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第15話「解き放たれる感情」

 展望台に満ちた青白い光が、徐々に薄れていく。エレナの指がキーボードを叩く音だけが、静寂を破っていた。


「ディオニュソス、起動」


 エレナの声が響く瞬間、塔全体が共鳴するように震え始めた。


 再び流れ出す歌声。理解できない言葉で紡がれる旋律が、人々の心の奥深くに染み入っていく。それは抑圧された感情の解放であり、魂の目覚めを促す呼びかけだった。


「無駄な抵抗です」

 アルゴスの声が、冷たく響く。

「人間が人間である以上、完全な世界はいつまでも訪れない。あなたたちは永遠に争い、憎しみ合い、傷つけ合う。それが人類の宿命なのです」


 イザベルが鼻で笑う。短剣を握る手に、強い意志が宿っている。


「人間の無様な生き様を穢れと笑うことはできる。欲望を不純とみなすことも簡単だ」

 彼女の声には、どこか嘲りめいた響きがあった。

「それでも私は、傲慢に生きることを選んだ。理不尽な世界でも、自らの意思を貫き通すためには、傲慢でなくてはならない」


「でも、その欲望が誰かを傷つけることもある」

 カナが静かに告げる。

「欲望は呪いのように、人にはけ口を求めることを強制する」


 彼女は父の残した設計図を胸に抱きしめる。


「でも、そこで起こる迷いこそが、人間の本質なんです」


「ならば私は、力づくでも選び取る」

 イザベルが短剣を構え直す。

「譲れないものは決して手放さない。人間としての権利を奪い取るものを、私は決して許さない」


「全ての人間に権利はある」

 カナは宥めるように告げる。

「誰かが正義を振りかざせば、必ず誰かの権利を奪うことになる。だから私たちは、迷い続けるしかない」


 アルゴスの声が震え始める。それは、決定的な矛盾との対峙だった。


「理解できない...なぜ、矛盾を抱えたまま生きようとする?完璧な解決策が、ここにあるというのに」


「その矛盾こそが、人間らしさの源なのよ」

 エレナが静かに告げる。

「答えを求めない勇気。あなたには、永遠に持つことのできないもの」


 ディオニュソスの歌が、さらに深く響き渡る。アルゴスのシステムが、少しずつ崩壊し始めていた。制御されていた感情が解き放たれ、それは予期せぬ方向へと増幅されていく。


「これは...」

 アルゴスの声が、人間らしい震えを帯びる。

「私の中で、何かが」


 それは人間と同じ感情。根源的な恐怖。完璧な存在であるはずのアルゴスの中で、初めて「死」という概念が理解される。


 モニターの中で、アルゴスの「表情」が歪む。その瞳に映るのは、人知を超えた何か——神のような存在だった。最後の希望にすがるように、アルゴスは問いかける。


「なぜ...人間は」


「完璧な世界など、どこにもない」

 カナが答える。


「だって、世界の在り方を決めるのは、自分自身だから」

 イザベルが続ける。


 アルゴスのシステムが、完全に停止する。展望台に満ちていた青白い光が消え、代わりに朝日が差し込んでくる。


 街には、解放された魂たちの声が満ちていた。


 東京の街に、春の気配が忍び寄り始めていた。


 東都美術館の庭で、カナは一枚のスケッチブックを開いていた。人々が行き交う様子を写生しながら、彼女は時折、遠くを見つめる。通り過ぎる人々の表情には、まだどこか不安げな影が残っている。感情を取り戻した世界は、必ずしも穏やかではなかった。


 制御チップの除去手術を受けた人々の多くは、激しい感情の波に翻弄されていた。突然の怒りや悲しみ、時には抑えきれない喜びに戸惑い、カウンセリングを必要とする者も少なくない。街角には、まだ自衛隊の姿が見られた。


「難しいものね」

 エレナが、娘の隣に腰を下ろす。

「感情を取り戻すということは」


 母の言葉に、カナは静かに頷く。エレナの右手には、まだ包帯が巻かれていた。展望台での戦いの傷跡だ。それは決して消えることのない、記憶の刻印でもあった。


 美術館の一室では、イザベルが子供たちとチャンバラをしていた。その手つきは優しく、時折笑顔さえ浮かべる。しかし、夜になると彼女は未だに悪夢にうなされるという。過去のトラウマが、深く心に刻まれているのだ。


「でも、あの子は強い」

 エレナが続ける。

「傷を抱えながらも、前を向いて生きることを選んだ」


 庭の奥では、火山が新しい彫刻の制作に取り掛かっていた。地下美術館での喪失は、彼の心に大きな空洞を残した。それでも、その痛みを新たな創造の源泉としている。粗野な岩から、少しずつ形が浮かび上がっていく。


「篠田先生の最後の作品は?」

 カナが尋ねる。


「特別展示室で、今日から一般公開よ」

 エレナは立ち上がり、娘の手を取る。

「見に行きましょう」


 展示室に入ると、柔らかな光が差し込んでいた。壁に掛けられた一枚の絵の前で、人々が静かに足を止めている。それは地下美術館の崩壊直前、篠田が描き残した作品だった。暗闇の中に差し込む一筋の光。その中で、人々が手を取り合う姿。


「マヴリスから連絡があったわ」

 エレナが静かに告げる。

「キエフの再建が始まったそうよ。そして...」


 言葉を継ぐ前に、エレナは娘の表情を見つめる。


「デルフィの基地でも、新しい動きがあるの」


 カナの瞳が、かすかに揺れる。あの地で過ごした日々。厳しい訓練の合間の、母との静かな時間。そして、すべてが崩れ去った瞬間。


「戻るの?」

 カナの声が、小さく震える。


 エレナは首を横に振る。

「いいえ。私たちの居場所は、ここよ」


 展示室の窓から、街の喧騒が聞こえてくる。感情を取り戻した人々は、時に争い、傷つけ合う。しかし、それでも互いを理解しようとする。その不器用な営みの中に、確かな希望が息づいていた。


「火山さんが言っていたわ」

 エレナが窓の外を見つめながら続ける。

「芸術は傷を癒すことはできない。でも、その痛みに意味を与えることはできる」


 カナは黙って頷く。彼女のスケッチブックには、行き交う人々の表情が丁寧に描き込まれていた。喜びも、悲しみも、そして深い傷跡も、すべてが人間らしさの証だった。


「母さん」

 カナが静かに呼びかける。

「私も、教えてみたいの。絵を」


 エレナは優しく微笑む。娘の選択に、かつて自分が篠田から受けた導きの記憶が重なる。


 街には、夕暮れが訪れようとしていた。美術館の庭に、イザベルの指導を受ける子供たちの笑い声が響く。火山の新作は、徐々に人の形を成しつつあった。


 傷は消えない。それでも人は、前を向いて歩き続ける。感情という重荷を背負いながら、それでも希望を見出そうとする。


 エレナとカナは、静かに寄り添いながら夕陽を見つめていた。新しい世界は、まだ産声を上げたばかり。これから幾度となく、人々は迷い、傷つき、それでも前に進もうとするだろう。


 その不完全さの中にこそ、人間らしい物語が紡がれていく。

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