0〜3
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大きなあくびを一つして、寝ぼけ眼をくしくしと擦る。
十畳ほどのワンルームの冒険者学校の学生寮には、俺以外誰もいない。
窓からさす木漏れ日が、部屋の中を舞う埃をダイヤモンドダストの様にキラキラと照らして、夢見心地な少女の体をシーツに引きずり込む。
夢を見ていた。
この一年間は本当に色々な事があったから、一区切りしたのでそれを脳が整理していたのだろう。
いろんな事がありすぎて、もうかなり昔のことのように思えてくる。
そんな風にしてさっきの夢の話を思い返していると、不意に、聞こえるはずのない──いや、もう何度も聞きなれたというべきか──寝言が、銀の髪、その下の小さな耳を這って鼓膜を響かせた。
「お姉様……むにゃ……」
視界に映る部屋には、最低限の家具しか置かれていない。机と背の低いテーブル、それからクローゼット。
質素な部屋だが、しかしそれを高級なものへと錯覚させられるものが、一つだけ紛れている。
「アリス……」
呆れた声を出して、隣で俺のブランケットを奪っている少女の名前を呼んだ。
彼女の名前はアリス・ティンゼル。
かのドラゴンスレイヤーと名高い女冒険者──アレイシア・ティンゼル名誉男爵の娘で、俺のことを姉のように慕ってくる親友だ。
……ちなみにこの姉のような、というのは要するに百合的な姉妹関係のそれだ(特に付き合っているわけではないが)。
初めて出会った時はそんな一面を見せることはなかったのだが──あの一件があってから、何故か彼女からそういう目で慕われるようになってしまった。
「また部屋に忍び込んだな、お前は……」
たしか、去年のハロウィンあたりの頃からだ。
夜這い、といってもただ同じ布団に潜り込むだけで、何かよこしまなことをしてくるわけではないのだが──正直、元男の俺としては、恋愛対象が女の子なだけに(それに元の年齢とも近いから)嬉しくもあり困ってもいる。
こんなにくっつかれては、隙を見て一人で性欲を処理することもままならないからな。
俺は、呆れたため息を吐きながら、彼女の頬に掛かる金色の巻毛を耳にかけた。
彼女の髪は長い。腰まである。普段はそのまま流しているが、運動をしたりするときは黒いリボンでアップに纏めたりする。
その時にチラつく耳の後ろや首の裏の、その陶磁器のような白さは、整った顔立ちも相まってか、精巧に作られたビスクドールを想起させる。
今みたいに黙っていれば綺麗で美しく、そして高潔に見える彼女だが、しかしその反面、その本性は天真爛漫というには少し可愛すぎるくらい乱暴快活で、食いしん坊で、そして普段見せる顔からは想像できないくらい意外と甘えん坊で、年相応にとてもかわいらしい性格をしている。
俺は彼女を起こさない様にそっとベッドを降りると、『冒険者学校の制服』に着替え始めた。
白のワイシャツに、二年生を示す赤いリボン。それから赤茶色を基調とした、膝上丈のチェック柄をしたプリーツスカート。
その上から身につけるのは臙脂色のブレザーと革のコルセットベルトで、冒険者学校の校章が縫い付けられている。
以前はどこかの売れないアイドルみたいな衣装で少し恥ずかしさもあったが、もうこの体になってしばらく経つ。
初めの頃はスカートやワンピースを着ることに抵抗もあったが、今となっては着飾った自分を眺めては『かわいい』を呟くことも少なくない。
「はぁ、お姉様ぁ……。今日もかわいいわぁ……♪」
……呟かれることも、最近は増えたかもしれない。
(毒されてきたな……)
ぽつり、苦笑いを浮かべながら心の中でつぶやきながら、声の聞こえてきた方へと視線だけを向けた。
ベッドの上で寝そべりながら頬杖をついて、こちらを見ながら笑っている。
朝の身支度をしている俺の顔は、きっと目の前の姿見を見ないでも、ほんのりと赤らんでいるだろうことはなるとなくわかった。
「あ、あんまりジロジロ見ないでくれ……」
リボンの傾きを直しながら、ささやかな抗議の声をあげる。
「ふふっ、お姉様ったら照れちゃって」
薄いシーツを払って、艶かしい両足がフローリングに着地する。
その動き一つ一つとっても美しく、育ちの良さが目に見えるようだ。
「そういうところもかわいいわよ♪」
よたよたとベッドを降りてきて、俺の体に後ろから抱きつくアリス。
ふわり、金髪から甘い香りが鼻腔を撫でる。
「お、おい……」
むにゅり、と背中に感じる柔らかい感触。
十五歳にしては発育のいい二つの丘が、背中に押しつけられているのがわかる。
普段は着痩せする方だからわかりづらいが……なかなかのサイズだ。
もしやまた成長したのではないだろうか?
