カテリーナ・ハーフェン
重い空を見上げ、カテリーナ・ハーフェンは呟いた。
「……空……」
太陽を覆い隠す雨雲はいつ降り出してもおかしくない色合いをしている。遠くでは雷鳴も聞こえ、カテリーナは自分が雷雲に追われているような錯覚を受けた。
小国ながら安定した統治により、比較的平和な国だったフルーク王国。野心の少ない国王は常に防衛ばかりを考え、国の内にしか興味を示さなかった。
だが、他国が優先度を下げるほどの小さな領土であっても、国王の手腕により農業や林業、革製品などの産業は栄えた。
ハーフェン伯爵家はそんなフルーク王国にあって、戦を得意とする武門の名家である。
戦略的にも特段必要とされない地とはいえ、時にはフルーク王国に攻め込む敵もいた。だが、その悉くをハーフェン伯爵家は防ぎきった。
守る戦いを得意としていた為、派手な戦功は少なかったが、他国からは最も攻略が難しい相手として知られていた。
故に、ブラウ帝国が攻め込んだ際には、ハーフェン伯爵領は徹底的に蹂躙され、伯爵家の男子は全て殺されることになる。
カテリーナは自身の育った地が蹂躙される様も、家族が次々に処刑される様も、その全てを見続けた。
そして、カテリーナの心は壊れた。
兵士に引き摺られるようにして連れ去られ、コシュマール商会の商人達が法外な量の金貨でブラウ帝国から買い取った時も、カルルク王国の国王やコシュマール商会の会長の前で裸にされた時も、奴隷オークションで商品として並ばされた時も、カテリーナの感情は暗く沈んだままだった。
精神を病んだカテリーナには、生も死も最早どうでも良いものだったのである。
対して、同じ馬車に乗り、正面に座ってカテリーナの横顔や肢体を眺めて口を歪める男は、これ以上無い歓喜に満ちていた。
カテリーナを落札した肥えた商人風の男である。
オークションの手続きの為に一日待たされた間も落ち着かず、辺りをうろついたり、他の街で売ろうとしていた奴隷を虐め殺したりして過ごしていた。
そんな男がカテリーナを眺めて、何度目かも分からない愉悦を零す。
「ぐ、ぐふ……あと少しで、お前も見納めか。出来ることなら、思い切り嬲り尽くして、その美貌が損なわれない内に殺して剥製にしてしまいたいが……お前はあまりに商品としての価値が高過ぎる」
男は舌なめずりをしながらそう口にすると、両手を顔の前に挙げた。
そして、指を一本ずつ折り曲げていく。
「この国の王、侯爵に、隣国の公爵や伯爵、子爵、更には他国の大商人達。ふ、ははは……多大な財を引き換えにしてもお前を求める者はこの指だけでは足りんくらいだ」
そう言って、愉しそうに指を全て折り曲げた男は、目を細めてカテリーナを見つめる。
「だが、残念ながらお前の売り先は決まっているのだ。そして、この私、ナギーブの出世もな」
呟き、大仰な身振りで頭を振り、腹を揺すって笑う。
「元から、あのオークションは全て筋書きは決まっていた。そう。目的はただ一つ、お前を求める他国の権力者へのアピールだ。公正なるオークションによって、お前が競り落とされた、というな」
その言葉に、カテリーナの表情が僅かに反応を返す。その微かな変化に口の端を上げて、ナギーブはいやらしく嗤う。
「おぉ、ようやく反応したか。人形を売ったところで意味は無い。本来なら拷問でも薬でも使える手段は何でも使って最高の奴隷に仕上げるところだが、あのカテリーナ嬢を傷物にすることは許されんからな……しかし、どうせ壊されるなら同じことだろうに……ん?」
下卑た顔で独り言を呟いていたナギーブだったが、突然馬の嗎と共に馬車が止まり、眉根を寄せた。
「誰が止めろと言った!? サウロ! また鞭を打たれたいのか!?」
瞬く間に激怒したナギーブは贅肉を揺らしながら立ち上がり、馬車の窓から顔を出す。
そして、息を呑んだ。
馬車の周りには怪しい薄汚れたローブの集団が並び立っており、御者をしていた男や護衛をしていた男達が血を流して倒れていた。
「ば、馬鹿な……貴様ら! この王都で、私に、コシュマール商会に手を出すことがどういうことか、分かっているのか!?」
ナギーブが怒鳴ると、ローブの集団の一人が動いた。
音も無く胸元から短剣を出して刃を見せつけると、静かに口を開く。
「知っている。だからこそ意味がある」
そう口にすると、男は手にした短剣を突き付け、カテリーナに目を向けた。
「外に出ろ」
「だ、ダメだ! 出るな! 動くんじゃない!」
男の指示に、ナギーブが反射的に否定の言葉を叫ぶ。
直後、馬車の中に血が舞った。
「ぎゃあっ!」
悲鳴を上げて、ナギーブは切られた腕を押さえる。
「血、血だ! こ、この私を斬ったな!? 貴様、顔を覚えたぞ……! 地の果てまででも追って、必ず殺してやる!」
怒りに目を血走らせたナギーブの言葉を聞き流しながら、男は手早くカテリーナを馬車の外へと引っ張り出した。
そして、剣の刃先をナギーブの顔に向ける。
「生きて帰れると思う心境が信じられんな……まぁ、泣いて命乞いする輩より殺しやすいか」
「わ、わ、私を殺すだと……!? そんなことをすれば、どうなるか! そんなことも分からんのか!?」
「煩い。地の果てまで追われるんだろう? 分かったから、死んでろよ。豚」
溜め息混じりにそう呟き、男は短剣を前に突き出した。
馬車の中から、この世のものとは思えないような断末魔の悲鳴が上がり、外にいたカテリーナの目が馬車の入り口に向く。
血に塗れた男がそこから出てくると、周りを囲んでいた他の男達も顔を向けた。
「コシュマール商会の奴隷仕入れ担当、ナギーブは殺した。次は奴隷販売担当のムラトだ。急ぐぞ」
男が短剣を仕舞いながら告げると、男達は無言で頷き、走り出す。その動きは素早く、明らかに戦闘の素人では無かった。
男は周囲を見回し、遠巻きに様子を見ている一般人の姿を確認し、カテリーナの手を取る。
「一先ず此処を離れるぞ。後は、自分で決めろ」
男は人形のように表情を変えないカテリーナを一瞥してそう口にすると、手を引いて走り出した。
カテリーナはその後を走りながら、無感動に自分が乗っていた馬車を横目に見ていた。




