領主の館
朝方始まった道行きは、夜の星が輝くころに終わりを告げた。
怪物と戦うべき者たちの最前線たる《嘆きの谷》に一番近い後衛都市と呼ばれる、地方都市アンミラル。
元々は一領主が持っていた商業都市に過ぎなかった。
怪物が谷から出て来て、この都市を襲ったのは五十年ほど前だ。アンミラルは一度地図から消えた。巨大な怪物に対して人間は全く防衛が出来なかった。というよりはむしろ怪物の存在すら認識していなかっただろう。その谷から怪物が溢れることは今までに一度も無かったのだから。
人間だけでその怪物を押し返すのは不可能だった。
アンミラルからその先の都市へ怪物たちが獲物を求めて進撃してきた時も、その国の精鋭と呼ばれる戦士たちが何百人と犠牲になった。
余りにも力の違う者同士の戦い。
じきに国王直々の沙汰が配布される。その指令で魔導士達が谷に結界を作り、怪物たちは谷に押し込められたままになった。
しかしその魔導が途切れるまでの間に、何とか怪物を死滅させなければならない。
その行動が無駄であると人間が悟るのに一年もかからなかった。
谷に入った人間たちが見たのは倒しても倒してもどこかから湧いてくる怪物の群れ。
そして何かの試練のように、人々はそこで戦うルーチンを定めた。
それも数十年を過ぎたころから何かに変わり。現在に至る。
リコはアンミラルの外壁の門の前で立って待っているシルファを見つける。後を追っていたが姿が見えなくなって久しかった。まさか待っているとは思わなかったので、急いで近づく。
「遅い。何をしていたんだ?」
「…ごめん」
謝るのが不条理に思えたが、仕方ない。
実際に自分は彼女よりもはるかに遅れて着いたのだし。しかしシルファに疲れは見えずリコはへとへとに疲れていた。
この違いが鍛え方の違いだとリコは思いたい。
「宿を取るつもりだったが、この時間では取れないかもしれないな」
シルファが肩を竦めながら言うと、リコはますます体を小さくして謝った。そんなリコを見上げてからシルファは小さく笑う。
「まあいいさ。ミストレスの所にでも泊まるよ」
役職なのか個人名なのか分からない名前を出されてリコは沈黙する。
「ついて来い」
「あ、うん」
完全に自分を待っていた事を理解したリコは、町の中心部へ向かうシルファの後を今度は遅れないように小走りでついて行った。
アンミラルに長く住んでいたわけでは無いリコは、明かりが灯る店先や住宅に目線を彷徨わす。此処に来た時は町はずれの訓練場で戦い方を覚えるために必死になっていた。
リコと同じような境遇の者たちも町に出て遊ぶなどという事はしなかっただろう。そもそも遊ぶ金など持たぬような身分の者しか訓練場には居なかったからだ。
もちろんリコも金など持っていなかった。
シルファが向かった先は町のほぼ中央にある領主の館だった。
大きな石造りの門が固く閉じている前に、門番が二人立っている。そこまで近づくとシルファは門番に声を掛けた。
「ミストレスはいるか?シルファが来たと伝えてくれ」
「はあ?何処のお嬢ちゃんだか知らないが領主様にはそうそう会えるものじゃないんだぞ?帰りな」
門番の男がそう言うと、後ろにいるリコをじろりと睨む。
リコが恐ろしくて首を竦めると門番はニヤリと笑った。
「新人か?良いから伝えろ」
しかしシルファはそんな男を相手にもせずに腕を組んで立っていた。その態度に門番の男は眉間にしわを寄せる。
「あのなあ俺達も暇じゃないんだよ、嬢ちゃん」
「分かっている。だから伝えて来い。すぐに済む話だ」
シルファの態度に門番は少し怯んだが、その場を離れようとはしなかった。シルファは少しの間待っていたが、男たちが動かないと知るとチッと舌打ちをしてから何事か小さく呟く。門番たちには聞こえなかったろうがすぐ後ろにいたリコには、その台詞が聞こえた。
ものの数分で門が勢いよく開かれる。
門番がぎょっとして見ると息を切らした女性がシルファの所まで小走りに近付いた。ハアハアと荒い息を吐いている。
「申し訳ありません!うちの門番が!」
「ああ、いい。今晩泊めて貰いたかっただけだしな」
「勿論喜んで!シルファさま」
「うん。こっちは連れのリコ。一緒に泊まるけどいいか?」
シルファがそう言うと、女性がリコを見る。
見られたリコは困ったように頭を下げた。女性はしばし眺めた後に服の裾をつまんでリコにお辞儀をした。
「ようこそ、アンミラルへ。領主のミストレスです。今宵はどうぞ我が家でおくつろぎください、リコ様」
今までの人生の中でそんな挨拶など受けた事のないリコは固まったまま返事が出来ない。そんなリコの肩をポンと叩くとシルファは門を先にくぐったミストレスの後に続くようにリコの肩を押した。
門をくぐる時に見ると、門番二人は硬直したまま呆然とこちらを見ていた。シルファはリコの視線の先を見てニヤリと笑ってから、リコに続いて門をくぐった。
美しい中庭を通った後に入った屋敷の中で、リコは別世界の中に自分がいるような錯覚に陥った。
見た事のない調度品や家具の数々。敷かれている絨毯も毛足の長い高級そうなもので下手をすると足がもつれるのではないかと思った。窓には透明なガラス。テーブルに飾られた大ぶりの花。運ばれてきた料理も、驚くほど美しい。
何よりこんなに大きなテーブルに三人で座って、給仕に出される食事なんてリコの人生初だ。食事のマナーぐらいは知っているけれど、緊張して銀の食器を落とすのではないかとリコは内心ハラハラした。