「なぁに、お姉様?」
そんな俺の動揺を楽しんでいるのか。
そのまま彼女は、俺の長い銀髪に五指を滑り込ませた。
見た目によらず、硬く分厚い皮膚に包まれた剣士の手。しかしそこには女性らしいしなやかさもあって艶かしくもある。
人差し指が下顎にかかる。
次第に二人の吐息に熱が混じり、柔らかな桜色の唇が重な──ろうとしたその時だった。
「マーリン! アリス! 早よ起きな遅刻すんでぇ……って、あれ? 二人ともどしたん、そんな離れて」
バタン! と勢いよく扉を開けて入ってきたのは、赤い髪の活発な少女──ロゼッタだった。
彼女もアリスと同じく、この冒険者学校に入学したときにできた友人である。
赤く燃える様な髪と紫色の瞳が特徴的で、俺たち三人の中でも一番背が低い。
俺もアリスも背が低い部類に入るが、ドワーフとの混血というだけあって、彼女はさらに背が低い。
年齢的には中学生くらいのはずだが、彼女なら小学生と呼んでも誰も不思議がらないだろう。
予想外の闖入者に驚いて、反射的にベッドの端と反対側の部屋の壁の端まで離れた二人に疑問符を浮かべるロゼッタの姿からも分かる通り、頭の中まで幼い彼女だ。
案外、普通に小学校に通ってもバレないかもしれない。
そんなこんなで俺たちは寮を出る。
向かう先は我らが冒険者学校。
冒険者になるためのさまざまな学びの場として、冒険者ギルドが誂えた学び舎だ。
しかし、そんな学生生活よりもまずは、どこにでも居そうな日本の男子高校生が、どうして異世界の、しかも年齢も性別も全く違う人物として生きているのか。その経緯から話していきたいと思う。
そう、あれは去年の夏の出来事だった──。
1
──《ノタリコントラクト・オンライン》というVRMMORPGがある。
『スキルを改造できるRPG』という謳い文句で、サービス開始から約一ヶ月で五千万ダウンロードを突破した人気の全感覚没入型のVRMMORPGである。
これまでもいくつか全感覚没入型──つまり、脳から体へ至る運動神経への命令をジャックして、ゲーム内のキャラを動かせるタイプのVRゲームはいくつも登場していたが、コスト的な面から中々やってこれなかった『スキルの改造』に踏み切ったこのゲームは、多くのゲーマーを虜にしたのである。
何せ、やりようによっては自分の好きなようにスキルを──正確には、このゲームではアーツと呼ばれるのだが──改造し、オリジナルのものを作って戦えるのだから。
親が転勤族で、俺も同じく引っ越しを繰り返していたために、固定した友達と遊んだりすることも少なかった俺は、よくこういったゲームで遊んでいた。
ここで遊んでいれば、いずれ引っ越したとしても、同じゲーム仲間とずっと繋がっていられるから。
しかし、そううまくいくことはなかった。
ハードが発売したのは最近だったし、その頃にはすでに俺のコミュ障は完成していた。だから友達を誘って遊ぶこともできなかったし、だからゲームの中でもソロプレイが基本だった。
だって、自分から知らない人に話しかけるのってハードルが高すぎるだろ?
