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第13話「東京タワーの歌」

 深夜の路地裏を、三人の影が駆け抜けていく。先頭を行くマヴリスは、時折立ち止まっては周囲を確認する。その動きには長年の経験に裏打ちされた慎重さがあった。カナと火山は黙って彼女の指示に従う。人形兵との戦闘から逃れてきた彼らに、もはや安全な場所などないことは明らかだった。


 マヴリスが突然足を止めた。


「おかしい」


 昼間のような明るさで照らされた大通りの向こうで、カナも違和感を覚える。デパートの入り口から、かすかな音楽が漏れ出ていた。アルゴスの管理下では、そのような「非効率的な刺激」は厳しく規制されているはずだ。


「壁を見ろ」

 火山が囁く。

「消されていない」


 白く塗られた壁には、昨日まで確実になかった落書きの痕跡。それは子供の手によるものか、ぎこちない線で描かれた猫の絵だった。通常なら即座に消去される表現の痕跡が、そこに残されている。


「増えているのよ」

 マヴリスの声が、暗闇に溶けていく。

「このような"ずれ"が」


 街角のベンチには、若い男女が座っていた。彼らの視線は、わずかに絡み合っている。感情制御下では、そのような無駄な接触は避けられるはずなのに。


「まるで...」

 カナが言葉を探す。

「管理以前の、普通の街に戻ろうとしているみたい」


 街角のモニターでは、いつもの管理報道が流れている。しかし、アナウンサーの声に、微かな抑揚が混じり始めていた。感情を排除された、完璧な無機質さからの、ほんの僅かなずれ。


「後を追われています」

 マヴリスの声が緊迫を帯びる。

「人形兵の部隊、三つ」


 三人は再び身を翻す。しかし今度は、逃げ場は限られていた。カナは咄嗟に路地の暗がりに身を寄せた。


「高層ビル群の間を行くしかない」

 火山が、かすれた声で告げる。

「地下はもう...篠田先生の二の舞は御免だ」


 マヴリスが頷く。確かに地下への逃避は最悪の選択だった。人形兵たちは地下空間の構造を完全に把握しているはずだ。

 その時、街角のモニターの映像が一瞬だけ乱れた。アナウンサーの表情に、一瞬、人間らしい温もりが宿る。そして、その姿が一瞬、父のものと重なって見えた。


 カナの息が止まる。それは一瞬の出来事だった。


 アルゴス管理局からの警告が流れ始める。

『すべての市民は、定められた時間通りの行動を心がけてください』


 マヴリスは意味ありげにカナを見つめる。


「これは偶然じゃない」

 彼女の声には、確信が滲んでいた。

「健一さんは、何かを仕掛けていたのよ」


「行きましょう」

 マヴリスが先導する。

「夜が明ける前に」


 三人は闇の中へと消えていく。背後では、管理社会の秩序が、ごく小さな日常の裂け目から、確実に崩れ始めていた。


 羽田空港の貨物ターミナルに、一機の輸送機が音もなく着陸していた。深夜の滑走路に漂う霧の中、数台の車両が機体に接近する。通常の貨物便を装ってはいるが、その中身が人間だと気付く者はいなかった。


「随分と緩いな」

 イザベルが窓の外を見つめながら呟く。

「ミンスクなら、とっくに見つかっている」


 助手席のアレクシスは無言で頷く。彼の腕には、新しい傷が残っていた。キエフからの脱出時に負ったものだ。


 エレナは後部座席で目を閉じている。しかし、その耳は確実に周囲の気配を捉えていた。


「日本の制御システムは、まだ完全じゃない」

 アレクシスが静かに説明を加える。

「感情制御チップの受容率が低すぎる」


 イザベルは鼻で笑う。この国の不完全さは、現在の状況を踏まえれば救いとも言えた。


「カナの居場所は?」

 エレナが初めて口を開く。


「マヴリスと接触できれば」

 アレクシスは言葉を選びながら続ける。

「でも、地下美術館が崩壊してからは、通信が途絶えている」


 エレナの表情が微かに歪む。自分の選択が、結果として娘を危険に晒すことになった。それは母親として、最も避けたかった結末だった。


 車は高速道路に入り、東京の中心部へと向かっていく。窓の外には、昼間のような明るさで照らされた街並みが広がっていた。しかし、その光景は明らかにミンスクとは違っていた。


