002 赤い世界
「え……。え……?」
俺は立ち上がるのも忘れて、ただ目の前の光景を眺めることしか出来ない。
耳に届く怒号や悲鳴、肌に感じる炎の熱さ、視界に広がる炎と血に染まった赤い世界。
五感が捉える情報全てを、脳が現実として認識してくれない。
少し離れた場所で、幾度も高い火柱が上がっている。
火柱が上がる度に、誰かの絶叫と熱風が俺の居る場所まで届けられる。
ここがどこなのかも、なにが起こっているのかも、何1つ分からない。
でも……。
少なくともここにいたら危険なのは間違いないだろう。
だけど俺の頭は未だに停止したままで、身動き1つ取ることが出来ない。
「ぎゃあああああっ……!!」
またしても誰かの悲鳴と火柱が上がる。
その時、全く動いてくれない俺の頭が、火柱と悲鳴が少しずつ近付いてきているということに気付いてしまう。
「ににっ、逃げないと……!」
でもどこに? 何から? どうやって?
思考がまとまらない。
また火柱。
さっきよりも近い。
また誰かの悲鳴。
もうかなり近くから聞こえる。
「……なんだ、あれ……」
段々近付いてくる死の気配を感じながら、それでも動けず呆然としている俺の20メートルくらい先で上がった火柱を通り抜けて、突然それは現れた。
ボロボロの黒いマントを揺らしながら、ゆっくりと、でも間違いなくこちらに向かってきている。
ふらふらと宙に体を揺らしながら、逃げ惑う人に死と炎を振りまきながら……。
マントの下から真っ白な骨の腕と頭部を晒しながら、真っ直ぐに俺に向かってくる。
その頭部は頭蓋骨。
肉も皮も眼球もないはずのソイツは、俺を見て確かに愉快そうに嗤ったように思えた。
カタカタと不快な音を出しながら顎の骨を揺らし、先端にこれまた頭蓋骨を乗せた、悪趣味な杖をこちらに向け……。
「させるかああああっ!!」
「ひぃっ!?」
突如誰かの怒号が響き、それと同時にガイコツが吹き飛んだ。
呆けたままの頭でガイコツの動きを追うと、西洋甲冑に身を包んだ誰かがガイコツに斬りかかっていて、ガイコツがその剣を杖で受け止めていた。
「『古の神。大いなる白。聖き光。浄化の奔流。不浄を祓う神雷を成せ。ホーリースパーク』」
「へっ……!?」
今度はすぐ近くで女性の声が聞こえたかと思うと、声がした方からガイコツに向かって真っ白な雷が放たれる。
その雷は甲冑を着た誰かごとガイコツを貫い……って、ええええええっ!? 何してんのーーっ!?
「っらあああああっ!!」
驚く俺に構わずに、甲冑を着た誰かは何事もなかったようにガイコツに剣を振り下ろす。
その剣は間違いなくガイコツを捉えて袈裟切りにした。
……ように見えたのにガイコツは未だ健在で、甲冑の人から逃げるように距離を取り始めた。
「フレイムロードと接触! それと生存者1名確認! 私たちはこれから奴と交戦するから、誰か救助に寄越してください!」
雷を放ったと思われる女性が、背後に向かって大声を上げる。
そして全ての言葉を言い終わると同時に、甲冑の人とガイコツを追って走っていく。
そして女性に続いて更に4名ほど、ガイコツに向かっていったようだった。
な、なにがなんだか分からないけど……。
「たす……かっ、た……?」
ガイコツと、ガイコツに向かっていった人たちが見えなくなると、突然体が激しく震えだした。
俺って、甲冑の人があと1秒遅れていたら、間違いなく殺されて……。
紙一重。
鼻先まで迫っていた濃密な死の気配を、それが去った今になって痛感してしまう。
その時、俺の肩が強く掴まれた。
「うわわわっ!!?」
「落ち着けっ! 俺は救助隊の者だ! 敵じゃないっ! 死にたくなけりゃ俺の話を聞け!」
突然話しかけられて錯乱しかけたが、死にたくなければ、のひと言だけはなんとか理解することが出来た。
思うように動かせない手足をバタつかせて、必死に相手にしがみ付く。
「し、死にたくない……! 死にたくないです! たっ、たしゅ、助けて……!」
「助けてやるから落ち着け! まずは1度深く呼吸して、俺の質問に答えることだけ考えるんだっ!」
「ひっ……!」
なにがなにやら混乱しっぱなしだったけど、武装した男の剣幕に気圧されて少しだけ冷静さを取り戻す。
助けてくれるって言ってくれてるんだから、ここは大人しく相手の指示に従うべきだ。
「どこか痛むところはあるか? 動けるなら自分で立てるか? まずはそれを確認してくれ」
俺が落ち着きを取り戻したのを見て取った男は、諭すような口調で俺に指示を出してくる。
その言葉に従い、1度深呼吸して体の不調を確認する。
「い、痛みはない、と思います……。でも足に力が入らなくて、ちょっと立てるかどうか……。って、痛てえええええ!?」
突然激痛が走り、思わず叫び声を上げてしまう。
どうやら目の前の男に二の腕をナイフで切り付けられたようだ。
ややややっぱり、コイツも敵なのか……!?
