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終わりの始まり

 振り返ったのは、無意識だった。

道に迷ったわけでも、馴染みの客とすれ違ったわけでもない。ただ、視界の端で何かが光って、引き寄せられるように目がいった。




 いつものように、売り物の花を手に石造りの街を歩いていた。

今日は広場で市が開かれているから、人出が多い。そのおかげで、お昼前なのにすでに籠の中は隙間が目立っている。

馴染みのお客さんのところへ行くまでに売り切れてしまいそうだ。

嬉しい反面少し心配しながら歩いていると、ふいに道の向こうからざあっと風が吹いてきた。


「……っ」


路地を吹き抜ける風は、どこからともなくやってきて花びらを散らしていく。あわてて花籠を抱え、守るように風に背を向けた。

ついでにうっとおしく飛び跳ねる髪を手で押さえたその時、透き通るようなきらめきが視界の端に映った。

広場を囲む小川の向こう、行き交う人々のくすんだ色合いの中に、透き通るような柔らかな光が紛れてちらつく。

水面に反射する太陽の光とは違う、淡いきらめき。

深く考える前に足を止めて、光の見えた方を目で追った。晴れた日の、それも水際では道の石にすら光が反射してキラキラと光る。

しかし、答えはほどなくして目に飛び込んできた。


そこにいたのは、すすけた街に溶け込まない、明らかに身なりのいい青年だった。

周囲より頭一つ高い身長、すらりと引き締まった筋肉質な体躯に、黒で統一されたシンプルな服と外套。

春の装いにしては少し地味だが、それでも一目で質のいいものだとわかった。

スッと伸ばされた背筋と無駄な力みのない綺麗な動作。しっかりした骨格に、健康的でなめらかな肌。切れ長の目に薄い唇。

そんな、いかにも良家の子息らしい整った外見に目をつけたのだろう。出店の主人たちが愛想よく声をかけている。

市場でのやりとりなど慣れていないだろうに、良くも悪くも庶民的な声がけに嫌な顔ひとつ見せず、青年は紳士的な笑みを浮かべて軽く手を振りながら断っていた。物売りに慣れた店主たちもそれ以上勧めることはなく、他愛のない会話をして笑い合う。

なんとも楽しそうだ。


路地から吹いた風が川を渡って青年の元まで届く。すると、外套の裾がはためいてふわりと髪を浮き立たせた。

その時、ちらちらと透明な光が目に飛び込んできた。つい先ほど目の端で捉えたものと同じ、柔らかく透き通るような儚げな色。

光っていたのは青年の髪だった。一見すると濃灰色だが、太陽に照らされると白銀に輝き、風を受けてなお襟足の一本までコントロールされているように完璧な形を崩さず揺れている。


(綺麗……)


一枚の絵のような光景に目を奪われる。

すると突然、商品をみていた青年がパッと顔をあげた。

驚いたような表情で、露店の周囲を見回す。何かを探すように素早く視線を走らせる様子に、近くの店主たちもつられて辺りをきょろきょろと見回し始めた。

しかし、青年の視線が彷徨ったのはほんの数秒のこと。

すぐにその目は一点を見定めた――対岸に立つ、凡庸な花売りの少女を。


どきりと心臓が脈を打つ。


それは、見ていた相手が思いがけずこちらを見たからーーだけではない。

少し切れ長の、吸い込まれそうな紺色の瞳。

店主たちの声に呼応するようになだらかな弧を描く口元に反して、その瞳はひどく鋭い光を宿していた。




 小国・フィラム王国の東端に位置する小さな町、リナン。海も山もない国境沿いのこの町は、狭い土地に家々が立ち並び、隣国で栽培される作物を卸売りする商人が多く住んでいる。

そのため、普段は静かな住宅街だが、休日は町のあちこちにある広場に市が開かれてちょっとしたお祭りのような活気を見せるのだ。その熱気に誘われて周辺の町の人々や旅人がふらっと立ち寄ることも多く、多種多様な文化が入り乱れた開放的な雰囲気が町を包んでいた。

