EP54〜カディルの本音〜
ーー時は少しさかのぼり。
昨夜ランベールにフィラを預けて病室を後にしたカディルは、その直後書斎に向かっ
た。
幅の広い重厚な机には、たまった書類がカディルを手招きしていたがカディルはチラッと一瞥して横を通り過ぎた。
代わりに手に持ったのは天体望遠鏡である。いくつか種類があるのだが適当に一番手近にあったものを掴んで屋上に向かった。
屋上の扉を開けると、空一面に美しい星空が広がっている。
眩いばかりの空の宝石たちは今にも手が届きそうなほどだ。カディルは慣れた手つきで天体望遠鏡を組み立ててレンズのピントを合わせていく。
いつも心踊る瞬間だ。
けれど、一分ほど覗きこんでいたカディルはどうしたわけか天体望遠鏡から目を外して近場のベンチに座り込んでしまった。
浮かない表情だ。
深いため息をついて両手で目を覆った。
あんなに好きだった天体観測なのに、まるでやる気が起きない。たまった仕事に手をつける気が起きないので気分転換を試みたつもりだったはず、なのだが。
その時、背後の扉が開く音がしてカディルは振り返った。
立っていたのは、長身の黒髪の青年だった。ピシッと執事服を着こなすその体は細いながらもよく鍛えられた肉体美を思わせる。
カディルは表情をやわらげて息をついた。
「ーーロランでしたか」
「カディル様が天体観測をされるのは久方ぶりですね。どうですか、今夜はよく見えるのではないですか」
「えーああ、まあ、ね」
苦笑いして受け流すカディルをロランは辛そうに見つめた。
「カディル様。フィラ様の身を任されていたにも関わらず、あのような失態を犯してしまったことを……お詫びします」
ロランは深くカディルに頭を下げた。なかなか頭を上げないロランをカディルはしばらく無言で見つめていたが、ふっと笑った。面白くて笑ったのではない。怒りをぶつけたのでもない。ただ、寂しそうにため息をついた。
「ねえ、ロラン。頭を上げてくださいよ。今回のことはねえ、あなたが責任を感じることじゃないんですよ」
「ーーしかし……」
「いいから。ここに座りませんか?今は二人きりなんですし、少しくだけて話せませんか?」
カディルは自分が座るベンチの横をトントンとたたいてロランを促す。
「カディル……」
ロランはカディルを呼び捨てで呼び、少し躊躇したが言われるままに座った。
「あー久しぶりですねえ。こんな風に二人で星空を眺めるのは。あれ?こんな風に言うと、なんだか恋人同士みたいで気持ち悪いですかね」
クスクス笑うカディルにロランは頭を掻いた。付き合いの長い彼にはカディルが随分落ち込んでいるのが手に取るように分かってしまう。
カディルはため息をつくと小さな声で呟いた。
「ーー……私が甘かったんです。ここにいればフィラは安全だと思い込んでしまっていたんですよ。青龍の加護がフィラを守ってくれると……」
夜空を見上げるカディルの碧い髪を爽やかな風が揺らした。
「まさか堕天使になったフィラのお兄さんが妹を手にかけようとするなんて思いもよらなくて」
「いや、それは誰にとっても想定外だった。カディルの責任ではないだろう?」
「ーーいいえ。私はもっとあらゆる可能性を探求しなくてはいけなかった。フィラの身を私の元で預かると決めたのだから」
「カディル……」
「今だけ、ほんの少しだけ弱音を吐いてもいいですか……」
カディルの声が少し震えていることに気づいてロランは下を向いた。いまカディルの顔を見てはいけない。きっと見られたくない筈だから。
「弱音でもなんでも吐き出してしまえ。いま、二人だけなんだから」
「ーーありがとう」
カディルは微笑んだ。
「……フィラはね、このまま魔力が開花しないままだと大人になる前に死んでしまうそうです。魔力がね、体内で爆発してしまうそうですよ」
「ーーそうか……」
「それでなくても私利私欲にまみれた人たちの願いを叶えるために命を狙われているんですよ。ーーああ、もう本当に、なんでフィラなんでしょうねえ」
「ーーーー……」
「彼女を救える可能性は限りなくゼロに近いんです。サンクチュアリという神々の国に避難させたいのですが、果たしてフィラが迎え入れてもらえるかどうか……失敗したら彼女の身はそのまま引き裂かれてしまうでしょう……」
