第61話 衆議院選挙②
江戸城本丸跡地下。通路内倉庫。
洞窟内に作られたワンルームほどの空間。
ライブ用の機材や、簡易ベッドが置かれる場所。
「……っ」
アザミは重そうな瞼を開き、簡易ベッドの上で目を覚ます。
服装は、キャプチャー用スーツから、白黒の袴に変わっている。
髪は白色のままで、体には分厚い青のブランケットがかけられていた。
「こ、ここって……」
アザミはむくりと起き上がり、辺りを見渡す。
ふと目に入ったのは腕に刺さる注射針と点滴用の器材。
(点、滴……。ここで、何があったんだっけ)
ぼんやりする頭で針を抜き、もう一度辺りを見る。
すると、近くの壁に立てかけられた赤鞘の刀が見えた。
それを見て思い出す。アミとの死闘。互いの信念をかけた戦い。
(そうだ……。アミさんと戦って、その後、その後……っ!)
全身の血の気が引いていくのが分かる。
絶対に気を失ってはいけないタイミングだった。
「あ、あの後、フェスは……」
みやびフェス東京で、『エンジェルロード』を披露する。
そのためにアミを倒し、その先にある夢を掴み取るために頑張った。
だけど、寝てしまった。気絶してしまった。ファンを雨の中放置してしまった。
(どうしよう……どうしよう……っ)
嫌な汗が、体中から溢れ出てくる。
みやびフェスを台無しにしまったかもしれない。
ナナコから託された思いを、不意にしてしまったかもしれない。
「……ま、まだ、間に合うかも」
そう思いながらも、わずかな望みにかけて、アザミは立ち上がる。
裸足のまま倉庫を飛び出し、本能のままにステージへ向かおうとする。
「――わっとと。薊、やっと起きたんだ!」
そこですれ違うのは、ピンクのワンピース姿の桃瀬桃子。
嬉しそうな声と表情が目に入るけど、今はそれどころじゃない。
「い、今、なんて」
アザミは足を止め、恐る恐る尋ねる。
無視できるはずがなかった。だって、今、聞いたのが、もし。
「……え? わっとと?」
「ち、違います。その後です……」
今は冗談に反応できるほど余裕なんてない。
(お願い。聞き間違えであって……)
そう心から願い、桃子からの返事を待つしかなかった。
「あぁ、『やっと起きた』だよ。だって丸三日も寝てたからね」
しかし、返ってきたのは、一番聞きたくなかった言葉。
もう聞き間違えでは済まない。過去形。丸三日。それが示す意味は。
「じゃ、じゃあ、フェスはもう……」
「終わったよ。観客には機材トラブルだって説明したら、納得してくれた」
当日は雨がひどかったし、地下の振動も伝わってるはず。
それをトラブルだと公表したから、分かってもらえたんだろう。
でも、絶対不満に思った人がいる。楽しんでもらえなかった人がいる。
「あ、あれだけ期待させて、し、失敗……」
もやっとした感情が胸の内側から広がるのを感じる。
(ナナコさんなら、鬼龍院みやびなら、きっと上手くやったのに……)
理想には程遠い。理想を知っているからこそ劣等感を感じてしまう。
「何言ってんのさ。薊は十二分に頑張ったよ。同接は775プロダクション史上最高の600万人越えを記録したし、伊勢神宮チャンネルは975万人を突破。社長の登録者数超えたんだよ。もっと自分を誇っていいんじゃないかな」
そこで桃子はこっちを気遣ってか、フォローを入れてくれる。
数字を見れば成功とも言えるし、本心で言ってくれているのは分かる。
――だけど。
「す、少し一人させてください」
起こった出来事を受け入れられない。
自分の心の中で、肯定も否定もできない。
踏ん切りがつかない。考えが上手くまとまらない。
だから、逃げる。裸足のままで、アザミは桃子を横切ろうとする。
「……待って。戻ってくるんだよね」
顔は見えない。だけど、その声色は暗かった。
もう二度と戻ってこない。そう思われているんだろう。
実際、一度は彼女の前から姿を消したから不安になる気持ちは分かる。
「や、約束、覚えてますか?」
気の利いた一言でも言えれば良かった。
でも、出てきたのは逃げるための保険。卑怯な口実。
自分が嫌いになりそうだった。『絶対に戻る』と言えば済む話なのに。
「デートした日のやつでしょ。当然、覚えてるよ」
「じゃ、じゃあ、何かあった時のことは、分かりますよね?」
「うん、分かってる。……でも、あーしは戻ってくるって信じてるからね」
桃子と交わした言葉は、たったそれだけ。
だけど、重い。その言葉がこの先もずっと心にのしかかる気がした。




