第二話 押しかけ神様
草木も眠る丑三つ時、誰も彼もが闇の中に眠りこけている。
もちろんそこには、例に漏れず神も含まれていた。
「しっかし、どこへ行ったのかしら? 大和のどこかにいることは間違いないのだけど……」
一方、天界では雲のギリギリに足をぶらつかせ、望遠鏡を覗きながら一人ため息をつく少女が。
「ん!? あの子、人間のそばに!?」
これはまずい、と言わんばかりに少女は望遠鏡を放り投げ、ひょいっと飛び降りていった。
「うーん、眠い……」
今日は春休み初日。六時きっかりを指した時計の液晶を、東から差す朝日が燦々と照らしている。
窓を開けて新鮮な空気を取り入れるついでに、低い空に見える月に手を伸ばす。
「あぁ〜、気持ちいい〜」
まだ少し冷たい風、シジュウカラの豊富な鳴き声、蕾がポツポツ咲き出したソメイヨシノ。仲春の情景のハーモニーがとても心地よい。
ささやかでも、日々の中の喜びを感じられて幸せだ。
ピーンポーン!
おや? インターホンが鳴った。こんな早くに一体何の用だろう?
「はーい、今行きまーす。」
ガチャ、
ドアを開けるとそこには…………栗色のコートを着た小柄な少女がじっと突っ立っていた。
俺よりもかなり小さく、それこそ貧乏神と同じくらいだ。
ただ帽子を目深に被っているし、正面を見るばかりなのでどんな顔かはいまいちわからない。
「ちょっとお邪魔してもいいですね?」
ん? いきなり何を言い出すんだ、この子は。
「すみませんが今取り込んでまして、時間も時間ですしまた後日───」
そう言い残してドアを閉めようとしたが、その手首をガシッと掴まれてしまった。
見かけによらずかなり力強く、ズキズキと痛みが走る。
「やはりあんたが神酒周で間違いなさそうね、貧乏神と暮らしてるって聞いたわ。」
なんだか長丁場になりそうだ、早いところ朝ごはん作りたいからなんとか話を切り上げたい………
「確かに神酒周は俺だが、貧乏神だなんてそんな、知りませんよ〜」
「ごまかしても無駄よ、あたしにはわかるんだから。」
うーむ、もしかしなくともこの子も神様なのだろうか?
「とにかく、人間と悪神が暮らすなんて、害があるから見過ごすことはできない。」
「俺の自由だろ! ほっといてくれ!」
「ならとりあえず中にい・れ・て!」
「い・や・だ!」
「うーん、いっはいろうひまひた?(一体どうしました?)」
眠そうな目を擦りながら、廊下の奥から貧乏神がよろよろと出てきた。
「あ、起こしちまって悪い。まだ寝ててもいいんだぞ?」
「んん、ほなはですか?(どなたですか?)」
「あ、貧乏神! あんたこの顔を忘れたとは言わせないわ。」
そう言って、少女は帽子を投げ捨てる。
そこには、肩まで伸ばした茶髪を靡かせた気丈な少女が立っていた。
確かに神というにふさわしいほど端麗な顔立ちをしているが………貧乏神の知り合いなのか?
「ほや、ふふのはみさんじゃあひまへんか。(おや、福の神さんじゃありませんか。)」
「私がここにいる理由はわかるわよね? さ、天界に戻るわよ。」
「いやれふ。(いやです)」
「嫌って何よ! あんたに拒否権はないわ!」
「そういや、もうふふあさほはんのひはんなのへほはっはらたべへいひませんか?(もうすぐ朝ごはんの時間なのでよかったら食べていきませんか?)」
マイペースだなぁ、顔見知りに会えて嬉しいのかはわからないが………
「いいのか? あんまりお前のことよく思ってなさそうだが………」
「はまひまへん、ははひのははるはひはっへほほはわらひがよふひってはふ。」
「もはや何言ってるかわかんねーよ! まあいいや、そしたら上がって。」
「勝手に話を進めるんじゃないわよ! ………でもその左手は治してあげるわ。」
ほんとに手首が痛くなくなってる………!?