それでも《ノタリコントラクト・オンライン》の広告を見た時は興奮してすぐにダウンロードを決めた。
もちろん虜にもなったし、高校から帰ってきてはすぐにこの世界で遊ぶようにもなった。
そんなある日のことだった。
昔、イベントで手に入れた課金アイテムの使用期限が迫っているという通知が、プレイ中の俺のメールボックスに届いた。
調べてみると、それはたしか半年前にゲーム内のカジノの景品として獲得した、アバターの外見を再設定できるアイテム『魔法の姿見』だった。
せっかく手に入れた課金アイテム。
使わないで消費期限を切らせるよりも、この際、アバターの外見をリメイクするのもいいだろうと考えた俺は、せっかくだし最高にかわいい美少女を作って遊ぼうと考えていた。
「──っていうところまでは、覚えてるんだよなぁ……」
俺は、街の中心にある噴水の淵に腰を下ろしながら、ブツブツと呟いていた。
水面に映るのは、先刻、課金アイテム『魔法の姿見』で容姿を変更して作った、銀髪碧眼の十四歳くらいの美少女だ。
やや青みのかかった、例えるなら氷のような色の長い銀髪。澄んだ夏の青空のような碧眼はやや吊り目気味だが、全体で見ればかなり整っていて、知っている人がいないからと性癖をふんだんに詰め込んで作り上げた、自分好みの容姿である。
着ている装備は、何故か初期装備の『麻布の服』で、武器は自分の腕ほどの長さのブレードを持つ剣──『ショートソード』が腰に一本だけ。
赤茶色の丁寧な革で誂えられた鞘と剣は普段ゲームで振っている剣よりも若干重く感じるが、水面に映る自分の顔や風景、それに装備諸々──いつもよりややグラフィックが細かい気がするのは気のせいだろうか?
(それにしても、スカートってこんなに心許ないんだな……)
女性型アバターの初期装備であるスカートの裾が、風で捲れ上がりそうになるのを手で押さえながら顔を赤く染める。
いくらゲームだとはいえ、股下を通る風の感触がリアルすぎていただけない。
これだけリアルだと、自分には興味がないはずだとは思いつつも、周囲の視線も気になり始めてくる。
普段なら風で布が靡くエフェクトがあるだけで、大気をかき分けるような風の感触までは再現されていなかったはずなのだが。
世の中の女性は、いつもこんな感覚でスカートを履いているのだろうか?
──とはいえ。
「明らかに感度設定バグってるよな……。いや、それだけじゃないんだけども」
見覚えのないマップに強制転移された挙句──俺の記憶が確かなら、鏡を使う前は装備の強化素材を採取するために、マルバロの森というフィールドダンジョンに居たはずだ──装備品どころかレベルやステータス、解放していたスキルツリーまでもが初期化させられている。
さらにいえば、スキルポイントがゲームスタート時に配布される四十五ポイントも健在であることから、完全にデータがリセットされていることが窺えた。
これまで散々スキルポイントを使って魔法スキルの改造をしたり、剣術スキルの威力の底上げをしていたのが全部水の泡になったのかと思うと、かなり悔しい気持ちになる。
「『魔法の姿見』にプレイデータがリセットされるなんて重大なバグがあったなんて知れたら、運営は目を回すだろうなぁ」
まぁ、データの初期化なんてレベルはそうそうないにせよ、オンラインゲームでも何でも、何度かメンテナンスが入ったりしてシステムが変更されるタイプのゲームにはよくあることだ。
バグを修正するためにだとか、ストーリークエストを更新したりだとか、新しい要素を足したりだとか。そういったことのためにメンテナンスを入れたりすると、予期せぬ場所でバグが発生してしまう。
ましてや、サービス開始から一年も経っていないともなれば、たとえβテストを通過していたとしてもその頻度も少なくはないだろう。