その中で、三ヶ月ほど前からたくさんの花を抱えて商いをする少女が一人。年の頃は十七、八歳。丸みのある淡い青の瞳に、気合いを込めてきゅっと結ばれた唇。日に焼けてうっすら赤くなっている肌は、それでも十分に白く、くせのない深い栗色の髪を一本の三つ編みにして背中で揺らす。

少女特有の華奢さが残る体を質素な麻のワンピースに包んで、籠いっぱいの切り花を手に毎日町に繰り出していた。

突然現れた花売りの少女も、この町では飛んできた綿毛のように誰も気にすることなく受け入れる。

来るもの拒まず、去るもの追わず。それがこの町の優しさだ。

この日も、少女は休日の人出に混ざって早朝から売り歩いていた。


そして、冒頭に戻る。

視線が絡んだ瞬間、好奇心で浮き足立ちかけていた心がすっと冷えた。

青年の顔に表れていたのは、明らかな警戒心。その目は談笑する店主たちの中にいるとは思えないほど静かで冷たく、鋭い。

じろじろ見ていたことに気づいたのだろう。

きまり悪く思いながら目線を落とすと、籠の中の花たちも居心地悪そうに身を寄せ合って少女を見上げた。


(じっと見てしまったのは失礼だったけど、あんなに睨まなくてもいいと思わない?)


心の中でひとりごちる。

とはいえ、それでも失礼であることに変わりはないと思い直した少女は、青年に向かって軽く頭を下げて足早にその場を離れた。


(ーーそれにしても綺麗な髪だったな。この辺りではあまり見ない色の)


 明るい光に当たっている髪は透き通るように輝いて、影になったところでは青みがかった濃い灰色が、降り積もった雪に落ちる木陰のように上品な陰影を作り出していた。灰色でも白でもただの銀でもない、白銀とはあんな色を言うのだ。

何気なく、肩にかかる深い栗色の髪に目をやる。

真っ直ぐ伸びる柔らかな髪は嫌いじゃないが、どことなくパッとしない。

なんて、考え事をしながら歩き出したせいで、少女は気がつけば来た道を戻っていた。

目的地は反対だ。


「やだ、次の広場へ行こうと思ったのに」


急いで人の流れを抜け出し、方向転換する。

ところがすぐに、横から「あら、あなた」と声が飛んできて足が止まった。


「今日はここにいたの。休みの日はあなたを見つけるのが大変だわ。でもよかった、このあと急にお客さんが来ることになったからお花が欲しかったの。まだ何かある?」

「あ……え、ええ奥様。いつもありがとうございます。お花ですね、どのようなお花がいいですか?」

「うーん……何か華やかなのがいいわ。部屋を明るくするような、暖かい色の」


ざっと籠ののなかを確認する。

大丈夫だ、彼女が好みそうな花はまだ残っている。


「でしたら、こちらのエリスはどうでしょう。ピンクとオレンジが混ざった可愛らしい色合いで、花びらが何層にも重なっているので、これだけでもとってもお部屋が華やかになると思います。今日の花は大ぶりだから、この小さな白い花と合わせても綺麗ですよ。こんな感じに――いかがですか?」

「あら、いいじゃない。これにするわ。もう少し白い花を足してくれる?」

「もちろんです。追加の花はおまけしますね。いつもありがとうございます」

「まあありがとう。お代はこれで良くて?またよろしくね」

「こちらこそ、またお待ちしています」


軽く麻紐で縛ってお代を受け取る。

花に顔を寄せてニコリと微笑んだ夫人は、軽く手を振ってあっという間に人ごみに消えていった。


(この道も混んできたわね。一旦戻って花を足してきた方がいいかも)


見送りながら、何の気なしに軽くなった籠を抱えなおす。

すると、出し入れしたまま中途半端に引っかかっていたエリスの花が、大きな頭を重そうに揺らして、籠から飛び出した。


(落ちる……!)