それに比べてシルファは慣れているように普通の顔で魚でも肉でも口に運んでいる。正直、料理の味なんてリコには分からなかった。
「今回も大丈夫だったのですね」
ミストレスが食後のお茶を飲みながらシルファに聞く。シルファは一瞬リコを見てから肯いた。
「何事もなかったよ」
「そうですか。それは良うございました」
微笑むミストレスを見てリコは複雑な気持ちだった。けれど何か意見を言うような愚はさすがにしない。リコが何かを言えば困るのはシルファだろうと思っていたから。
シルファと同じ部屋に通されたリコは、またその部屋に感嘆する。
上等な客室なんて見た事も聞いた事もなかった。ましてやそこに自分が泊まるなんて事は一生に一度も無いと知っていたのに。
「…どうした?」
部屋の端で立っているリコに、シルファがマントを脱ぎながら声を掛けた。
何でもないような声音に、やっとリコは息を吐く。ずっと緊張していたせいで少し顔色が青かった。
「…君の服装に何も言わないんだね」
なにも言葉を思いつかないリコは、緊張をほぐすために気になっていた事をシルファに言ってみる。シルファは自分の服を見てから笑った。
「汚い服だが、戦った証拠だからな。文句は言われん」
「あの人はシルファを知っているの?」
「勿論。後衛都市の領主が守護者の顔を知らないでどうする」
「…守護者?」
リコが首を傾げると、シルファは苦笑した。
「ああ、知らないのか。ボクは守護者だ」
「…国が定めた騎士の上の位の人の事?」
「それぐらいは知っているのか。そうだ、それだよ」
シルファは話しながら手や足の防具を外していく。それは軽い布製だが今は血にまみれて重量を増したように見える。
「でも僕が知っている守護者って、もっと大人で大きな男の人だった気がするけど」
「ん?ドルカスの事を言っているのか?確かにあれも守護者だが」
あれって。
リコの心の呟きが聞こえたのか、シルファはリコを見てから苦笑した。
「あいつは序列で言うとかなり下の方だがな」
「…守護者に上とか下とかあるの?」
「あるさ。騎士にだってあるぐらいだ。守護者にだって当然序列はある。まあ騎士と違って実力主義だがね」
シルファは汚れた上着も脱ぎ下着だけになると、部屋に付いている大きな扉に手を掛ける。それからリコを振り返って眉を顰めた。
「話を続けたければ、お前も服を脱いでついて来い」
「え、何で?」
「…風呂に入るのに服を着ている馬鹿がいるか」
リコは慌てて両手を大きく左右に降った。その動きを見てシルファが眉を顰める。
「女の子と一緒にお風呂なんて入らないよ!?」
「そうか。紳士だな」
ニヤリと笑ってから扉を開けたシルファに、リコはほっと息を吐いた。無理矢理入れと言われたらどうしようかと思っていたからだ。
シルファが風呂に入ってしまうと、広い部屋の中は静かになった。改めて見回すが見慣れたものなど何一つ存在しない部屋に、リコは居心地の悪さを感じる。
一瞬、一緒に風呂に入ってしまおうかとも考えたが、それはそれで混乱するだろう事は間違いないだろうと思ったので、仕方なく壁に背を預けて座り込んだ。
風呂から出て来たシルファは白い簡易な服を着ていた。およそ女の子らしくない服装だったが今まで着ていた服だって女性的ではなかったのだから一緒だろう。
「お前も風呂に入るといい」
「うん」
髪を拭きながらシルファが声を掛けると、リコは素直に頷いてから風呂場の中に消えた。シルファはその姿を目で追っていたが、ベッドに腰掛けると空中に何やら指先で模様の様なものを書きだした。それは空中で描き出されたまま固定される。
「聞こえているか、カイン」
『シルファ?どうしたの?』
「…今回、生き残りがいてなあ…」
『え、始末しなかったの?』
帰ってきた返事にシルファが眉根を寄せた。
「…子供でな」
『それでも、事実を知る者は速やかに消去するべきだろ?』
「うーん…」
シルファはまだしっとりと水分を含んでいる自分の髪を指先に絡めながら視線を天井に向けた。美しい装飾が描かれている天井を何の感慨も無しに見上げたまま黙っている。
『なに。まさかまた保護したいなんて言わないよね?』
「…うーん…」
明確な言葉を言わないシルファに、カインと呼ばれた人物は溜め息を吐く。
『…面倒見なよ?』
「ああ。分かっている」
『…仕方ないなあ。こっちに話は通しておくよ。…貸しだからね?』
「ありがとう」
『君が愁傷な言葉を言うなんて滅多に無いからね。有り難く受け取っておくよ』
「…酷いな」
シルファが苦笑すると、模様の向こうのカインも小さく笑った。
『気を付けて帰って来なよ』
「…うん?なんだ?」
何時もなら言われない台詞にシルファが聞き返すと、カインは幾分真面目な声で告げてくる。
『最近、辺りがきな臭いんだよね』
「情報通のお前のいう事だ、事実なのだろう。…気を付けて帰る事にするよ」
『何時もそれくらい素直ならもっと可愛いんだけどな』
「余計な事は言わなくていい。ではまたな」
『はいはい。じゃあね』
シルファが指先で空中の模様を消すと同時に、リコが風呂場から出て来る。髪を拭きながらベッドに座って自分を見ている相手に首を傾げた。
「なに?」
「いや。お前はそんな色をしていたのだな」
風呂に入る前は汚かったリコも、汚れを落とせば本来の色に戻る。その色を見てシルファは彼が不遇だったことを悟った。
「神木の一族か」
「…うん…」
指摘されたリコは頭からタオルを被ったまま俯く。その事はなるべくなら他人に指摘されたくはなかった。
ましてや金髪に白い肌を持つシルファに、指摘されるのは嫌だった。