俺は運営会社のプログラマーに同情の念を抱きつつ、クレームを入れるべくGMコールをしようとメニューをスクロールした──が。
「……あれ?」
視界に映るメニュー画面のボタンに、違和感を覚える。
その正体は明確だ。
本来あるはずのGMコールボタンが見当たらないのである。
「いや、見当たらないとかじゃなくてこれ、ボタンがメニュー画面から消えている?」
呟いて、冷や汗が背筋を駆け降りる感触を覚える。
慣用句じゃない。
文字通り、汗が背中を伝うのを感じた。
以前までは汗が流れるエフェクトだけならあった。
だけどそれに触覚情報なんてなかったはず。
「おいおいおいおい、嘘だろ……!?」
(運営がクレームから逃げるためにコールボタンを消した? いやまさか、でもそんなことって、でもだとしたら──)
嫌な予感という言葉は、多分こういう時のためにあるのだろう。
俺はその嫌な予感を払拭すべく、顔を青ざめさせながらも、もう一つの心当たりを探るべくログアウトボタンを探し始めた。
(ちがう、これじゃない、これでもない──)
コロコロと軽快な音を立てて流れていくメニュー画面。しかし表示もさほど多いものではないから、直ぐにスクロールバーは端から端まで辿り着く。
「……」
嫌な予感というのは、嫌なタイミングに限って的中するものだという言葉をどこかで聞いたことがあったが。
「マジか……」
予感的中。
俺は盛大なため息を吐きながら、ゆっくりと天を仰いだ。
ログアウトボタンが消えていたのだ。
全感覚没入型と呼ばれるこのVRゲームハードは、名前は忘れたが何とかというシステムによって、プレイ中は現実の体の一切を自由に動かすことができない。
首の後ろのところで、全ての運動神経をジャックし、プレイヤーキャラを操作するコントローラーとして流用されているからだ。
だから、ゲームの中でいくら頭からヘッドギア型のゲームハードを外そうと頑張ったところで不可能なのである。
要するに、閉じ込められたのだ。
現実的に考えて、運営がクレームから逃げるために徹底的に遮断を試みたというわけでないとしたなら、これもバグの一種として考えることもできるけど……。
考えたところで真意がわかるわけでもない。
「今頃、運営は涙目だろうなぁ……」
なので俺は、とりあえず現実逃避をする事にした。
見上げた空で、牧場歌的なゆっくりとした雲の流れが、少しだけ早くなったように感じる。
まぁ、でも俺は実家暮らしだし、夕飯の時間にでもなれば、誰かが気づいてくれるはず。
気づいてくれて電源を落としてくれれば、強制的にログアウトできるだろう。
だからそれまでは、いつも通りゲームを楽しむことにしようかな。
暴れたところで何がどうなるわけでもないし。
「……さて、これからどうしようかな」
軽く伸びをして、噴水の淵から飛び降りる。
「こんな機会そうそう無いし、色々観光して回って──」
──そう呟きながら伸びをした時だった。
「キャ──ッ!?」
「も、モンスターだぁああ!」
すぐ近くの通りのあたりから、助けを求めるNPCの叫び声が聞こえてきた。
(街中でモンスター? 街の中って安全地帯だからモンスターはポップしないはずだけど──)
あり得るとすれば、ゲリライベントくらいだろう。
今はバグってる最中だし、参加して何かアイテムをドロップさせたらデータがさらにバグりそうな気もして怖いけど……。
「ま、どうせバグってるし、今更でしょ!」
そんな葛藤はすぐにどうでも良くなり、リスクよりも興味が優った俺は、イベントに参加するべく騒ぎの中心へと向かって走りだしたのだった。
2
人の流れに逆らいながら、イベント地点へ向かう。
それにしてもNPCの数が多い。
今までは街一つで十人いれば多い方だったのだが、しかし、逃げるように走ってくるそれの数は、優に五十人を超えるのではないだろうか?
