二十五歳と若いクエバスとの対戦は危険な賭けだったが、ラストチャンスに賭けたデュランはこの強敵を四ラウンドKOで下し、三階級制覇の夢をつないだ。
一九八三年六月十六日、MSGでWBA世界J・ミドル級チャンピオン、デビー・ムーアに挑戦したデュランは体もみっちり絞り込み、ムーアより2・5ポンドも軽い体重でリングに立った。
プロ九戦目で三原正をナックアウトしてタイトルを奪ったムーアもデュランの前では完全に役不足だった。
序盤からボディー攻撃でプレッシャーをかけ続けるデュランは、動きも良く絶好調だった。七ラウンドに右フックで尻餅をつかせると、続く八ラウンドにはほとんど両目が塞がった王者を滅多打ちにしてレフェリーストップ。試合前から舌戦を繰り広げていた両者だったが、三冠を達成したデュランは「あんな奴チャンピオンの器じゃない」と吐き捨てた。
復活したデュランの次なるビッグマッチは統一ミドル級チャンピオン、“マーベラス”マービン・ハグラーとの四階級制覇を賭けた一戦だった(一九八三年十一月十日)。
しかし、誰が考えてもライト級上がりのデュランにはミドル級の不沈艦はさすがに荷が重い。デュランのKO負けを予想する声が多い中、勝敗は判定までもつれたが、ハグラーが“石の拳伝説”に気後れしたのか、詰めが甘かったことで、何とか最終ラウンドまで持ちこたえたという印象が強い。
また、この試合は史上初の二千万ドル興行と銘打たれており、ファイトマネーと興行収入の一部を加えるとデュランの取り分だけでも約八百万ドルと言われていた。そのためデュランは金のために名声を捨て、無謀な勝負を承諾したという声も聞かれたほどだ。
長いボクシングの歴史の中には、デュランより小柄であるにもかかわらずミドル級を制したミッキー・ウォーカーやカーメン・バシリオのような例もあるが、いずれも全盛時においての話だ。ところが、デュランはこれに懲りず、翌年六月十五日、WBC世界J・ミドル級チャンピオン、トーマス・ハーンズと対戦し、壮絶な二ラウンドKO負けを喫した。
初めてのKO負けにショックを受けたデュランは遂に現役引退を表明し、その三ヶ月後にはレナードも後を追った。これで一九八〇年代中量級スターウォーズの主役が二人消え、一つの時代が終わったかに思われた。
ところが「戦う男」デュランはグローブを外した生活がよほど寂しかったのか、一年半後に再びリングに戻ってきた。といっても、金も地位も名誉も手に入れた彼のこと、本格的なカムバックなどではなく格下相手にボクシングを楽しんでいるだけのようにしか見えなかった。
一九八七年、目立ちたがり屋のレナードが二度目の再起戦でハグラーに判定勝ちを収めて三冠を達成すると、翌一九八八年にはハーンズが史上初の四冠を達成(十月二十九日)した。するとわずか一週間後にはレナードがWBCライトヘビー級チャンピオン、ドン・ラロンデをKOして史上初の五冠王となった。
これを見て競争心にかられたデュランまでが四冠を目指し始めた時、周囲は本気にはしなかった。
歳は食っていると言ってもレナードやハーンズは三十代前半であり、体格的にもミドル級くらいまでなら十分通用するが、フェザー級上がりのデュランはウエルター級でも小柄な部類に入るうえ、すでに四十歳に近い“高齢”である。
WBC世界ミドル級チャンピオン、アイラン・バークレーとの世界戦が決まった時も、五年前のハーンズ戦の二の舞だと誰もが思った。なぜなら、バークレーは四冠を達成したばかりのハーンズを三ラウンドでナックアウトしてタイトルを奪い去った危険な相手だったからだ。
バークレーはこの時代きっての「番狂わせ屋」だった。人相こそ悪いが、少年時代からお人よしで喧嘩をしても負けてばかりだったというこの世界では珍しいタイプである。プロ入り後も長らく陽の当たる場所とは無縁だった彼の名が一躍知られるようになったのは、一九八六年のジェームズ・キンチェン戦からである。
世界王座を目指していた三十七勝一敗のキンチェンをスプリットで破ると、翌年にはこれまた世界チャンピオン候補のマイケル・オラジデをKOし、ハーンズへの挑戦権をつかんだ。過去の金星はあくまでもまぐれと見なされていたバークレーは、四冠王ハーンズの前では“咬ませ犬”的存在に過ぎなかった。ところが、バークレーの右はハーンズまで沈めてしまったのだ。
一九八九年二月二十四日のWBC世界ミドル級タイトルマッチは、「ブレード(刃)」の異名を取るバークレーが大方の予想通り、終盤まで優勢に試合を進めていた。
自慢の右強打こそ火を吹いていないものの、体格が違いすぎるためデュランのパンチはほとんどダメージを与えることが出来なかった。意外にポイント差が近いのはデュランの巧さでジャッジの目をごまかしているようなもので、力量的にはもっと差があるように見えた。
このラウンドを取ればチャンピオンの防衛は間違いないと思われた十一ラウンド終盤、デュランの左右六連発のコンビネーションが顎に炸裂すると、打たれ強いバークレーがダウン。まさに起死回生の一撃だった。最後の追い上げでスプリットながら判定を拾ったデュランは石の拳伝説に新たなページを加えた。
敗者バークレーはツキに見放されたかのように負けが込み、マイケル・ナンやナイジェル・ベンといった次代のスターたちの踏み台になってしまったが、一九九二年にまたしてもハーンズからダウンを奪う奇跡的勝利でライトヘビー級タイトルを獲得している。
また選手生活の晩年にはヘビー級にウェートを上げ、元WBC世界ヘビー級チャンピオン、ゲーリー・コーツィーにKO勝ちするなど、相変わらずの「番狂わせ屋」ぶりを発揮した。三十八歳でミドル級王座に就いたデュランの快挙も番狂わせだったが、“本家”には敵わない。
金も名誉も手に入れながら五十歳までリングに立ち続けたデュランは、よほどボクシングが好きだったのだろう。選手生活晩年のレナード戦やカマチョ戦は、野球でいうところのシニアオールスターのようなもので、ファンサービスの一環ならまだしも公式戦としてはお粗末だった。
やはり最強だったのはライト級時代で、個人的には歴代最強のライト級であると確信している。
生涯戦績103勝16敗(70KO)
ハーンズにKOされた時のデュランはホントにみじめったらしかったが、そのハーンズをおちょくってKOしたハグラーとの一戦の時は凛々しかった。長い選手生活で対戦した中で最も勝てる気がしない相手だったはずだが、臆することなく向かってゆく姿は後光が差しているように見えたものだ。