慌てて手を伸ばす。しかし、花びらをつぶしそうになって一瞬掴むのをためらってしまった。

その隙に、茎がするりと指の間をすり抜けた。追いかけるように足を踏み出すと、今度は身体が人混みに飲み込まれて、少女はよろよろと人の間を彷徨った。

前から後ろから、止まることなく来る人に跳ね返されて後ろによろける。


「あ、っ」


とうとう倒れそうになった時、後ろにいた誰かにドンッとぶつかって尻餅をついた。


「どこ見てんだよお前!フラフラ歩くな、邪魔だ!」


大きな声が上から降ってくる。

見上げれば、縦にも横にも大きな男がチッと舌打ちをして少女を睨んでいた。

側頭部を短く刈り込み、てっぺんだけ長めに伸ばした髪を後ろに撫で付けて、ラフなシャツとパンツをだらしなく着崩している。

革靴は元は上質な品だったのだろうが、砂で煤けて底がすり減り、無理やり突っ込まれている足の重みに耐えかねてひしゃげていた。そのつま先が苛立たしげに地面を蹴って、乾燥した道に軽く砂埃が立った。

見覚えがある顔。町長の息子だ。

運の悪いことに、ガラが悪いと評判の彼にぶつかってしまったらしい。彼は絵に描いたようなドラ息子で、食堂のおかみさん曰く、目をつけられたら一番厄介な人物だとか。


「ご、ごめんなさ……」

「あ?聞こえねえよ。もっとでかい声出せ!」


どすの利いた声がビリビリと耳に響いて、途端に男の周りを避けるように人がいなくなった。すごい威力だ。

視界の隅で、道行く人が気の毒そうに顔を背けて通り過ぎていく。

彼らに割って入るメリットはないのだから、ここは一人で切り抜けるしか無いだろう。

わかってはいるけれど、黒い影を落とす巨体を前にして、地面についたままの手にじんわりと汗が滲んだ。

慌てて立ち上がり頭を下げると、途端にどくどくと耳の奥で脈打つ音が聞こえてくる。


「ぶつかってしまって、申し訳ありませんでした。その、――お怪我はありませんか?」

「あ?あるわけねえだろ馬鹿にしてんのか」

「いえ、そういうわけでは……」

「なんか他にねえのか?」


(他って……まさかお金……)


他に差し出せるものはない。

思い至った結論に、少女は無意識に売上金の入ったポシェットを腕で庇った。

この売り上げを取られたら向こう三日のご飯はかなり質素なものになるが、渡した方が身のためだろうか。

だめ元でもう一度謝ろうと口を開く。

しかし、遮るようにガラついた声が被さった。


「あ?お前、その目――」


町長の息子が眉間に皺を寄せる。細い目をさらに細めた顔が近づいて、鼻の奥にこびりつくような香水と酒の香りが漂った。


「あの、」

「おい!何してんだよ、早く来いよ!」


その時、道の向こうから誰かが彼を呼んだ。目の前の顔がぱっと離れる。

太陽が道に白く反射する中、誰が呼んでいるのかわからなかったが、背の高い町長の息子には声の主がわかったようだ。

声の聞こえた方向に片手をあげると、途端に目の前の相手に興味を失ったのか、一瞥もせずに足元にあった花籠を蹴り飛ばした。


「……ちっ。んだよ、この汚え花」


蹴られたかごは人々の足の間に消え、わずかに残っていた花も四方に散る。呆気に取られる少女を後に、彼は荒々しく鼻を踏みつけながら去っていった。


(びっ……くりした……)