少し活気のある商店街にいる全ての住民が、流れに乗って押し寄せてくるような勢いである。
「ちょっ、どいて──通して……っ!」
「おい、そっちは危ないぞ! 早くこっちに──」
押し寄せる人の波をかき分けて逆流するが、いかんせん人の数が多く流される。
小さな体を活かして機敏に人を避けようとするが、ぶつかっては蹴られたり弾き飛ばされたりで、一向に前に進めない。
今までならPCがある程度接近すれば、彼らは自動で避ける様にプログラムされていた。しかしどうしてだろう、今回ばかりはこのNPCたちは、そんなことは御構い無しにと俺の小さな体を突き飛ばさんとなだれ込んでくる。
(まぁ、バグってるしそんなもんだろ)
それにしても、人の波に揉まれて体のあちこちが痛い。
風の感覚にしろ、触覚情報がリアルすぎて、実はここがゲームの中なんじゃなくて、リアルな異世界なのではと思えてくるほど。
(まぁ、ありえないけど)
そういう小説は幾らか読んできたし、この状況はそれに符合する点が多い。しかし現実的に考えて、たかがゲームのバグで異世界に飛ばされるなんてありえないのだ。
そうだ、ありえないんだ、そんな理想は。
息苦しさに顔を顰めながらも、やがて俺は人の波を抜けることに成功する。
俺はいつの間にか捲れ上がっていたスカートを直しながら、状況を確認するべく視線を巡らせてみた。
「わーッ!? やめッ、ぁく、来るなぁーッ!!」
悲鳴をあげる男性NPCが視界に映る。
屋台街。その中でも壊された屋台の前だ。包丁か何かを振り回しながら牽制しているらしい。
しかし相手が悪い。
相対しているのは、体高二メートル弱の巨大なモルモットの顔を持つ、全身緑色のカピバラだ。
それだけを聞けばかわいいじゃないかと思うかもしれないが、しかしこいつには恐ろしく長い鞭のような尻尾と、赤く光る八つの複眼がある。
普通の動物とは明らかに違う見た目と体格を有していることからも分かる通り、こいつはモンスターだ。
しかも彼にとって運の悪いことに、これはただのモンスターではない。
マルバロの森のダンジョンボス──ガラット・カヴィアロードだ。
……記憶違いでなければ、あれの体に黒いモヤなんてまとわりついていなかった気がするけど、まぁ、見た目は俺の知るガラット・カヴィアロードとはグラフィックがやや綺麗になったくらいでほぼ同じだし、間違いない。
早く逃げればいいのに、身を挺してヘイト──要するにモンスターの注目──を集めて、他の街の人たちをこいつから守っているのだろうか。
涙と鼻水を垂れ流しながら必死に牽制するこのキャラに、ちょっとした感動を覚える。
俺、こういうキャラ結構好きだな。
なんて呑気に見ていると、どうやらイベントが進んだのだろう。溜まりに溜まったヘイトが爆発し、モンスターは目の前のNPCへ襲い掛かるべく爪を振り上げた。
──その一瞬、ふと俺は変なことを思った。
もしこれが、ゲームの世界でなかったとしたならば。
もしあのNPCが、現実に生きる一人の人間だとしたなら。
ほんの一瞬、彼と視線がぶつかった気がした。
その視線が、『たすけて』と言っているような幻聴が、不意に脳裏をかすめた──。
「せあっ!」
気が付いた時、俺は剣を抜いて彼の前に立ちはだかっていた。大して正義感があるわけでもなく、どちらかといえば臆病で慎重派な俺が。
振り上げられた爪が、一瞬のうちに間合いを詰めた俺の『ショートソード』によって弾き返される様が、非常にゆっくりと脳内に焼き付いていく。
──にしても。
(ぉ重……ッ!?)
