突然の最悪
「何があろうと、決して己の出自を明かしてはならない。
我らは火種。
ひとたび燃え上がれば、国に厄災をもたらすニールの一族。
ニールの瞳を求める者は須くこれを拒絶せよーー」
里から一歩でも外に出るときは、必ず復唱させられる一族の掟。
寝ぼけなまこでも誦じることができるほど骨身に染み付いた言葉を、私は口の中で繰り返し呟いた。
故郷は、人里離れた深い森の奥にある。
人目を憚るようにひっそりと生きているのは、ひとえに私たちが“ニールの一族”だからだ。
ニールの一族――世にも稀な紫の瞳を持ち、他の魔術師には扱えない変姿の魔術を扱う一族。
ごく一部の人間のみが魔力を有し、魔術を使うことができる世の中にあって、ニールの一族はその特異性において他の魔術師とは一線を画していた。
ニールの人間は、魔力を持ちながら世にあるほとんどの魔術を使うことはできない。
その代わり、「他の人間や動物に姿を変える」魔術を使うことができた。幻影とは違い、身体を根本から組み直すに等しい魔術。
他者そのものになるため、変姿の術によって姿を変えたニールの人間を見破ることは、魔術師といえど容易にできることではなかった
そして、この魔術を使ったニールの瞳はごく平凡な青に色が変わることもまた、正体を暴くことをさらに困難なものにしていた。
無敵にも思える魔術師でさえ見破れない変姿の術。
その力ゆえに、一族はいつの時代も政変を企む者に渇望され、狙われてきた。
ある時は神秘の力をもつ王として。ある時は権力者を弑するための駒として。
争いの火種になり続けた一族はいつしか自らの存在を忌み、外界との関わりを断って人知れぬ奥地に移り住んだ。
そうして段々と歴史から姿を消し、伝記の一部に噂話のように載るだけの存在になった。
一族が実在していると知っているのは、今ではフィラム王国の国王と後継者のみ。
そう聞いていたのに――
(どうしてあの人は知っているの?)
人を避けて、細い路地をひた走る。
現在の国王と皇太子の姿は建国記念の式典の時に描かれた絵姿で見たことがある。
あの青年とは似ても似つかないふくよかで温厚そうな王と、よく似た息子。
(確かに私はニールの人間。でも見破るなんてありえないわ。だって、私の瞳は紫じゃないもの)
そう、私の瞳は紫ではない。
何の因果か、生まれながらにして私の瞳は薄い空色だった。
そのせいか、他の同族と比べて極端に変姿の能力が低く、鳥や獣といった人間以外の生き物に姿を変えることはできない。
だから、私の魔術は変姿ではなく擬態と呼ばれていた。
人外の特徴を取り入れることができない、見かけを真似するだけの擬態――
とはいえ、青い目であることは能力の低さを示すばかりではない。素の姿で、故郷の外で生きていけるということでもある。青眼はこの国では珍しくはないから、違和感なく溶け込むことができた。
擬態をしなくても、ニールの瞳の一族であることを怪しまれる要素は何もない。
ちらっと後ろを振り返る。
追いかけてくる影は見当たらない。
それでも私は足を緩めなかった。
(どうやって知ったのかは分からないけど、とにかく逃げなきゃ。関わっちゃいけない)
広場を抜けて、混み合う小路に足を踏み入れる。この町の路地は複雑な迷路のようで、初めて来たよそ者はまず迷う。
似たような広場に似たような家々。わずかな違いを覚えない限り、すぐに方向感覚を失ってしまう。
決して方向感覚が悪い方ではなくとも、町に来てはじめの一週間は人に聞かないと家にもまともに帰れないというのは、この街の新参者によく言われることだ。
それでも今は我が家のように慣れた道。
手当たり次第に角を曲がり、人混みに紛れて広場とは反対方向に突き進む。
一度見失なわせればこちらのものだ。
心の中で謝りながら賑わう人々を押しのける。
途中で見知った客に声をかけられたが、「ごめんなさい、あとで!」とだけ返事をして走り続けた。
遠回りに遠回りを重ね、地元の人間しかいないような閑散とした小道まで来てようやく歩を緩めた時には、苦しいほどに息が上がっていた。
「はあっはぁ……っ」
緊張が少し緩んだ途端に、抑えていた呼吸がどっと襲ってくる。
喉が痛い。血の香りが広がっても、呼吸が激しくて唾を飲み込めない。
荒い息づかいが頭に響き、肩に冷たい壁を感じて足を止めた。
視界がいつもより暗く感じる。建物の影に目が慣れて視線を落とすと、雨上がりの道を走ったせいで服の裾が跳ねた泥であちこち汚れていた。右足の靴の紐も途中でぷっつり切れている。
壁に背中を預けて座り込みたいという欲求を押し留め、重い足を引きずって歩みを進めたが、ふと家のすぐ近くまで来たことに気がついて足をとめた。
(荷物、まとめなきゃ)
ニールの一族であることを見破られた以上、この町はもはや安全ではない。
暑さで頭がぼうっとしたままそんなことを考えて、日陰を選んで歩きながら家路を目指す。
あと少しで家に着くというところ。
角を曲がった時、突然目の前に人影が広がった。
(ぶつかる!!)