キーン、と微かな耳鳴りがして、一瞬周りの音が遠ざかる。

息を止めていたことを思い出して小さく吸えば、ざわざわと雑音が戻って、少女たちを避けて通っていた人の流れも元のように戻ってきた。


「汚い花……」


最後に聞こえた言葉が、ずきりと胸に刺さる。

ダリアにエリス、この地域特産のファーラン、季節ものの花たち。どれも今朝早くに農家から買ってきた新鮮な花だ。大きさも色も申し分なく、まだまだ綺麗に咲いていたのに。

地面に散らばる花は、潰れて散ったり、砂がついてしまってもう売り物にはならない。

踏まれてしまった花たちに心の中で謝りながら、苦々しい思いが胸に広がるのを感じる。こんな風にあからさまに絡まれたのは初めてだ。売り物の花をダメにしてしまったのも。


しばらくそのまま立ち尽くす。

すると、不意に横からスカートの裾をちょん、と引かれた。


「お姉ちゃん、大丈夫?」


見れば十歳に満たなそうな赤毛の男の子が、少女を見上げている。手には、蹴り飛ばされたはずの籠。

道に転がっていたのを拾って持ってきてくれたのだろう。ということは、さっきの場面を見ていたのだろうか。


「ええ、大丈夫よ。籠を持ってきてくれたの?ありがとう。怖いところを見せてごめんね」


精一杯の笑顔を作って受け取ると、男の子がこくりと頷いて籠を指差した。


「お花」

「お花?」


中を見ると、白い花が一輪入っていた。花びらが少し散ってしまっているものの、まだ十分綺麗なままだ。


「一個だけあったよ」

「本当だ……ありがとう。このお花は君にあげるわ。籠を拾ってくれたお礼に」

「いいの?」

「もちろん。はい、どうぞ。エリスっていうお花よ」

「ママとおんなじ名前だ。……でもこのお花、僕が見つけたんじゃないよ」

「え?そうなの?じゃあ誰がーー」

「あのお兄ちゃん」


男の子が、少女の後ろを指差す。

振り返ると、人の波に逆らって誰かが歩いてくるのが見えた。

穏やかで明るい町の風景に溶け込まない、鍛え上げられた白と黒のシルエット。周囲より頭一つ高い背丈に、真っ黒な外套、白銀の髪。

橋の向こうで目が合った青年だ。


「……あの人が見つけてくれたの?」

「うん。他のお花も探すから、先にお姉ちゃんにこの籠持っていってあげてって。だから僕、このお花もらっていいのかなあ」

「それは、もちろんーー」

「お兄ちゃん、こっちだよ!おーい!」


男の子が大きく手を振る。

思いがけない再会に気まずく思っているうちに、青年はあっという間に手が届く距離まであと数歩というところまで来て立ち止まった。

正面で見ると、思いのほか年の近そうな顔立ちだ。

落ち着いた服装だからか、遠目には二十代半ばほどに見えたが、実際は十代後半といったところか。

深い紺色の瞳と視線がかち合う。その目には、先ほどのような冷たい警戒の色はなかった。

それどころか、むしろ驚いたように目を見開いて――


「お兄ちゃん、お花あった?」

「……ああ」


男の子の声にハッとしたように、青年はすぐに表情を元に戻した。

よかった!と笑った男の子にわずかに微笑み、少女に向かって花を差し出す。

その手にあったのは、花びらの少し散った白いイベリスの花だった。


「この花はあなたのでしょうか、レディ」


落ち着いたテノールが耳を揺らす。最初に見た剣のある印象とは違う柔らかな物言いに驚いて、花と青年を交互に見やれば、不思議そうな視線が返ってくる。

下町の売り手に、こんなにきちんとした態度を取る人はあまりいない。特に男の人は、女だからと下に見て、横暴な態度に出る人も多い。そんな中にあって、「レディ」なんて呼ばれたのは初めてだ。