剣を振り切った体勢で残心しながら、ふぅ、と重い息を吐いた。
ゲームスタート時からプリセットされている剣術スキルレベル一のアーツ、《アステュート》。
敵との間合いを一気に詰めて、地面からの垂直な斬り上げを行うアーツである。
これでなければおそらく迎撃は難しかったし、間に合わなかっただろうが……とにかく攻撃が、以前より格段に重い。
重い鋼鉄のハンマーを打ち返したような衝撃。思わず武器が折れていないかを心配するよりも、自分の腕がぶるぶると震えたことに驚きを覚える。
ここまで重く感じた原因は、おそらくまだSTRには一切ステータスポイントを振り分けていなかったせいだろう。以前はそんな効果は無かったのだが……。
脳裏に男の視線がよぎって、その考えを打ち消すべく頭を振った。
とはいえ、所詮レベル七くらいしかないようなチュートリアル用のボスだ。今の手持ちのスキルだけでも、多少硬かろうががんばれば倒せる。
一合打ち合った感じだと攻撃力もかなり上がってる様だが、ならばヒットアンドアウェイで攻めるのが作戦としては適切なはず。
互いに出方を窺うような間合いの中、俺はそう直観的に判断した。
「きっ、君は──っ」
「危ないから下がっててください、あんまり近づくと怪我しますよ」
NPCの言葉を遮って、その場から退避するよう指示を出した。
近くにいられては思う存分戦えない。むしろ邪魔ですらある。
元々俺のレベルは六十後半くらいで戦闘経験はかなりあるが、どちらかと言えば遠距離から魔法を撃ちまくる方が得意だし、守りながら戦えるほど近接戦は得意じゃない。
正直オーディエンスは嬉しいが、今の自分のレベルとガラット・カヴィアロードの尻尾攻撃の範囲を考えると、最低でもサッカーゴール一個分の幅くらいは下がっていて欲しいくらい余裕がない。
剣を頭上に、やや斜めに構える太陽の構えを取りながら、ニヒルに笑う。
見据える先は、赤い八つの複眼を持った緑色のモルモット顔のカピバラだ。
「んじゃ、試し斬りといきますかねッ!」
掛け声と同時に、突進上段斬り落とし技の《バーチカル》を使って、離れていた間合いを一気に詰める。
剣に魔力が吸い取られる感覚がして、五メートルほどだった間合いを一秒未満で駆け抜けた。ブレードが吸い寄せられるように動いて、そのクモのような八つの目の内の縦に並んだ三つを一度に切り裂こうとする。
しかし、さすが腐っても鯛。
間一髪のところをバックステップで回避するなり、前足を使ってくるりとターン。前後の足をスイッチする勢いを使って、鞭のような尻尾で円弧を描くようにして鋭く打ち付けてきた。
「──ッ!?」
予想しなかった動きに一瞬だけ対応が遅れて、その鞭のような一撃が剣を振り下ろす寸前のガラ空きの胴体に叩きつけられた。
「カハッ!?」
肺から空気が押し出されるのを感じるのと同時に、バキャ、と肋が悲鳴をあげるのを聞く。
視界の左上に表示されていた緑色のHPバーが三割ほど一気に削られていくのが意識の片隅に映った。
「ぁ……ぁぁ……ッ」
く……っそいてぇ……!?
無理矢理肺に息を吸い込みながら、ちかちかと明滅する視界で敵を睨んだ。
おそらく肺だけではなく、少しだけ脳も揺さぶられたのだろう。
……これは確実に、ゲームじゃありえないダメージだ。
何せ俺の脳は現実世界にあるはずなのに、俺は脳が揺さぶられたと感じたのだ。
それはつまりこの体はゲーム機が作り上げたポリゴンの虚像などではなく、血の通った肉の体であることを意味していたのである。
一瞬、視界左上に固定表示された、緑色のバーが全損するのを想像してつぶれた肺も加わってさらに苦しくなる。
もしそうなれば、俺は文字通りここで死ぬ事になりかねないのではないか。ゲームならば街の神殿で復活できるが、それがちゃんと機能するかどうかはまだわからないのだ。
現実に迫る死の恐怖に、一瞬体がわなわなと震えて力が入らなくなる──が、今はこんなところで休んでる場合じゃない。
下手したら後悔してる間に死ぬ!
俺は唇を噛みながら剣を杖にして立ち上がり、自分を騙すように笑みを浮かべた。
恐怖なんてクソ喰らえ。
試し斬りって最初にほざいたんだ、最後まで敵を見下してやらなきゃカッコがつかないだろ?