「ひゃっ」
止まりきれずに頭から突っ込む。
咄嗟に目を瞑った直後、ボスッという鈍い音と共に跳ね返されて、ふっと清涼感のあるシダーウッドの香りが鼻をくすぐった。
「った……ごめんなさい!前をよく見ていなくて」
つくづく今日はついていない。
一日に二回も人とぶつかるなんて。
目の奥がぐらつくのを感じながら慌てて謝ると、落ち着いた声が降ってきた。
「大丈夫か?」
「ええ、大丈夫です。どうもありが……」
(あれ、この声どこかで――)
聞き覚えがある、と思いながら反射的に目を開ける。
最初に飛び込んできたのは、銀糸の刺繍。
荊が輪を描き、中心に薔薇の刺繍が重なっているその刺繍が、黒い外套の胸元で小さく光っていた。
どこかで見たことがある印。
しかしどこで見たのかを思い出す前に、顔を上げた先にあった瞳の色を見て、自分がポカンと口を開けるのがわかった。
冴え冴えとした濃紺の瞳。
間違えようもない。さっき背を向けて正反対の方向に走ってきたはずの青年が、こちらをじっと見下ろしていた。
「へ……」
広間からは一直線に来た。入り組んだ路地に近道などないし、先回りなんてできるはずがない。
(なのに、どうしてここにいるの?)
ありえない。
ありえない、ありえない――
後ろは何度も確認した。擬態を重ねていくつもの角を素早く曲がってきた。
この町に慣れた人でさえ、一度見失った人を追いかけるのは難しいのに。
(こんなに目立つ人、気がつかないはずない)
「なんで……」
ざり、と後ずさった足が音を立てる。
反射的に下がっただけだったが、青年は私が逃げると思ったのかすぐさま二の腕を捉えて力を込めた。
「さて、何でだろうな」
腕から伝わる生々しいまでの力の差に、驚きで止まりかけた思考が引き戻される。
「離……して」
「離したらまた逃げるんだろ?」
当たり前だ。
しかし答えるよりも先に「とはいえ、流石にこの距離で逃げるのは難しいか」と言って、パッと手が離された。
「足が速いな。鬼ごっこは得意みたいだ。それともニールの教育の賜物か」
「……言っていることが、よく分からないわ」
なんでもないことのようにニールの名前を出す青年に答えれば、彼は少し眉を上げた。
「わかっていないようには見えないけど」
「誰かと勘違いをしているんじゃ、」
「勘違い?違うな。ニールという言葉を君は知っているのが何よりの証拠だよ」
「それは……少し聞いたことがあっただけ」
「聞いたことがあるだけで、その名前を聞くなり一目散に逃げ出すのか?」
「……噂話に出てくる言葉が貴方みたいな人の口から出てくるとは思わなくて、驚いただけよ」
「いいや、紛れもなく君はニールの瞳を持ったニールの一族だ」
「どうしてそう思うの?もし私がニールの一族なら、とっくに鳥にでも変身してこの場を離れているわ」
妙にきっぱり言い切られて、ムッとしながら言い返す。しかし青年は気にすることなく、むしろボロを出したなとでもいうように鼻で笑った。
「変姿のことまで知っているとは、詳しいんだな」
「……聞いたことがあるだけよ」
「目の前で変姿をしないのは、逃げられなかった場合にシラを切り通せなくなるから、だろ?相手がどんな手段を持っているか分からないうちは力を秘めるものだ。戦闘での常識を知っていたかは知らないけど、正解だったな。この距離で変姿をしたところで、俺から逃げおおせられるとは思えない。まあ君の場合、しないじゃなくてできないだけだけど」
「っ!」
(どうしてそれを。それこそ、里の人間以外知らないはずなのに!)
