彼女はもう、俺のクスリ無しでは何も出来ない。
本番に弱いタイプ。
まさしく彼女がそれに当てはまる。
「こ、これくらい……!!」
言葉では強がっていても、体が強張り言うことを聞かない。
本番の為に練習を重ねても、本番が練習をふいにする。
全てが終わり、打ち拉がれた彼女に、かける言葉が見付からなかった。
「失敗するために練習してきたわけじゃないのに……!!」
食いしばり立ち上がる彼女が見せた跳躍は、一位の選手よりも素晴らしかった。
自分に何か出来る事は無いだろうか?
自問自答の末辿り着いたこたえは、自分でも眉をひそめたくなる程に奇っ怪だった。
「おう! ひよっこ坊や! 何しに来やがった!?」
ガラクタが置かれた庭先から家の中を覗くと、怪しげな機械をいじる鉢巻きのオッサンがいた。自称発明家の政さんだ。
「あのー、御相談が……」
「てやんでぇばーろーちくしょーめー! 水臭ぇ事言ってねぇで中入れ! こちとら江戸っ子でぇ相談事なら慣れっこだい!」
政さんは江戸っ子気質で気難しい人だが、車に轢かれそうになった俺を助けてくれた、命の恩人でもある。
「寿司食いねぇ酒飲みねぇ乳揉みねぇ! ほらよ、蕎麦だ!」
そう言って、政さんはざる蕎麦を出してくれた。
「ありがとうございます。頂きます」
「いいねぇ、良い食いっぷりだねぇ! 一杯やるかい!?」
「未成年なので……」
「てやんでぇばーろーちくしょーめー!! 俺の酒が飲めねぇってぇ言うなら──俺が飲もう」
おちょこを一気にあおり、ちゃぶ台にトンと置いたところで、俺は箸を置いて政さんの方へ体を向けた。
「助けたい人が居るんです」
「人助けだぁ? てやんでぇばーろーちくしょーめー!! カーッ! 任せとけぇ!!」
「緊張しない方法が欲しいんです」
「んなもんねぇ!!」
政さんはバッサリと俺の言葉を斬り捨てた。
おちょこを手に取り、酒をあおった。
「桃栗三年柿八年カップラーメン三分だ。何事にも晩成にはそれなりの時間がかかるモンよ……」
「次の大会が最後なんです……!! それが終われば彼女はもう引退! なんとか力になりたいんだ!!」
おちょこを置いた政さんの目付きが鋭くなった。珍しい、真剣な顔だ。
「女、か……。惚れてんのか」
ゆっくりと、大きく、静かに頷いて返事をした。
それを見た政さんは、にこりと笑って膝を叩いた。
「その大会ってやつはいつでぇ」
「来月です。それまでに何とか……」
「てやんでぇばーろーちくしょーめー! こちとら江戸っ子でぇ! そんな悠長に待てるかよ! 寿司がずるずるに伸びちまうだろうが!!」
お寿司は伸びないと思うんだよなぁ……。
「今すぐ何とかしてやらぁ!! この前作った薬があるからよぉ!!」
「えっ、さっき無いって」
「てやんでぇばーろーちくしょーめー! こちとら江戸っ子でぇ! 宵越しの記憶は持たねぇ主義よ!」
それってただの飲み過ぎによる記憶喪失なのでは……?
「待ってろ! 床下から出してくらぁ! ついでにネバーギブアップ的なお守りとかいるか?」
「あ、はい」
立ち上がり歩き出した政さんに向かって、俺は深く頭を下げた。
「ちょっといいクスリがあるんだけど飲む?」
我ながら胡散臭すぎる言い方だが、その通りなのだから仕方ない。
「最近MASAが開発した精神安定用新薬らしいんだけど……」
「マサ?」
「ううん、何でもない」
「でも、どうしてそんな物を持ってるの……!?」
「ちょっと……その、まぁ、知り合い……かな」
自称発明家と知り合いだなんて、言うのが少し躊躇われるけれど、しゃあない。
政さんから譲ってもらった粉を包んだ薬包紙をポケットから取り出し、彼女へと手渡した。
「緊張しないクスリ。本番前に試してみて」
「……大丈夫なの、これ?」
「……多分」
彼女が怪しげに薬包紙を摘まみあげる。ゆっくりと包みを開けると、扇いで匂いをかいだ。
「なんか良い匂い」
「そうなの?」
安心したのか、彼女はそのまま薬包紙を三角に折り、包んでいた灰色の粉を口の中へと一気に流し込んだ。
「……へんな味」
そう言うと、彼女は持ち場へと走ってしまった。
「政さん」
「おう! どうだったでぇ!?」
笑顔でグーサインを送ると、政さんは「たりめぇでぇ! 誰が作ったと思ってるんでぇ!!」と腕を組んではにかんだ。
「どうやって作ったんですか?」
「宵越しの記憶は持たねぇ主義──アレでぇ!」
政さんが指差した先には、石臼が置いてあった。
「……? よく時代劇とかて石のコロコロみたいなのをやってるアレみたいなやつですか?」
「回してみ」
言われた通り石臼を回すと、灰色の粉がこぼれてきた。
「わわっ! 何ですかこれ!?」
「蕎麦粉」
「はぃ!?」
「蕎麦粉でぇ! 寿司食いねぇ酒飲みねぇ蕎麦食いねぇ尻揉みねぇ!」
何言っているのか分からないけれど、とりあえずあの粉に緊張しない効果が無いことは確かなようだ。
「思い込みってやつでぇ!」
「……それで効果が?」
「現にあっただろがこんちくしょー!!」
「確かに」
「もうすぐ最後の大会……またあの薬を貰っても、いいかな?」
「うん」
彼女はすっかり蕎麦粉を緊張しない薬だと信じ込み、俺にクスリをねだるようになった。
後はネタバレをして、彼女の心の内を晴れやかにするだけだ。
「本番、とても良かったよ!!」
「うん! ありがとう!! 薬が効いたみたい!」
見事大会を優勝した彼女に、俺は真実を告げるときが来た。
「実は……あの薬なんだけど」
「?」
罪悪感が込み上げてくる。
俺がついた嘘を、彼女は許してくれるだろうか……。政さんは大丈夫だと言っていたけれど……心配で言葉が引っ込んでしまいそうになる。
「アレ……実は……蕎麦粉なんだ」
「えっ……?」
「ゴメン。緊張しないクスリだなんて……嘘なんだ」
「…………そう、なんだ……」
彼女が背を向けて、かすかに下を向いた。
「なら──」
そして、彼女が口を開いた。
「じゃあこれからは蕎麦粉を飲まないとね」
「──えっ」
こうして、彼女は蕎麦粉ジャンキーとなった。
俺のせいだ…………。
いやいや、諦めるには早かろうよ。
「これから毎日蕎麦粉で料理を作るよ! そしたら大丈夫だから……!」
「フフッ、楽しみにしてるね」
それから毎日、俺は蕎麦粉料理を作り続けた。
蕎麦打ちも習い、やがて免許皆伝まで辿り着いた。
「へい! 蕎麦お待ちぃ!」
「相変わらず速いこと。やっぱり本番前には貴方の蕎麦じゃないと」
「たりめぇよ! 蕎麦が伸びちまうからよぉ!」
彼女は俺の蕎麦を食べ、ステージへと上がっていった。
トップアイドルとして成功した彼女に緊張なんかありはしない。
俺は今日も彼女の為に蕎麦を打ち続ける。
「寿司食いねぇ酒飲みねぇ蕎麦食いねぇ脚触りねぇ!」
ただ、痴漢で逮捕された政さんの生き様まで継いでしまったのは余計だった。