ケホッケホッ、と咳き込みながら剣先を前に向けて牽制し、強気につぶやいた。
「次、本気出すから」
口元を垂れる唾を拭って、睨みつける。
さっきのガラット・カヴィアロードが使ったカウンター。本来尻尾攻撃は、プログラム上、八メートル以上プレイヤーが離れた時にしか繰り出してこない攻撃パターンだったはずだ。
しかし、それが今となっては近距離で、さらにカウンターとして使ってきた。
ゲームがリアルになったことで、行動パターンが変わったのか、それともあの黒いモヤのせいなのかはわからないが──まぁ、そんな雑念は後回しだ。
俺は痛みで疼く肺で無理矢理深呼吸をして心を落ち着かせると、再び剣を太陽に構えた。
剣術スキルレベル一のアーツ《バーチカル》の予備動作である。
三回目のアーツの使用。
レベル一のMPは合計で三百しかないし、スキルレベル一で取得できるアーツは一回使うごとにMPを百消費する。
つまり、これが最後のアーツ。
次の攻防でミスったら、まず俺に勝ち目はないだろう──が、ガラット・カヴィアロードの攻撃パターンはもう大体予測がついた。
(次が山場だな)
先の二発と同じく、体の中の魔力が剣に吸い取られる感覚がして、俺は重心を前に傾けた。
──アーツが発動する。
駆け抜ける景色。それとほとんど同時に俺は体を下に沈める事でアーツの発動を途中でキャンセルした。
全てのアーツには、技の発動の前後と最中の計三箇所にキャンセルポイントが存在する。
この時点でアシストされている動きと異なる動作をすると、技がキャンセルされるのである。
「くッ!?」
先程同様、カウンターをするべく尻尾攻撃が俺の肋を狙う。しかし、直前でアーツをキャンセルしていた俺は、間一髪のところで膝スライディングをするようにしてそれを回避することに成功した。
「……ッ!」
目の前スレスレを、前髪の先を掬い取りながら通過する尻尾を凝視する。
世界がゆっくりになる感覚。
得も言われぬ高揚感。
思わず口角が上がるのを感じながら、俺は立ち上がった。
そうする事で、俺の眼前に奴の弱点──尻尾の付け根がやってくる。
「せやぁっ!!」
一閃、立ち上がり様に斬り上げ、その凶器のような尾を根元から切断する。
「キュルルルルルルル!?」
このゲームにおける戦闘では、クリティカルヒットを安定して出せるタイミングがある。
それは、相手が攻撃する寸前か、あるいはした直後。
このタイミングで攻撃することによって、普段の攻撃よりも数段高いダメージを与えることができるのである。
さらに今回は敵の体の一部を切断することで発生する部位破壊ボーナスもあるから、相当なダメージになったはずだ。
「ふっ!」
そのままの勢いを体に乗せるようにしてターンし、続いて後脚の付け根、腱が集中していると思われるあたりを下から斬り上げた。
「キュルルルルルルル!?」
生暖かい液体が勢いよく噴き出した。
それは紛れもなくこの緑色のネズミの血液だった。
痛みに驚いたガラット・カヴィアロードが後ろ蹴りを繰り出そうと足を振り上げる。
「おっと!」
間一髪、ターンすることで一撃を回避。そのまま奴の足首を上から斬り落とし深い傷を負わせ、機動力を奪った。
そのままステップを踏んでターンし、ガラット・カヴィアロードの足の関節や腱を狙って刻んでいく。
そこから先は一方的な攻撃だった。
噛みつきを躱し、爪をいなし、関節の間に刃を差し込んで腱を斬る。
攻撃するタイミングは常にクリティカル狙い。
緑の毛皮が赤黒く染まるのと同じ速度で、奴の返り血が俺の一張羅を生臭く汚していった。
「キュルルルルルルル!!」
せめてもの抵抗か。最後の力を振り絞って頭上から叩きつけてくるような爪の一撃を、その軌跡に合わせていなしながら剣で地面に叩きつける。
すると、俺の体がその腕の重さゆえか、その衝撃で下半身から宙に浮いた──ので、そのトルクを利用してそのまま一回転する。遠心力を余さずすべてを剣先に乗せて、ガラット・カヴィアロードの脳天に突き刺した。
「キュルルルルルルル……」