カディルは膝に頬杖をついて両手で目を覆った。
「私はね……、怖いんです。本当は怖くて仕方がないんです。フィラを救えなかったらと思うとーーーー怖くて何も決断できなくなってしまいそうになる。でも……それじゃダメなんですよね」
「カディル」
ロランは肩を震わせるカディルの背中に優しく触れた。
「フィラ様はなんだかんだで強運の持ち主だ。可能性がゼロじゃないなら勝算はあると俺は信じる」
「ロラン……」
「俺はただの人間だから大しで役にも立たないだろうけど、こうしてお前の話を聞くことならできる。……これは俺にしかできない役目じゃないか?」
「はは、たしかに」
「ならば毎晩でもいい。俺の前でなら涙を見せてもいい。いくらでも弱音を吐いていい。だから、諦めないでくれ」
カディルは辛辣な表情で顔を上げた。
月明かりがロランの端正な顔を照らしている。真剣な瞳がカディルを見つめている。
「弱虫だったお前が、今やこの広大な国の立派な青龍のディユ様だぞ。お前だからフィラ様を救える可能性があるんじゃないのか?」
「私だからーーフィラを救える可能性がある……?」
「ああ。ディユ様方の中でもお前の神力は最高位。お前にできないことは他の誰にもできない。ーー違うか?」
「ーーーー……」
カディルは俯いてしばらく黙り込んだ。
両手を開いて眺める。
「そうで……しょうか。私だからできることなんでしょうか……」
「保証する。お前だから、できるんだ」
「ーー……」
カディルは開いた両手をグッと握りしめた。
「あなたにそう言ってもらうと、不思議と勇気が湧いてきます」
「そうか」
ベンチから立ち上がり、瞳を閉じて深く深呼吸するカディルを、ロランはあたたかい目で見つめた。
「ありがとう。ロラン。ーーおかげで目が覚めた気がします」
微笑んだカディルはいつもの穏やかな彼だった。
「よし」
主従関係を超えた絆。
カディルとロランの関係を問われれば、間違いなくカディルは「兄弟」と答えるだろう。
いつもは主人とその執事という関係性。ロランもそれを壊すつもりなど毛頭ない。
それでもやはり兄弟のように過ごした幼い日々の絆が、身分を超えて寄り添うのだ。
カディルが辛いときは、いつでも守る。
主人であろうとディユ様であろうと、可愛い弟であることに変わりはない。
「フィラ様を愛しているんだろう?」
突然核心を突かれて、カディルは口をあんぐり開けたまましばらく呼吸をし忘れた。
「ーーーーはあ?……え、あ、え!?」
ロランはわざとらしく口元を手で覆って、からかうように微笑んでいる。
まさかカディルと恋バナをする日がくるとは。嬉しいような、少し寂しいような思いがロランの胸をよぎった。
「え、まさか。まだご自覚がなかったのですか?私の目の前で一目惚れされていたくせに」
「ひ、ひとめぼれ?一目惚れってあれですか?一目見て好きになるという……」
「はい」
カディルは仰天した。慌てて否定に入るがロランは含み笑いをやめない。
「一目惚れなんてそんな!ーーじ、自覚したのは、き、昨日です!私は断じてそんないかがわしい目で彼女を見てなど……」
「そうですか。昨日からはいかがわしい目で見ているということですね」
「ちが……違いますっ!」
真夜中の星空のもと、二人の青年の笑い声が吸い込まれていく。
「ああ、そうだ。初恋を自覚されたのなら言っておかなければならないことがあります」
「初……っ。もう、やめてくださいよ……なんですか?」
調子を狂わされて頰を染めたカディルが頭をかきながら照れ臭そうに聞き返す。
「アイシャ様にはお気をつけください」
「はあ?アイシャですか?なぜです?」
「証拠がないのでこれ以上は言えません。でも私の勘はあなどれない。違いますか?」
「それだけじゃさっぱりわかりませんよ」
カディルは困惑して首をひねった。
「そのうちわかります。言いましたからね。気をつけてくださいって」
「あーもう一難去らずにまた一難ですか」
しかしカディルの声には活気が戻っていた。もう先ほどのような迷いはないようだ。
「ーーロラン、ありがとう」
小さく囁いた声は本人に届いたのかどうか。ロランはうっすら笑ったように見えた。
ひとときの憩いのときが穏やかに過ぎていく。




