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冬山

作者: 通りすがり
掲載日:2025/06/20

俺は友人の佐々木と二人で冬山登山をしていた。

山の中腹にある山小屋で一泊し、翌日に頂上を目指す予定だったが、翌日は午後から天候が崩れると予報が出ていたため、佐々木と相談し朝早くから登頂することにした。

翌日、まだ夜明け前の薄暗い中を出発し、昼前には頂上に辿り着くことができた。しかし、その頃には予報よりも早く天候は悪化し始めていた。白い雪が渦を巻き、空は鉛色に染まっていた。

下山を開始して間もなく、天候は急激に悪化の一途を辿った。猛烈な吹雪が視界を奪い、風は容赦なく身体を叩きつける。足元は雪に覆われ、踏み出す一歩ごとに不安が募った。次第に前に進むことが困難になり、遭難の二文字が頭をよぎる。俺たちは明確に、死の淵に片足を突っ込んでいることを感じていた。

「このままではまずい。どこかで風を凌げる場所を探さないと」

俺の声は、吹き荒れる風にかき消されそうだった。佐々木も険しい表情で頷き、周囲を見回した。その時、奇跡的に近くに小さな小屋があることに気づいた。雪に埋もれかけてはいたが、なんとか倒れることもなく風と雪の重さに耐えている。

藁にも縋る思いで、俺たちはその木造の小屋に近づいた。扉には鍵がかかっていないのか、力を入れるとギギ、と音を立ててゆっくりと開いた。躊躇うことなく、俺たちは冷たい風から逃れるように小屋の中に飛び込んだ。

小屋の中は、せいぜい十畳ほどの広さしかなかった。壁は剥き出しの木材で、隙間からは冷たい風が忍び込んでくる。床は土間で、湿っぽく、まるで冷凍庫の中のようだった。中央には古びた囲炉裏のようなものがあったが、火の気は全くない。ガランとした空間には、埃っぽい匂いと、どこか古びた木の匂いが漂っていた。

しかし、俺たちにはそんなことを気にする余裕はなかった。凍てつく寒さの中で体力を消耗しきっていた俺たちは、ただ風雪を凌げる場所を得られたことに安堵していた。

とりあえず寒さを少しでも和らげようと、部屋の隅で身体を寄せ合い、小屋の中にあったボロボロの薄汚れた毛布に包まった。それでも、骨まで凍みるような寒さは容赦なく俺たちを襲った。



どれくらいの時間が経っただろうか。疲労困憊の俺たちは、いつの間にかうとうとと眠りに落ちていたようだ。

ふと、背筋を撫でられるような、冷たい感覚で目が覚めた。

小屋の中の空気が、明らかに変わっていた。

先ほどまでの冷気とは違う、もっと重く、淀んだような気配が漂っている。そして、耳の奥で、かすかに、しかし確かに、女のすすり泣くような声が聞こえた。

「……うう……うう……」

隣で寝ていたはずの佐々木の姿が見えない。毛布だけが、そこに残されていた。

「佐々木…、どこだ」

小さく呼びかけてみたが、返事はなかった。ただ、すすり泣く声が、より近くで聞こえるようになった気がした。

不安に駆られ、俺は震える足で立ち上がった。小屋の中は薄暗く、隅々までは見えない。すすり泣く声は、まるで小屋全体から聞こえてくるようだ。

「誰だ…誰かいるのか」

声をかけても、返事はない。ただ、すすり泣く声が、俺の問いかけに応えるかのように、少し大きくなった。

その時、小屋の奥の一番暗い隅に、白い影のようなものがぼんやりと見えた。それは、うずくまっているように見えた。

「佐々木、そこにいるのか」

声をかけながら近づこうとした瞬間、背後から、氷のように冷たい手が、俺の肩に触れた。

「ひっ…」

情けなく悲鳴を上げ振り返ると、そこにいたのは佐々木だった。

だが、その表情は、俺が知っている佐々木ではなかった。顔は青白く、目は虚ろで、生気が感じられない。口元はわずかに開かれ、そこから聞こえるのは、先ほどから聞こえていた、女のすすり泣く声だった。

「佐々木…どうしたんだ」

俺が声をかけると、佐々木はゆっくりと顔を上げた。その目は、俺を見ているようで、どこか違う一点を見つめているようだった。そして、その口から、絞り出すような声が漏れ出した。

「……かえ……れ……」

それは、確かに佐々木の声だった。だが、その声には、深い悲しみと、強い拒絶の色が滲んでいた。

「何言ってるんだよ、佐々木。一緒に生きて帰ろう」

俺がそう言うと、佐々木は首を横に振った。その動きは、ぎこちなく、まるで操り人形のようだった。そして、再び、女のすすり泣く声が、佐々木の口から聞こえてきた。

「……ここ……は……わたしたちの……ばしょ……」

俺は、ただ理解を越えた何かが起こっていることに全身の血の気が引いた気がした。これは、佐々木ではない。何かが、佐々木に取り憑いている。

小屋の扉に目をやると、いつの間にか、薄暗い中にぼんやりと、女性の影のようなものが立っているのが見えた。長い黒髪が顔を覆い、表情は窺い知れない。だが、その存在からは、底知れない悲しみと、強い執念のようなものが感じられた。