「騒ぎが見えたので間に入ろうと思ったのですが、間に合わず申し訳ありません。お怪我はありませんか?」

「……ありがとうございます。大丈夫です」

「それはよかった」

「よかったね、お姉ちゃん。あ、お母さんだ。ねえ、このお花ほんとにもらっていいの?」

「ええ。お礼よ。お母さんにもありがとうって伝えてくれる?」

「わかった!じゃあね!」


走っていく男の子に手を振る。


「それでは私もこれで。ありがとうございました」


青年も早々に去るだろうと思ってそう告げれば、その様子を黙って見ていた彼は、ふと思いついたように口を開いた。


「ところで私も花をいただきたいのですが、いくらで売られているのですか」

「……お花ですか?」

「はい」


貴族のような身なりの青年が買うような花など売っていない。

それに、手持ちの花は今受け取った一輪だけだということは、誰の目にも明らかだ。

一瞬何を言われているのかわからず聞き返した少女に、青年は読めない表情で頷いた。


「いくらですか」

「申し訳ありません、あいにく手持ちの分は全て砂にまみれてしまったので、お売りできるものがないんです。……ご覧の通り」

「かまいませんよ、その花で」

「え?」


青年が籠を指差す。


「砂にまみれていますが、花は花でしょう。あなたのせいでそうなったわけではないし、勿体無いので買わせてください」

「……いえ、そんなわけにはいきません。とても売れるものじゃないですし、捨てるしかないものを押し付けてお金をいただくわけにはいきません」

「私は構いませんが」

「そういうわけには――お気持ちはありがたいですが、周りを見ていなかった私のせいでもありますから」

「どうしても?」


間髪入れずに聞き返される。軽い口調だが、表情は真剣そのものだ。


(どうしてこんなに食い下がるのかしら。この花が売れなくなったのはこの人のせいじゃないのに、こんなものは売れないわ)


「はい、申し訳ありません」

「そうですか……では、こういうのはどうでしょう。花は受け取らないので、私がその花と先ほどの騒動でだめになってしまった花の代金を支払う代わりに、少しだけレディのお時間をいただけませんか?」

「……時間、ですか?」


意味がよくわからず曖昧に微笑んで聞き返すと、青年はゆっくり頷いた。


「実はこの辺りに、隣の国で取れる珍しい果物を使ったスイーツを出す店があると聞いたのですが、私のような男が一人では入りづらいので困っていたのです。あなたのような若い女性に人気の店だと聞いたので、一緒に入っていただけないでしょうか。もちろん、スイーツはご馳走させていただきます」


とても困っているようには見えない顔でさらりと言い、どうでしょうと首を傾げる。


(どうって言われても、それは私じゃなくてもいいような気がするわ)


 その店については聞いたことがある。鮮度が落ちると酸味が出て美味しく無くなってしまう隣国特産の果物を、生産地から直接仕入れて新鮮なうちに出しているカフェがある、と。お店もスイーツもとても可愛らしいから、若い女性がこぞって訪れているそうだ。確かに、目の前の青年が一人で入るには可愛らしすぎるのだろうが、彼が声をかければ一緒に行ってくれる女性はたくさんいるだろう。何も、こんな地味な売り子じゃなくても。

 騒動を止められなかった埋め合わせをしようとしているのだろうか。しかし、そんなことまでして貰う理由はない。


(それに、今の自分がそんなおしゃれなカフェに行けるような格好じゃないことくらいわかるわ)


朝から歩き回っているから、頭につけたスカーフはじっとり濡れているし、麻のワンピースも何の飾り気のないシンプルなもの。履き慣れた靴はところどころ砂がこびりついている。


「甘いものはお嫌いですか?」

「いいえ、甘いものは好きですが、こんな格好ですし、一緒に行ってはかえって恥をかかせてしまいます」

「そうでしょうか」

「ええ。あの、もしさっきのトラブルを気にされての申し出なら、どうか気になさらないでください。この通り何もなかったわけですし」

「それは――」

「それに、このお花を買い取っていただかなくても、今日明日のご飯が食べられなくなるわけではありませんから私は大丈夫です」


なおも言い募ろうとする青年の言葉を遮るように続け様にそう言って、ご安心ください、とにっこり笑って見せる。

しばしの沈黙。


「……レディ、何か勘違いをされているようですが、私は同情してこんなことを言っているわけではありません」


きっぱりそう言うと、青年は少女に一歩近づいた。影が足元にかかる。心なしか、空気が重くなった気がした。


「それに、君と店に行くことは私も利があります。君に興味があるので」

「興味、ですか?それは、どういう――」

「ああ、失礼。変な意味ではありません。少し聞きたいことがあって」


害意はないというように、青年が軽く両手を上げてみせる。


「ええっと、この場で答えられることであればお答えします。とはいえ、私はこの街に来てまだそれほど時間はたっていないですし、お答えできることは少ないと思いますが……どんな内容でしょう?」

「少し長い話になるし、きっと他には聞かれたくない話になると思うからこの場では聞けません。内容も、君にしか答えられないことだ。例えばそう……君の故郷について、とか」

「――え?」


予想もしていなかった言葉に、どきりと心臓が跳ねる。


(故郷について、ですって?)