力無い断末魔の叫びをあげて地に倒れるガラット・カヴィアロード。俺はその頭蓋に剣を突き刺したまま、その場に膝をついた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
不思議と、肉体的な疲れは感じなかった。さっきまで喉の奥が冷えるくらい荒い呼吸を繰り返していたというのに。今はどちらかと言えば、死闘を生き抜いた精神的な疲労だけが全身を襲っていた。
3
日本のお父さん、お母さん。
ごめんなさい、夕食の席にはつけません。
俺は今、たぶん異世界にいます。
なんか変なバグで紆余曲折あって、なぜか駐屯騎士団の留置所に居ます。
本当は特に悪いことは何もやってないけど、でも、通行許可証を持ってなかったからとか言う理由で不法侵入者にされています。
ほかに身分詐称とか言われて、余罪があるのではと根掘り葉掘り聞かれて──。
酷いよね、目が覚めたら街の中にいたってだけなのに不法侵入って。
俺にどうしろってんだ。
「はぁ……」
某会社のテレビ広告のパロディを頭の中で歌いながら、俺はため息をつく。
街に侵入していたガラット・カヴィアロードを討伐することに成功した俺は、その後、騒ぎを聞きつけたこの街──ハスティアの駐屯騎士団の人に、事情聴取のため詰所に連行されることになった。
その時俺は、苦労して魔物を倒したのだから報奨金でもくれるのかな、とか期待してついていったのだが──これが間違いだった。
正直、事情聴取はなんとかなった。
子供なのに剣を持っていたことも、冒険者ですと答えれば普通にスルーされたし、モンスターがどうしてあんなところで暴れていたのかと聞かれても、その場に偶然通りがかっただけだからわからないで終わった。
問題はその後──報奨金の手続きの時だった。
どうやら報奨金を渡すにあたって身分証明書(たとえば冒険者カードとか学生証とか)が必要だったらしい。
当然、この世界に来てまだ一時間くらいしか経っていない俺に、そんなものを用意できるはずもない。
すると今度は騎士さんとの話し合いが始まって、曰く、『えっ、君冒険者って言ったよね?』『はい』『でもその歳で冒険者にはなれないだろうし、きっと学生って意味なんだよね。だったら学生証とかあると思うんだけど』『学生証……って何のことですか?』『えっ?』『えっ?』『……じゃあ、街に入った時に通行手形もらったはずだよね?』『えっ?』『えっ?』──みたいなやりとりが起きた。
その結果、なんやかんやあって、場所的にも隣国と近いことから敵国のスパイかもしれない! みたいな流れになって、身分が割れるまで留置所に拘束される羽目になったのだ。
「いや、ほんとなんでこうなった」
正直、宿に泊まるお金とかなかったし、結果オーライ(?)ではあるのだけど……。
いや、全然オーライ違うけど。
下手したら断頭台行きかもしれない。
いやだよ、異世界転移してすぐ罪人に間違われた挙句殺されるとか。
「はぁ……」
重いため息をつく。
着ている服は返り血で下着までべちょべちょだし、『ショートソード』はガラット・カヴィアロード戦で刃がボロボロだ。
ゲーム時代はモン◯ンみたいに切れ味とか気にしなくて良かったけど、リアルになるとそうもいかないことに気がつき、あぁ、本当に異世界なんだなぁと実感せざるを得ない。
願わくば、白馬に乗った王子様とは言わないが、誰かこの状況から助けに来てくれないだろうか。
そんなことを願っていると、房の前に一人の看守がやってきて、徐に鍵を開けて口を開いた。
「出ろ、バーサクガール。お前の身分は保障された」
「……え?」
房の扉を開けて、外に出る様促す看守の言葉に、俺は疑問符を浮かべる。
さっきも言ったが、俺はこの世界に来てまだそんなに時間も経っていない。
そんな短い時間の間に関わった人の中で身分を保証してくれそうな人なんて、誰かいただろうか?
そんな疑問など看守には知られないまま、房を出て詰所の外に案内される。
するとそこには、一人の見覚えのある男性がニコニコと笑顔を浮かべながらこちらを見ていた。
「あ!」
そうだ、いたじゃないか! 俺が助けた屋台の主人が!