「驚いた? 福の神は人々に多種多様な幸せをもたらすのよ。私の来訪にもっと感謝することね。」
いやこれはただのマッチポンプだろ………まぁいいか。
「それじゃ、何作ろうかな………せっかくなら季節にあったもの作りたいところ。」
「豪奢なものじゃなくてもいいけど、早く取り掛かってちょうだい。」
キョロキョロと辺りを見渡すと、目にはキッチンの隅にごろりと転がるレジ袋。
そうだ、この前弦さんから筍をもらったんだった。こいつを朝飯の主役にしよう。
「よし、この筍で土佐煮でも作るとしよう!」
「わふわふしへひまひた!(ワクワクしてきました!)」
「顔洗ってくるといい。」
とりあえず、まずは下準備からだな………
レジ袋を持ち上げて覗き込むと、そこにはごろごろとした中くらいのそれが二本入っている。
春の訪れをしみじみと感じながら、土をこそぎ洗っていく。
「しかしわざわざ筍を洗うところから始めるとはね、よくやるわ、ほんと。」
「…………」
「あんた、風流って感じ。若いのに珍しいから感心するわ。」
「……………」
「ねえ? 聞いてるの?」
「………………」
「……そろそろいいんじゃないかしら、素人目に見ても綺麗よ」
「…………………」
「聞いてるの? 神酒周!」
「!! ……あぁ、確かにそうだな。すまん夢中になりすぎた」
「周! 顔洗ってきました! とってもスッキリです!」
キラキラと目を輝かせた貧乏神が手を振りながら戻ってきた。
さながら運動会の選手宣誓みたいだ。
「ちょうどよかった、米糠と唐辛子、戸棚から持ってきてくれないか?」
「わかりました!」
穂先を斜めに切ったら、垂直に浅く切り込みを入れて、っと。
これをするだけでだいぶ皮が剥きやすくなって便利なんだよな、やっておかねば。
もう一本、ヨイショ。
「持ってきました! それと唐辛子がもうすぐなくなりそうなので後で買いに行きましょう!」
さては天界に帰る気さらさらないな………?
正直それで良さそうだが、福の神が無駄足になってしまうのには少し同情する。
「ちょっと! 天界に帰るって言ったでしょ!」
「ご飯食べてから考えましょうよ、福の神さん」
「考えるとかそういうのじゃないわよ、いい加減にしなさい!」
「はいどうぞ、周。」
「あ、ありがと……」
「あぁもう! いつもこうなんだから!!!」
いつもこんな調子なのか………この子も辛抱強いなぁ。
………鍋に筍がまるまる浸かるくらいの水と、米糠一カップくらいに唐辛子一本を入れ、火をつける。
中火と強火の間…中強火とでも名付けようか、くらいにして沸くまで待つ。
あ、そうだ米を炊いておかないと───
「ねえ、面倒とか思わないわけ?」
「まぁ………ぶっちゃけ思う。でも作った料理で喜ぶ人や神がいるんなら、やる気も出るってもんだ。」
「ふーん、そう。」
「───よし、落とし蓋もしたことだし、あとは火が通るのを待とう。」
「いいじゃない、どのくらいかかるの?」
「この大きさなら二時間ってとこかな。」
「に、ににに二時間!? 冗談じゃないわ!」
飯に二時間かけるのは、やっぱりどうかしてるか。
「本でも読めばすぐだろう。読むか?『徒然草』だ。」
「そんなもの、もうとっくに読み尽くしたわよ!」
神なのは伊達じゃなかったか………
「それなら福の神さん、周と牡丹餅でも買ってきますか? 筍は私が見てますよ。」
「そういや今日は彼岸だったな。忘れるところだった、ありがと。」
「いやいや、貧乏神に火番を任せるなんてもってのほかよ! それくらいなら二時間なんてじっと待ってやるわ!」
そんなに張りつめなくてもいいと思うんだけどな………
でも被害を未然に防ぐ意識が高いのは実際いいこと、俺も見習うべきだな。
コトコト煮込まれる筍を、我が子のようにここでじっくりと見守ることにしよう。
短針は八時を回り、外も明るくなってきた。
まさに一日が始まったと自覚できる時間だが、神は二人……二神? 揃ってすやすや眠ってしまったようだ。
しょうがないな、風邪ひくといけないから布団かけてやるか。土佐煮ができたら起こしてやろう。
一方我が子こと筍はというと、完全に粗熱も取れてあとは皮を剥くだけになった。
これだけの量だ、多分しばらくは筍祭りだな。
明日以降の献立に胸を躍らせながら、皮をかっぴらいてするりと剥きとる。
硬いと貧乏神たちは食べにくいだろうから、気持ち多めに………
一旦洗って、根本の硬い部分を包丁で剥きとっておこう。
そしたら先端……穂先を切り落とす! これで筍の下処理は終わりだ。
「あぁ、長かったぁ」
穂先側は柔らかいから繊維に沿って縦に割り、根本側は逆に硬いから繊維を断つように輪切りにしよう。
そして………努力の結晶を水、顆粒だしと一緒に鍋に入れる!