ニールの一族は徹底した秘密主義だ。外界と極力関わらず、一生を里の中で完結させる人間がほとんど。
だから一族の現状はおろか、そのうちの一人についてそこまで詳しく知られるなんて信じられない。
こちらの動揺を知ってか知らずか――いいや、確実に気づいた上で、青年は続ける。
「会うのは初めてだけど、君ことはよく知っている。もしかしたら、君より自身よりも」
「それは、どういう……」
「さあ、どういう意味だろうな」
唇が綺麗な弧を描いた。
しかし、その目は少しも笑っていない。
わずかな変化も見逃すまいとするようにじっとこちらを観察している目だ。
ただニールについて知っているだけじゃない、知りすぎている。この男は危険だ。
人攫い、という単語が頭を掠める。
世の中には身寄りのなさそうな女子供を攫って売り飛ばす人間がいるそうだ。
数の少ない民族は高値で売れると、小さな村を襲うこともあると聞く。
ニールであることを見破ったカラクリはわからないが、その手合いの人間なら嫌な想像はいくらでもできる。
ーーもしそうなら、絶対に捕まってはいけない人種だ。
そう悟るや、考える前に体が動いた。
何かを言いかけた青年の顔に向かって、手にあったハンカチを投げつける。
一瞬怯んだ隙を見逃さず、私は踵を返して来た道をかけ戻ろうとした。
しかし、紐の切れていた右足から靴が脱げかかって、動きがわずかに遅れる。
「――あっ!!」
踏み出せたのはわずか数歩だった。
すぐに強く腕を引かれ、体が後ろにかしいで背中にドンッと衝撃が走る。
人の体温を背後に感じて抱きすくめられたのだと気づいた時には、右腕を素早く背中でねじりあげられていた。
「逃げるな」
耳元で青年が低く囁く。熱を感じる距離で聞こえてくる声に、ぞわりと肌が粟立った。
「いや!離して!!や……っ」
身を捩り、足を蹴りつけて力の限り抵抗する。しかし、右手を掴む手も、腰にまわされた腕も微動だにしない。
むしろ指が容赦なくぎりぎりと肌に食い込んだ。
「いっ……!」
じわりと視界が滲む。
「誰かっ!誰か助けて!!人攫い!!!!」
怯む喉で声を絞り出す。静かな通りに甲高い声が反響した。
それなのに、いつもなら誰かしらは家にいるはずの近所の人たちは今日に限って誰も出てこない。
「誰か!誰かーー!!」
「無駄だ。ここの音は誰にも聞こえない」
叫び続ける耳元で青年が低く呟いた。
「……え?」
「魔力があるのに気づいてないのか?さっきからこの道に誰も来ないのは、認識阻害・回避と防音の術がかかっているからだ。外からこの道は存在を認識できないし、入ろうという気も起きない。おまけにこっちの音も聞こえない。ほら、見ろ」
指さされた先を見ると、すぐそばの窓の向こうに若い女の人が座っているのが目に入った。
こんなに近い距離なのに、こちらの音は全く聞こえていない様子で編み物をしている。
「そんな、」
言われてようやく、あたりに魔力が満ちていることに気がついた。
力の弱い私でもわかるほどはっきりした魔力。
「……魔術が使えるの?」
震える声で問うと、「ああ」となんでもない事のように返ってくる。
最悪だ。魔術が使える人なんてこの国に一握りしかいないのに、よりによってそんな人に捕まるなんて。
だけど、どうして魔術師が人攫いなんて。
「人攫いなんかと一緒にされたくはないが、今は同じようなものか……大人しくしろ、なんて暴漢らしいセリフだけど、今は大人しくしていた方がいい。君に逃げるすべはないし、あの女性が怪我をするようなことになってほしくはないだろう?」
(近所の人を人質にするつもりだわ)
つぅっと背中を嫌な汗が流れる。
魔術に詳しくはないが、建物が密集した住宅街では少し破壊されただけでも誰かの命が危険にさらされることは容易に想像がつく。
だが、その手が通用すると知られるのが悪手であることくらいは、働かない頭でも理解できた。
「……脅すつもり?無駄よ。大して知りもしない近所の人より自分の身の方が大切だもの。どうせもう違う街に行こうと思っていたし、誰がどうなろうが関係ないわ」