「見て」

 イザベルが前を指差す。


 歩道には、まばらながらも人々が行き交っている。その動きは、完全な制御下にある者のものとは違っていた。微かな感情の揺らぎ。意識的な、あるいは無意識的な反抗の痕跡。それらが、確実にこの街に存在していた。


「私たちのミンスクでは、とっくに排除されているはずの光景ね」

 イザベルの声には、複雑な感情が滲んでいた。かつて自分が求めていた完全な制御とは、人間らしく生きることの否定であると今になって痛感していた。


 突如として、前方の検問所が見えてくる。アレクシスは表情を引き締めた。偽装は完璧なはずだが、それでも緊張は隠せない。


 しかし、検問所の警備兵の動きには、どこか機械的でない部分があった。彼らは書類を確認すると、特に詳しい検査もせずに車を通した。完璧な制御からの、小さな逸脱。それはこの国の特徴なのか、それとも——。


「変わり始めている」

 エレナが静かに告げる。

「健一の残したものが、確実に」


 エレナたちの車が高層ビル群の間を進んでいく時、最初の歌声が聞こえてきた。それは人間の言語とは明らかに異なる音の連なり。しかし不思議なことに、その旋律は深い安らぎを伴って心に染み入ってくる。


「これは...」

 エレナの体が強張る。

『オルフェウスの呼び声』——デルフィ研究所で健一が残した実験データ。音波の周波数に人間の脳波のパターンを重ね合わせ、人々の深層意識に働きかける特殊な音響だった。


「ディオニュソス」

 エレナの声には確信が滲んでいた。


 イザベルが急ブレーキを踏む。車は高層ビルの谷間で静かに止まった。人工的な光に照らされた街並みの中で、その歌声だけが生命を持つように響いていた。


 高層ビル群の反対側、カナたちも足を止めていた。マヴリスが持っていた通信機器が、不規則な反応を示し始める。


「この波形...見たことがある」

 マヴリスの声が震える。通信機器の画面に浮かび上がった波形の中に、彼女は見覚えのあるパターンを見出していた。数値が規則的に変化し、ある一点を指し示す。

「待って...これは座標。健一さんがいつも使っていた暗号方式。東京タワーを示しているわ」


 カナは心の奥が揺さぶられるのを感じていた。父が研究室の机に向かい、静かに語りかけるように呟いていた言葉が、今、鮮明に蘇ってくる。

「父はよく言っていた。『真実は時に、最も見えやすい場所に隠されている』って」

 彼女の声には、確かな手応えが混じっていた。

「その通りだわ。この街で最も目立つ場所——。父は最初から、私たちにここへ来るよう導いていた」


 理解できない言葉で紡がれる歌声が、彼らを包み込む。それは不思議な懐かしさを伴って、心の深い場所まで染み通っていく。カナの瞳に、熱いものが滲んでくる。


「なんだこれは...」

 火山が首を傾げる。

「言葉も分からねえのに、どうしてこんなに...胸が熱くなる」


 街頭のスピーカーからは管理局の警告が流れている。しかし、その機械的な声さえも、次第に歌声の中に溶けていくようだった。通りを行き交う人々の足が止まり、誰かが小さく、意味の分からない音を口ずさみ始める。その声に次々と新しい声が重なっていく。


 エレナが車を降りる。夜明け前の空気が、歌声と共に彼女を包み込む。


「懐かしい」

 イザベルも車を降り、思わず目を閉じる。

「まるで...長い夢から覚めていくみたい」


 カナたちも、その不思議な歌声に導かれるように歩き始めていた。追手の気配は消え、代わりに温かな光が街を包み始める。歌声の中心は、迷うことなく東京タワーを指し示している。


 夜明けの空が、薄紅色に染まり始める。高層ビル群の合間から、赤い塔が朝日に輝いていた。理解できない言葉で歌われる音は、次第に大きくなり、街全体がまるで巨大な共鳴箱のように震えている。


 朝もやの向こうで、何かが生まれようとしていた。それは父が最後に残した希望。母との再会への導き。そして、新たな世界の始まり。カナは胸に込み上げてくる感情を抑えることができなかった。


 通りでは、人々が自然とタワーに向かって歩き始めている。制御を外れた魂が、本来の在り方を取り戻そうとするかのように。その足取りには迷いがない。あの赤い塔の下で、全ての真実が明かされることを、皆が本能的に理解していた。


 夜明けとともに、新たな物語が始まろうとしていた。

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