コンロのつまみを捻った時、反射的にガッツポーズをしてしまうくらいには道のりが長かった。
「んぅ〜? あ、わらひねひゃっへたみらひでふね………(私寝ちゃってたみたいですね)」
どうやら貧乏神が起きたみたいだ。
ちょっと早いが、せっかくだし食器を運んでもらうか。
「おはひょうほはいはふ(おはようございます)、周。」
「おはよう、貧乏神。顔洗ってきたら食器を運んでもらえるか?」
「わはひまひた。(わかりました)」
さて、福の神が起きてくるのはいつになるかなぁ。
あの調子なら天界に帰ることはあんまりなさそうだと思いたいが………
もし帰ることになっちゃったら───
「───周! 助けてください!!!」
「!? どうした!」
「み、水が止まらなくて!!」
「今いく!」
「ぬー! ぐー!」
駆けつけてみれば、蛇口を逆方向に回して奮闘している貧乏神がいる。
だがその努力の虚しさが洗面所の床の惨状にまざまざと表れていた。
「下がってくれ、多分無理だ。」
とりあえず洗面台の下の戸棚を開き、止水栓を力の限りに回した。
幸いにも水は止まったが…………これはもう修理業者を召喚するしかないか、でも今日祝日なんだよなぁ──
「ちょっと、何よこれ! 床がびしょ濡れじゃない!」
福の神の叫声が家中に響き渡る。
「貧乏神! あんたどれだけの人を不幸にするつもりなのよ!」
「でも………」
「でもじゃない、これで一万よ! 福の神としてこれは看過してられないわ!」
「それでも! 私の初めてのわがままを、どうか許してくれませんか? 私は周と一緒にいたいんです!」
貧乏神がかつてないほどの大きな声で吐露してくれた。俺は驚きを隠せないが、何かこみ上げてくるものがある。
しばしの沈黙の後、福の神が口を開く。
「………そう。ところでなんだけど…………」
「なんだ?」
「煮物が吹きこぼれてるわよ。」
弦のように張り詰めた空気が、ビヨンと弛んでいくように感じた。
「「…………え!?」」
煮物!!! 煮物ぉ!!!
「───よし、『筍の土佐煮』出来上がりだ!」
最後の最後にアクシデントこそあれど、割と上手くできた方だと思う。
醤油とみりんベースの素朴な香りが、食欲を引き立ててくれる。
「「いただきまーす!」」
「さぁ福の神さんも食べましょう!」
「い、いや私はいいわよ……」
「きっと美味しいぞ、一口でいいから食べてみてくれよ。」
福の神はどうもバツの悪そうに煮物をチラチラ見ている。
こういうのは初めて食べるんだろうか? 訝しむ気持ちはわかるが………
「福の神さん、周と私を信じてみてください。きっとお口に合うはずですよ!」
「………一口だけよ。」
取り皿に乗せて口まで運ぶその姿には、とても気品がある。
言動で忘れかけるが、所作の端々で神性がちらつき、思い出させてくれる。
「!! これ、シャキシャキしてて……とっても香ばしくて……!」
曇っていた顔が、咀嚼するたびにどんどん晴れていくのがわかる。
「だろ! とっても素直な味付けゆえの直球な美味しさだ!」
「それにしたって………こんな美味しいものを今の今まで見過ごしていた、なんて考えられないわ! どういうことなのよ!」
それは俺にもわからんが………
「愛情…とか?」
「もう、見直したと思ったら貧乏神の惚気話とか! よそでやってちょうだい!」
「それもあるが、なんだかんだ君も食べてくれると思っていたしさ。」
「………何よ! 面映くてならないじゃない!」
福の神の顔がみるみるうちに紅潮していく。さながら熟した桃のようだ。
「ありえない……」
そう呟いたかと思うと、福の神は二つ目の筍に箸を伸ばしている。
そんなに気に入ってもらえるとは、作ってもらった甲斐があるというものだ。
「天界に戻ろうものなら、きっとこれも食べ納めですねぇ。」
誰ともなしに、だがはっきりと、貧乏神が残念そうにこぼす。
「あぁもう!! わかったわ、神酒周!! あんたの料理に免じ、貧乏神の天界帰還については今日のところは見逃すわ。」
「ありがとうございます!」
どうやら許されたみたいだ。まるで懐柔したみたいでちょっと複雑なのだが、これでこのいざこざも終わったか───
「ただし! 私もここに住まわせてもらうことにするわ!」
「え!? ちょ何を言ってるんだ!」
「貧乏神に不幸にされる人間を放置したままというのは、神の沽券に関わるのよ。
何か重大な損害を生み出そうものならば、私が即座に連れ戻すわ。いいわね?」
うむむ………せっかく歩み寄ってくれたのだ、その手を払いのけるわけにはいかないな。
「あ、ちょっと待って。朝だけじゃなくて夕ごはんも出してもらえるのよね?」
「一緒に暮らすとなれば家族だからな、そりゃあそうだ。休みは昼飯も作るぞ。」
「家族って!! …………と、とにかく合意ということでいいのね?」
「俺は構わないが……貧乏神はどうだ?」
結局のところこれは貧乏神の問題なのだ。だから彼女が首をどう振るか───
「もちろんいいですよ! これから賑やかになりますね!」
パアッと明るい笑顔で貧乏神が即答する。知己と一緒に暮らせて幸せそうだ。
「それじゃあ、これからよろしく頼むぞ。」
「歓迎会でも開きましょう!」
「まあ待て、まだ飯の最中だ。あとで三人で牡丹餅を買って食べるとしようか。」
「盛大にやりなさいよ!」
あとは修理業者の予約を取り付けて、墓参りにも行って……そうだ弦さんに土佐煮おすそ分けしないとな、今日は大忙しだ。
あったかいご飯と空気の中、俺たちは土佐煮を食べ進めるのであった。