平然と答えるつもりが、緊張で語尾がわずかに上ずる。
「そうかもしれないな。でもそれ以前に、この力の差で抜け出せると思うか?」
一段と声が低くなって、腰に回っている腕に力が込もった。締め付けられると自分の体が小刻みに震えていることに嫌でも気がつく。がっちりと締め付ける腕は硬く、どうあがいても敵わないことは容易に想像できて、私は唇を噛んだ。
「そうね、無理かもしれない」
全身で対抗しても、腕一本で十分抑えられてしまうだろう。
でも、捕まるわけにはいかないのだ。
絶対に。
「誰かーーーーー!!!!」
聞こえないと言った後に叫ぶとは思わなかったのだろう。
少し驚いた様子を背中に感じながら、体の重心を下げて思いっきり足を踏みつける。
同時に、腰を抱く手の薬指を掴んで思い切り後ろ向きに反らせるとわずかに手が緩んだ。その隙を見逃さず体を捩り、右肘を後ろにある頭に向けて振りかぶる。
ぶつかるスレスレのところでかわされてしまったが、もう一度体を捻って今度は左肘を脇腹にお見舞いすると、運よく青年の首筋に当たって腕の力が完全に緩んだ。
(いける――)
下を潜って身体を完全に抜く。しかし、完全なダメージは与えられていなかったせいで、青年が気がつくのも早かった。
一気に駆け出そうとしたところを、後ろに残った三つ編みの先を掴まれる。
「ああっ!!」
ぐんっと引っ張り上げられて、口から悲鳴が溢れた。
「は……なして!!」
「暴れるな」
「い、や!!」
すぐにまた引き寄せられて、今度は腕ごと動きを封じられる。
「離して!わた、わたしなんか捕まえてどうにもならないわ!一族についても、瞳についても、あなたは知っているんでしょう!?ならわかるはずよ。あなたが知っている通り、私は目も紫じゃないしろくに変姿もできない。あなたがどうやって見破ったのかは知らないけど、他の人から見たら私はニールの人間でもなんでもない、なんの役にも立たない人間よ!!だから、」
情けない事実ばかりが口からほとばしる。全身で暴れても毛ほども通じず、悔しいほどの非力さに涙が溢れて言葉つかえた。
(ただでさえ一族のお荷物になってた私が、こんなところでまで足を引っ張るわけにはいかないのに)
ぱたぱたと涙が地面に落ちてしみをつくる。
なおももがいていると、はあ、とため息が聞こえてきてびくりと体が震えた。
「それはできない相談だ。本当に、この世界について何も知らないんだな」
暴れる顎を掴まれ、強引に顔を仰向かされる。
ほんの少しも抗えない恐怖と悔しさで視界がぼやける。
滲んだ世界の中で、濃紺の瞳と視線がかち合った。
「君、名前は?」
「……っ私のことはよく知っているのに、名前は知らないのね」
睨み付けると、濃紺が細まった。
「まあいいか。そのうち分かる――とりあえず俺と一緒に来てもらおうか」
「嫌よ、離して!どこに連れて行くつもり!?」
腕をほどこうと必死にもがく。なのに、もがけばもがくほどしっかりと絡めとられ、閉じ込められて身動きがとれない。
「さあ、どこだろうな」
青年がそう呟いた瞬間、奇妙なことに周りの景色の輪郭がゆっくりぼやけ始めた。
まばたきをしてもぼやけが取れない。
そのうちめまいのようにぐるりと周囲の色が混ざりあい、どんどん曖昧に歪んでいく。
「な、なに、これ……」
目の前だけじゃない。頭の中も、もやがかかったようにぼんやりとしてくる。
そのうちひどい眠気に襲われて、目の焦点が定まらずに瞼が落ち、段々体に力が入らなくなってきた。
(こんな時に、どうしていきなり)
体から力が抜けていくのが分かるのに、止められない。ガクガクと足が震えて足元が抜けたような感覚だけになり、体が前に傾いた。
上も下もわからない。身体を締め付ける腕の感覚も徐々に鈍くなっていき、自分の声も薄いヴェール越しに聞いているように遠ざかっていく。
「や……なし、て……」
(何が起こっているの。誰か……)
混濁していく意識の中で、誰かが私の名前を呼んだ気がした。




