第50話 みやびフェス東京④
東京都。千代田区。レコーディングスタジオ。ミキシングルーム。
密閉された空間には、様々な音響機器とそれを操作できるパソコンがある。
「……まだ、まだ足りない。これじゃあ、曲が歌詞に負けてる」
目の前のモニターには、音楽編集ソフトの画面が表示されている。
それを丸椅子に座り操作するのは、ヘッドフォンをつけた黒服のキクだった。
「もっとエッジの効いたギターサウンドが欲しい! もっとパンチの効いたベースラインを作れ! サビには、もっとエモーショナルなサウンドが必要だ! もっとドラムのビートを強化しろ! ……もっと、もっと、もっと!!」
今までの経験を総動員して、作業にひたすら没頭する。
残り時間は多くない。後ろに爆弾があるような感覚で手を動かし続けた。
「――」
そこに轟音が鳴り響く。ビルの天井がぶち破られた音。
純白の鎧を纏い、白と黒の翼を生やす、爆弾以上の存在が背後に現れる。
「……」
しかし、キクはそれに気付かない。
作業に没頭し、手を動かし続けている。
「お伺いしたいことがあるのだけれど、少しよろしい?」
その鎧の中身――シスターユリアは問いかける。
何事もなかったかのように。日常の一部であるかのように。
「……」
キクはそれにも気付かない。
ぶつぶつと改善点をつぶやき続けている。
「……あら、お聞こえになってない? お頼み方がなってなかったかしら」
そこでユリアは、自らの白い翼に手をかけ、羽根を一本ちぎる。
そのまま尖った羽根先を親指で挟み込み、ダーツのように狙いを定め。
「――」
投げた。キクの頭へ一直線に向かい、羽根はヘッドセットの右耳部分に命中。
「千葉薊の居場所をお教えくださる? 素直な方にはお手荒な真似はしません」
これで音は聞こえているはず。
そう言わんばかりに、ユリアは本題を切り出した。
「……」
キクはそれでも気付かない。
改善を加えた曲に聞き入っている。
「お無視、ね。……だったら、お手荒にいきましょうか」
ユリアは再び白い羽根を手に取り、手首のスナップをきかせ、投げる。
「……」
矢のごとく放たれた羽根は、無防備なキクに迫り。
さく、という音と共に、今度は右ふくらはぎに命中していた。
「お教えくださる気になりまして?」
これで無視できるわけがない。
そう言わんばかりに、ユリアは再び問う。
「……くそっ、こんなのじゃ駄目だ!!」
しかし、返ってきたのは、机を強く叩きつける音。
見るからに分かる無視。というより、まるで気付いていない。
「お眼中にない、と。……それなら、お気付きになるまで」
ユリアは白い羽根三本を右手の各指に挟み込み、
「いたぶるとしましょう」
次々と、投げる。投げる。投げる。
命中したのは、左ふくらはぎ。右足首。左足首。
羽根先が皮膚と血管を貫き、キクの足元には血が滴り落ちている。
「……違う。違う! こんなものじゃ観客は満足しない!」
それなのにキクは動じない。
ただ、曲の完成度を高めることしか頭にない。
「またお無視……。ただ、そのやせ我慢、どこまで続くかしら」
次は両手の指に白い羽根を挟み込み、一斉に投げる。
今度は先ほどの倍。六本の羽根が各指先から放たれている。
「……くっ」
キクの顔色は歪み、うめくような声が漏れる。
放たれた羽根は左上腕。左肩。背中を中心に全て命中。
黒いスーツの内側から生じた血液により、赤く滲み出している。
「そろそろ、お観念なさったらどう?」
声が聞こえている前提で、ユリアは再び問いかける。
これで根をあげない馬鹿はいない。そう言わんばかりに。
「……諦めたら、楽になれる。妥協すれば、解決する」
「ええ。お仲間の命と引き換えに、あなただけはお助けしましょう」
どちらも独りよがりな独り言。
それなのに、奇跡的に会話は噛み合っていた。
「――いや、それなら、殺された方がマシだ。自ら命を絶った方がマシだ。ナイフで喉元を掻っ切った方がマシだ。喉元に銃口を突きつけられてぶっぱなされた方がマシだ。妥協して選んだ職場で働いて、頑張っても見返りがなくて、嫌気が差したから、姉貴の元に来たんだろ! これ以上やりがいのある仕事なんて他にない。これ以上見返りがある楽曲なんて他にない。死んでも、妥協なんてできるか!!!」
そんなことはお構いなしに、キクは追い込む。
自らを責め立て、精神をすり減らし、心を追い詰める。