俺は、恐怖で足がすくんだ。だが逃げなければまずい。

佐々木は、ゆっくりとこちらに手を伸ばしてきた。

「ひっ…」

俺は再び情けなく悲鳴を上げ、咄嗟に後ずさりした。

「さ......佐々木、目を、目を覚ませ!お前はそんなことをする人間じゃない!」

俺の叫びは、虚しく小屋の中に響き渡るだけだった。佐々木の目は、ますます虚ろになり、その動きは、まるで意志がないかのようだった。

女性の影は、じっとこちらを見つめている。その視線は、肌を刺すように冷たい。

俺は、小屋の隅に置いてあったピッケルを掴み、それを構えた。

その時、佐々木の口から、再び声が聞こえた。それは、先ほどよりもはっきりと、女の声だった。

「……じゃま……しないで……」

次の瞬間、佐々木は信じられない力で俺に襲い掛かってきた。俺は咄嗟にピッケルで応戦したが、振り払われ取り落としてしまった。佐々木の冷たい手が、俺の首を締め付ける。息が詰まり、意識が遠のいていく。

朦朧とする意識の中で、俺は必死に抵抗した。そして、ふと、佐々木が首にぶら下げていたお守りに目が留まった。それは、佐々木が大切にしていた、山岳信仰のお守りだった。

最後の力を振り絞り、俺はそのお守りを掴み、強く握りしめた。

その瞬間、佐々木の身体がビクリと震えた。締め付けていた力が、ほんのわずかに緩んだ。そして、佐々木の口から聞こえていた女の声が、苦悶の叫び声に変わった。

「……う……あああああ……」

佐々木の表情が、ほんの一瞬だけ、正気に戻ったように見えた。その目は、苦痛と悲しみに歪んでいた。

「……逃げ……ろ……」

それは、確かに佐々木の声だった。

その言葉を聞いた瞬間に、俺は躊躇なく佐々木を突き飛ばし、小屋の扉に駆け寄った。凍り付いていた扉は、わずかに開いていた。

俺は、その隙間を縫って、必死に外へ飛び出した。

外は依然として猛吹雪だったが、あの小屋の中に留まるよりは、遥かにましだった。背後からは、佐々木の苦悶の叫び声と、何かが崩れるような音が聞こえてきた。

俺は、吹雪の中を必死に走り続けた。何度も転倒し、身体は凍てついて感覚がない。だが、振り返ることはできなかった。あの小屋で見た、佐々木に取り憑いた恐ろしい女の存在を、決して忘れることはできない。

どれくらいの時間、雪の中を彷徨い続けたのだろうか。意識が途切れ途切れになる中、俺は奇跡的に下山ルートらしきものを発見したが、そこで力尽きるように倒れ込んだ。



目を覚ますと、そこは見慣れない白い天井の広がる病室だった。医師の口から語られたのは、雪の中に倒れているところを捜索していた救助隊に発見され、辛うじて一命を取り留めたという事実だった。

俺の無事を知った友人たちが、安堵の表情を浮かべながら次々と病室に駆けつけてくれた。彼らに囲まれ、俺は山で意識を失うまでの経緯を訥々と語り始めた。

しかし、俺の話を聞き進めるうちに、友人たちの顔から笑顔は消え、困惑したような、なんとも言い表せない複雑な表情へと変わっていった。

やがて、一人の友人が意を決したように口を開いた。

「お前は、あの山へ一人で行ったんだろう」

「えっ、何を言っているんだ。違う、俺は佐々木と二人で山へ行ったん……」

俺はそこまで言ったが、突然言葉に詰まった。記憶の中で引っかかるものがあった。何かが違う......。

別の友人が、重い口調で話し始めた。

「お前は一人で山に行ったんだよ。一年前に一人で山に登って行方不明となった佐々木を探すために」

「佐々木が行方不明だって……」

途切れ途切れの記憶の断片が、ようやく一つに繋がった。そうだ、俺は一年前、佐々木と二人で山に行く予定だった。しかし、出発直前に俺が盲腸で倒れ、結局佐々木は一人で山へ向かったのだ。そして、そのまま帰らぬ人となった。

激しい後悔の念が、堰を切ったように俺の胸に押し寄せた。一人で行くという佐々木を、なぜもっと強く止めなかったのか。なぜ、よりによってあの日に盲腸になってしまったのか。

そして、その拭いきれない後悔の念に突き動かされ、俺は佐々木を探しに行ったのだ。

では、俺の記憶に鮮明に残る、山での佐々木との出来事はいったい何だったのだろうか……。

もしかしたら、山で遭難しかけた俺が、極度の疲労と後悔の念から、現実と虚構が入り混じった悪夢を見たのだろうか。

あるいは、あの山で佐々木が体験した、もはや言葉では伝えられない恐ろしい何かを、俺に伝えようとしていたのだろうか。

病室の静寂の中、俺の心には、深く拭い去れない疑問と、さらに重い後悔の念が渦巻いていた。

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