「切り付けて悪い。あとで治療はちゃんとしてやるから勘弁してくれ」
混乱する俺の前で、軽く頭を下げながら謝罪の言葉を口にする男。
目の前の男の言っている事とやっている事がアベコベで、ただでさえ混乱していた思考が止まりかける。
「それでどうだ? 痛みで感覚が戻ってきたか? 足は動くか?」
「へ? あ、あし……?」
「立てるか? 自力で移動できそうか?」
「え、あれ……? た、確かに立てそう、立てそうです……!」
切られた左腕がズキズキと痛むが、その痛みが俺の感覚を取り戻してくれたようだ。
物凄く痛いけど、どうやらこのために切りつけられたらしい。
「よし、じゃあすぐに避難するぞ。立て」
俺が動けることを確認した男が右手を差し出してくる。
縋る様にその手を握ると、強く引っ張り上げられて強引に立たされてしまった。
2、3度地面を蹴って足の感覚を確かめる。
なんとか歩けそう……かな?
「あの方たちが後れを取るとは思わないが、今回は相手が悪い。流石に他人を守る余裕などは無いだろう。ここに居ては邪魔になっちまう。急いで離れるぞ」
ガイコツとそれを追っていった人たちが消えた方向を見ながら、男は悔しそうに呟く。
しかし感傷に浸ったのは一瞬で、男は直ぐに動き出した。
「そこらじゅうに火の手は上がっちゃいるが、敵はさっきのクソ野郎だけだから安心しろ。村の外まで誘導するから、遅れずについてこい」
敵って、なんだ?
村って……ここはいったい何処なんだ?
聞きたい事はいくらでもあったけれど、左腕の痛みで現実に引き戻される。
まずはここを離れる。それが最優先なのだと。
「はぁっ……! はぁっ……!」
金属の甲冑を着込んでいるとは思えないほどの速度で走っていく相手に必死でついていき、数分移動したところで村の外に出て、そこに沢山止まってる馬車の1つに案内された。
っていうか、馬車ぁ……?
「生存者1名を連れてきた。左腕に軽い切り傷、それ以上は詳しく確認してない。外傷は確認できなかったし、ここまで自分の足で移動できたんだから、恐らく大きな怪我はしていないだろう」
「了解致しました! 後はお任せください!」
俺をここまで連れてきてくれた甲冑の人は、馬車の前で槍を持って立っている青年に俺を引き渡し、振り返りもせず炎に包まれた村に走っていった。
嘘だろ……。
あの地獄に、自分の足でまた戻るのかよ……?
「おぉい。俺は中でこの人の治療してくるから、なにかあったらここは頼んだぞー」
槍を持った青年は隣りの兵士にひと声かけてから、改めて俺の応対を始める。
「よし、それじゃアンタはまず怪我の治療をしなきゃいけないから、早速馬車に入ってくれ」
……そうだな。まずはこの怪我を治療しないと。
未だに何も分かっていないけれど、治療してくれるみたいだから素直に従おう。
左腕の痛みを堪えながら、青年に促されるままに大きめの馬車に乗り込んだ。
くっそ、なにが軽い切り傷だ。めちゃくちゃ痛いぞ!?
確かに緊急措置だったのかもしれないけど、こんな大怪我したことないっての!
