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斎藤と出会ったのは、今日子が社内の戦力として何とかものになってきたと自覚し始めて、間もない頃のことだった。
当時、いくつかの新規を開拓した実績を買われて、とある最大手企業との大型プロジェクトの一員に抜擢された今日子は、自分の会社と相手方の本社ビルとを飛び回る多忙な日々を送っていた。
そんな中、相手方のプロジェクトマネージャーであり、すでに取締役の地位にあった斎藤と名刺を交わす機会があった。
「君が今井さんか。噂には聞いているよ。同期の中でも飛びぬけて優秀らしいね。プロジェクトの方でもその優秀さを発揮してくれることを期待しているよ」
斎藤の第一印象は、実はそれほどでもなかった。
最初の一言だけで、仕事の出来る男だというのは分かった――そのルックスから異性に対する自信がみなぎっているのも。
取締役らしく、ブラウンのブランド物のスーツを齢を感じさせない見事な着こなしで笑うその姿は、ヒトのカタチをしたダンディズムといった印象だ。
だが、さすがにビジネスの場で男の品定めをする趣味ははなかった。
それ以前に、年も違えば立場も違う。
この時はまだ、信頼のおけそうなビジネスパートナーのボスくらいの認識しか、今日子にはなかった。
「ん?ああ、悪いね。今日は運悪く、朝飯を食べ損ねてね。失礼なのは承知だが、このままで話を聞かせてくれ」
きっかけは、あるプランの素案をまとめた書類を届けるために、斎藤を訪ねた時のことだった。
上着を脱いでファストフードのバーガーを頬張りながら、こっちを見ようともせずにタブレット端末から目を離そうともしない。
これまでのイメージを完膚なきまでに破壊するような姿だった。
「で、何だったか?ああ、書類を届けに来てくれたんだったね。そうだったそうだった。ちょっと待っていてくれ。すぐに確認するから」
そう言って、呆然とする今日子から書類の入った封筒を受け取った斎藤は、バーガーのソースを口につけたまま、書類を読み始めてしまった。
(……なんなのこの人。これまでとは全然違うっていうか、むしろこっちが素?)
余りにも無防備な斎藤の姿に戸惑いを隠せない今日子。
それでも、一つだけどうしても放っておけない問題を解決するために、わずかに残っている今日子の女心が手を動かしてしまっていた。
「うん……?」
「くち、ソースがついたままですよ」
社会人の嗜みとして持ってはいても、なんだかんだで手洗い以外で使ったことがなかったハンカチを、斎藤の口元に押し当てる。
「すまないね。部下からもよく注意されるんだが、自分のこととなるとどうしてもついつい放置しがちになってしまう悪い癖が抜けないんだ」
「いいんですか、そんな弱点を取引相手の社員に明かしてしまって?」
「そうか、それは困ったな」
今日子の冗談を真に受けてしまったのか、真剣に悩み始めた斎藤。
その結果、笑いを誘われてしまったのは今日子の方だった。
「ふふ、ふふふ」
「なんだ?まだ私の顔にソースがついているのか?」
「いえ、そうではないんですけど……ふふっ」
この時の今日子のどこが気になったのか。
斎藤が今日子に食事の誘いを申し込んだのは、プロジェクトが一段落して間もない頃のことだった。