「……どうして、そんなことに興味があるんですか」


 動揺を悟られないように、できるだけなんでもないような口調で聞き返す。しかし、思いの外低く抑えた声が出て、語尾が震えた。

故郷について。思いつきの発言か、それとも何か意図や確信があって言っているのかわからないが、それは青年を警戒するには十分な発言だった。

 理由は二つ。一つ目は、少女が誰にも言わずに故郷から飛び出して、ここまできたから。


(故郷からの追手?まさか。それならこんなに回りくどいことはしない。私、何かおかしなことをしたかしら……しかも、この人と関わったほんの少しの時間で)


ふっと青年が笑いをこぼした。まるで、こちらの動揺を見透かすように。


「教えると言ったら、お茶に付き合ってもらえるかな?」

「お断りします」


もはや口調が変わって少しくだけた態度になった青年は、瞳に不穏な光をちらつかせている。

余裕を感じる笑みを浮かべているのに、探るような強い視線が少女を捉えて離さない。


(落ち着いて。揶揄われているだけかもしれない)


「……申し訳ありませんが、この花を売ることもお茶にお付き合いすることもできません。もしお花をご所望でしたら、二つ向こうの通りを右にまっすぐ行った突き当たりに品揃えのいいお花屋さんがありますので、そちらを訪ねてみてください。スイーツのお店に一緒に入ってくれる女性なら、お客様でしたらすぐに見つかると思います。まだ仕事の途中ですので、私は失礼させていただきますね。休みの日はかき入れ時なんです。それから、私の故郷はここからずっと遠くの西の外れの何もない田舎町なので、特段お話しできることはありません。それでは、失礼します」


視線から逃れるように早口でそう言って軽く頭を下げ、急いできびすを返す。

すると、低く呟く声が後ろから聞こえた。


「そうか、それは残念だ。せっかく君から話を聞こうと思ったのに――ニールの瞳を持つ君から」


目の前の相手にしか聞こえないであろう、小さな呟き。

しかし、その一瞬で、町の喧騒がスッと遠ざかった。

大声で友達を呼ぶ男の子の集団、すぐ近くを通り過ぎていく親子の会話。それらが、壁を一枚隔てているように、遠くに聞こえる。


(今、なんて?)


ありえない、と思う。でも、聞き間違うはずがない。

“ニールの瞳”

たしかにそう聞こえた。


(なぜ、この人がそれを……)


反応してはだめ、と頭が止めるよりも早く、体が後ろを振り返る。

冷たい風が吹き抜けて、目の前の瞳と再び視線が絡んだ。

その瞬間、燃えるような紺が細まるのが見えた。それを見て、少女はやはり振り向いてはいけなかったと悟った。


「……見つけた」


(――逃げなきゃ)


逃げなきゃ。ここにいてはいけない。

その思いは確信に近かった。だが、頭では理解していても、唇が微かにわななくだけで体は思うように動いてくれない。

高い太陽の光を受けて、乱れのない白銀の髪の影になった瞳が、濃くなっていく。

その影に反発するように、期待していた反応を見た瞳は爛々と輝いていた。


(足、動いて)


自分が浅く呼吸をする音が妙にはっきりと聞こえた。

視線が強く絡み合って逸せない。青年も、目を離さずじっとその場に留まっていた。

どちらかが動き出すまでの一瞬が、永遠のように長く感じる。

先に動いたのは青年だった。ゆっくりと持ち上がる手が、目の端に映る。長い指が、裾を目がけて伸びてくる――

指が腕に触れそうになった瞬間、近くで道の小石をつついていた鳩が、バタバタと音を立てて羽ばたいた。


(あ――)


周りの音が一気に戻ってくる。

途端に弾かれたように反射的に身を引いて、少女は何も言わずに、つんのめりそうになりながら後ろに向かって駆け出した。

少しでも早く、人混みに紛れるために。


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