馬車の中で、青年に怪我の具合をチェックされる。
自分でも改めて確認したけれど、左腕以外は何処も怪我をしてないみたいだ。
「左腕の切り傷だけかな? でも打ち身とか俺じゃあ判断できないから、一応ヒールポーション飲んでくれるか」
青年から、緑色の液体が入った三角フラスコのようなガラス瓶を受け取る。
ってか、ひーるぽーしょん??
「え、えと……。これ、飲んでいいんですか……?」
普通に包帯を巻いたり消毒をしたりするものだと思っていた俺は、受け取ったガラス瓶にただただ困惑して聞き返してしまった。
怪我の治療にヒールポーションの服用なんて、そんなのまるでゲームみたいじゃ……。
「あー、それは救援物資の1つとして支給されたものだから遠慮せずに使っていい。あとから代金を請求されたりする事はねぇから心配すんな」
俺の質問を違う意味に取った青年は、軽い感じで服用を促してくる。
正直飲むのが少し怖いんだけど、左腕も痛いし、変に目を付けられるのも嫌だし……。
覚悟を決めてここは一気にグイっと……って、まっずぅ!?
口の中に広がるエグみに吐き気がするけど、何とか無理矢理飲み干した。
その途端切り傷が微かに光って、急速に塞がっていくところを目の当たりにしてしまった。
こんなの、現実では絶対にありえないよね……?
まるで、魔法みたいな……。
魔法みたいだ。
そう思った瞬間、パソコンのモニターに表示されていたメッセージがフラッシュバックする。
『新しい世界での生活……』
『今居る世界には2度と戻れない……』
え、え~っと……?
これってひょっとして、異世界転移って奴だった、り?
もしかして俺、やっちゃいました……?
「よし、傷は塞がったな」
呆然とした俺の耳に、ヒールポーションをくれた相手の声が届けられた。
俺の左腕を取って軽く怪我の具合を確認した青年は、軽い感じで俺に問いかけてくる。
「それじゃあまずはアンタの名前と、職業を教えてくれ」
「名前と……職業?」
やばいっ、これってどう答えるのが正解なんだろ……!?
適当に嘘を吐くべきか、分からないなら分からないって素直に言うべき……か!?
「す、済みません。自分でもなんであそこにいたのか、全く覚えてないんです……。助けてもらう前のこと、何も覚えてないっていうか……」
迷った挙句、異世界転移以外は正直に話すことにした。
嘘で切り抜けられる状況だとも思えないし、異世界から転移して来た人間の扱いがどうなってるのかも分からない。
下手なことは口にすべきじゃない。
「あぁ? なんだそりゃ、記憶障害って奴か? 名前や職業も思い出せねぇってことかい?」
「そう、ですね。名前も職業も、ちょっと思い出せそうにないです……」
怪訝そうな表情を浮かべる青年に、分からないの一点張りで押し通す。
実際この態度だって嘘というわけでもないし。
「外からは分からなかったけど、もしかしたら頭を強く打ったのかもしれねぇな。ヒールポーションは飲ませたし、大事には到らねぇとは思うけど……」
しかし青年は純粋に俺の心配をしてくれているようだ。
済みませんね。
頭を打って無くしたんじゃなくて、元々持ってないんすよ、何の記憶も。
というか今の俺ってどうなってんだろ?
今になって自分の姿を改めて確認すると、部屋にいた時と同じ服装、黒無地のTシャツにハーフパンツを着用していて、靴はなくて裸足だ。
鏡を見てないからなんとも言えないけど、若返っていたりイケメンになっているような感覚はなく、正真正銘自分の体そのままって感覚ではある。
少なくとも、転生ってわけじゃなさそうだ。
「それじゃ悪いけど、ステータスプレートを見せてもらえるか?」
「すてーたすぷれーと?」
聞き慣れない単語に、思わず素で反応してしまった。
なんですかねそりゃ?