そして、負傷した腕を必死に動かし、止まっていた作業を再開する。
「……はぁ。お誤解、だったみたい」
深いため息をつくユリアは、翼に手をかける。
今度は、白ではなく黒。左肩にある黒い翼から羽根を一本取る。
「いける。いけるぞ、これなら……っ!!」
痛みを感じないほどの、狂気的な追い込み。
周囲の状況を視認できないほどの、驚異的な没頭。
そのおかげか、曲の完成度は見るからに上がりつつあった。
「仏の顔もお三度まで。次であなたはお亡くなりになるけど、よろしい?」
しかし、背後には、黒い羽根を親指で挟み、狙いを定めるユリア。
次はない。そう言わんばかりに警告し、脅しでは済まない死が迫っていた。
「…………終わった。完成、だ。一刻も早く母さんに」
その間に、キクは満足のいく完成にこぎつける。
試聴をする間もなく、開いたのはメールフォーム。
宛先を入力し、編曲が終わった楽曲を保存、添付する。
――あとはエンターキーを押すだけ。
「白は『既知』で、黒は『未知』。何が起こるかは、お楽しみ」
再三にわたり、警告を無視し続けた罪。
その罪を罰する黒い羽根が、今、投げられる。
「……ッ」
命中。黒い羽根先がとらえたのは、首元。
そこでようやく、キクは我に返り、後ろを振り向く。
「なに、が……」
言葉に詰まり、表情は凍っていた。
後ろにいた背中に翼を生やす鎧を見たせいだ。
「あなたはこれから、未知の現象に見舞われ、お自壊する。思い残したことは?」
そして、その反応を見越していたかのように鎧は答える。
「……っ!? 俺にはまだ、やることが!!!」
状況を理解し、すぐさま前を向き、エンターキーに右手を伸ばす。
「あ、あぁぁぁあぁ……っ!!!」
しかし、右手はぐにゃりと変形し、ただれ落ちていく。
正気を保てるわけがない。焼けるような痛みと共に声が漏れる。
科学では到底説明できない現象。肉体がバターのように溶け始めていた。
「これは興味深い。バター化現象とでもお名付けしましょうか」
そこに、薄ら笑いを浮かべていそうな、舐めた声が聞こえてくる。
(舐め、やがって……。あんなやつに負けて、たまるか)
平静を保つため、キクは己を奮い立たせる。
右腕が駄目なら、次は左腕だと、体に命令を送った。
「……ぎ、ぐぐ」
だが、動かない。体が言うことをきかない。
歯を食いしばって激痛を耐え、必死に動かそうとする。
(……届け。届け、届け、届け届け届け、届けっ!!)
しかし、それでも届かない。今度は左手が溶け始めていた。
「お滑稽。わたくしの言うことを聞いていれば、助かったのに」
そこに、見下してくるような、心底イラつく声が聞こえてくる。
(見下し、やがって……。神様にでも、なったつもりか)
前に進むために、キクは怒りを湧き立たせる。
両腕が駄目なら、次は体ごとだと、脳に命令を送った。
「……う、ぐぅっ!!」
上半身はなんとか、机の上に乗っかれた。
ただ、キーボードは奥に押され、遠のいていく。
しかも、反動で下半身は溶け、裂けるような痛みが走った。
(脳が、あつい……。意識が、遠のきそうだ……)
なぜ、生きているのか分からない状態。
それでも体はまだ動いた。それでも頭はまだ働いた。
(まだ、まだだ……。死んでも、これだけはなんとしてでも!)
上半身を動かし、少し前に進む。
「もうおやめになったら? お無駄もお無駄。大お無駄よ」
独特な口調が妙に頭にくる。
(もう、少し、あと、少しだ……。この曲は、俺だけのものじゃない)
それでも関係ない。無視して前に進む。
ひたすらに、がむしゃらに少しでも前に進み続ける。
「どうせ、間に合わない。おバターみたいに溶けるだけ」
それを馬鹿にするように、後ろにいる人物は罵ってくる。
でも、声が聞こえるということは、まだ生きているということ。
(バトンを、バトンをつなぐんだ……。姉貴から、俺。俺から、母さんに……)
もう痛みは感じない。目の前の景色が、歪んで見える。
でも、あと少しのところで、もう少しのところでエンターキーが見えた。
「もう体の九割はお溶けに――」
声はもう聞こえない。
「南無、三っ!!!!」
最後の力を振り絞り、顎でエンターキーを叩く。
画面には、送信中の文字が見え、次第にそれも歪んでいく。
(やった、ぞ……。かあ、さん、とお、さん。あとは……あと、は……)
薄れゆく意識の中、キクは両親の顔を思い浮かべ、壮絶な死を遂げた。