「……ステータスプレートが分からないって、こりゃちょっと重症かもしれないな」
青年の呟きが耳に届く。
つまりステータスプレートとやらは、この世界の一般常識の1つということか。
「じゃあ俺が今から詠唱すっから、俺に続いて同じように言ってくれ。『己が本質。魂の系譜。形を持って現世に示せ。ステータスプレート』」
「え? えぇと、って……!」
戸惑う俺の目の前で、青年の胸から黒いカードのようなものが出てきた。
青年は服を着ているのに、服を貫通……、いや透過して。
体から生えたそれを右手で胸から引き抜き、俺に軽く振って見せる青年。
「これがステータスプレートだよ。後で思い出すとは思うけどな。名前と年齢、職業、それと犯罪歴なんかが確認できる魔法だ」
魔法……? 今、絶対魔法って言ったよな?
そう言えばさっきの質問の中で、剣と魔法の世界とか回答したかもしれない。
「あ、俺のは見せるつもりはないぜ。お手本として実演しただけだからな」
たった今自分の体から抜き取って見せた黒いカードを、己の体に差し込んだ青年。
すると黒いカードはそのまま青年の体内に消えていったようだ。
カード……ステータスプレートを体に差し込んだのに、痛みや出血などもなく、本人はいたって問題なさそうだ。
こ、これが魔法……?
「それじゃ今度はアンタの番だ」
なんでもないことのように、俺にステータスプレートの提示を促してくる青年。
「詠唱は『己が本質。魂の系譜。形を持って現世に示せ。ステータスプレート』だ。やってみ?」
詠唱……。
詠唱さえ正確なら、誰にでも魔法は扱えるってことなのか?
ていうかこれ、魔法が使えたとしてもそれを見せていいものなのか……?
俺のステータスプレートには何が書かれているんだ?
そもそも本当に俺に使えるものなのか?
「成功するまで教えてやるから、さっさと詠唱してくれ。こっちも仕事なんでな」
「は、はいぃ。己が本質。魂の……」
業を煮やした青年から詠唱を催促されてしまった。
だめだ。迷っていられる状況じゃない。ここが彼の指示通りにするしか……。
でも、もしもステータスプレートが取り出せなかったら?
取り出せたとしても、ステータスプレートに変なことが書かれていたら?
混乱が収まらずに、中々上手く詠唱できない。
「『己が本質。魂の系譜。形を持って現世に示せ。ステータスプレート』」
「お、今のは上手く言えたんじゃねぇか?」
ようやく正確に詠唱できると、胸の内側から何かがせり出してくるような感覚。
感覚のする場所に目を落すと、先ほどの青年のように俺の胸からハガキ大の黒いカードがせり出てきた。
……これ、そのまま抜き取っていいのか?
「ちょいと失礼~」
「あ、えっ!?」
硬直している俺を無視して、青年が俺の胸からステータスプレートを抜き取ってしまった。
引き抜かれた事による痛みや感覚は特にないらしい。
なるほど……。
ステータスプレートは体から抜いても特に問題はないし、他人が触れる事も出来るのか。
「なんだよ、別に犯罪歴があるわけじゃないんだな」
犯罪歴? 犯罪歴もステータスプレートに記載されるのか?
ってそうか。犯罪者だから記憶障害を装ってステータスプレートの提示を渋ったと思われたのか。
つまり犯罪者じゃなければ、ステータスプレートの提示を渋るようなものではないってことか。
「えっと、名前はダン、25歳、職業は……って、村人ぉ?」
ダン? ダンって確か、あの時PCに入力した名前だ。
やっぱりあれって異世界への扉だったのか?
でも、25歳ってのは俺の年齢そのままだ。
若返ったりはしていないらしい。
服装も変わってないんだし、肉体はそのままで名前だけ変わってるってこと?
「そのトシで村人のままって、いったいどういう生活送ってたんだよ? ってアンタ、記憶が無いんだったっけ。こりゃめんどくせぇことにならなきゃいいけどなぁ」
ため息を付きながら額に右手を当てて嘆く青年。
勝手に人の個人情報を抜いておきながら、勝手に落胆しないでもらえますぅっ!?
つうかいい加減返して?
俺にも見せてよステータスプレート。
「あのー……。確認取れたなら、ステータスプレート返してもらえます? 俺も見たいんですけど?」
「っとと、悪い悪い。ほら」
青年から黒いカードを受け取り、自分でも改めて内容を確認する。
ダン 男 25歳 村人
俺から出てきた黒いカード、ステータスプレートには、これだけの情報しか表示されていなかった。