レナの心
『高すぎる授業料』婚約破棄の当日のレナの心境。
短いです。
ドンッと音がして、私は門の外に突き飛ばされた。
冷たい小雨が降っていた。
空はどんよりと暗くて、重苦しい。それは薄汚れて貧乏くさい、この王城の使用人用出入口も同じ事だった。
突き飛ばした兵士たちは嘲笑を隠しもせず、ギギィ、ガシャンと音を立てて正門を閉じた。そしてその後は知らんぷり。もちろん私が声をかけてもなんの反応もないか、あるいは小馬鹿にしたような応対をするのだろう。
私が侯爵令嬢である事も、無法な仕打ちの果てに叩きだされている事も知ったうえでの、この仕打ち。
そう。
もちろん彼らも、その仲間なのだろう。
周囲を見渡した。
王城には数えきれないほど来たけれど、使用人用出口から出たのは数えるほどしかなかった。その何回かの利用というのも小さな頃にお忍びで出入りした時くらいだったから、ある意味はそれは懐かしく、だけど、今は感慨にふけっている場合ではなかった。
ぶしつけな、そして悪意の視線がどこかから飛んでくる。
粗末な平民服を着せられていても、中身である私はついさっきまで侯爵令嬢だった。アクセサリーがなくとも薄化粧された肌などで何者であるかは露骨にわかるだろうし、そして、供もなく裏門から平民服で叩き出されたという事は、ワケありで孤立無援ですと宣言しているようなもの。
つまり、ここにいたら破滅という事だ。
静かに立ち上がった。
靴すら履かされていない、素足に石畳は冷たく濡れて硬い。
「……」
一度だけ深呼吸をすると、私は歩きはじめた。
悪意の視線と雰囲気もまた、それに伴って動きはじめた。
ひたひた、ひたひた。素足に冷たく、そして時々痛い感触。
少しずつ悪意も近づいてくるけど、私は落ち着いていた。
え、やせ我慢するなって?
いえ、やせ我慢ではないのだけど。
突然の婚約破棄に平民落とし。印璽は確かに陛下のものだったけど、あの筆跡は陛下のものではない。
そして、なぜか得意満面の殿下の隣でニヤニヤ笑っていた女。
つまりそれは、ハメられたってこと。
少なくとも外遊から国王陛下が戻られるまで、私は無位無冠の平民でいるしかないのだけど……はっきりいって、何もせずそこまで生き延びるのは無理だろう。
それに。
迫ってくる悪意は、おそらく女の息がかかっている。つまり無防備な私を襲わせ、完全に再起不能にするのが目的なんだろう。
はっきりいって、なすすべがない。
まぁ。
私が普通の貴族のご令嬢なら、ね。
「……」
足を速めた。
最初はちょっぴり駆け足で。
やがてどんどん加速していって、ついには常人の全力疾走くらいのスピードになって。
そして、その速度をがっつり維持して走り続ける。
さて、彼らは追ってこれるかしら?
「……まだ来る」
まだ悪意が追ってくる。
ただのごろつきは脱落したみたいだけど、素人じゃないヤツは生き残ってるっぽい。
じゃあ、こっちも進路変更。森に向かった。
この大陸の森は深い。わがテルル領の魔の森ほどじゃないけど、この王都の森だって普通に魔物がいる。少なくとも、非武装の女の子がひとりで入っていい場所ではない。
でも、走り続ける。
「……?」
緑色の姿。ゴブリンたちだ。
私を見て、不思議そうに首をかしげている。
「追われてるの、気を付けて!」
声をかけつつ横を走り去る。
しばらく行くと、背後で気配が動いた。ゴブリンたちが追手と接触したみたい。
もうしばらく走ると、森の反対側に抜けた。
草原があり、道が走っている。
この道は王都からテルルに向けて伸びる道だけど、各地にある森を迂回しつつテルルに向かう。すなわち道は激しく蛇行している。
そして私は蛇行せず、森のどまんなかを堂々と通る事ができる。
と、その時だった。
「っ!」
一瞬、胸が激しく焼けたような気がした。
今朝のドレスなら無理だけど、この服なら容易に胸元を覗き込む事ができる。思わず見てみたのだけど。
「……これは」
ちょっぴり……うん、ちょっぴり寂しい私の胸だけど、真ん中のあたりに小さな点があった。
小さい時に森で迷った時、精霊がつけた跡。
そこが今、何かこう、じくじくと刺激を発していた。
狩人や森あそびする子供などには、時々これがついてる。私もそうだし、テルルの騎士もついてる者がいる。狩りや警備でしょっちゅう森に入るからだ。
これはつまり。
森の住人ですよって精霊が認識した証明みたいなものなんだけど。
でも。
まれに、この精霊の跡が単なる刻印でなく、本当に精霊が住み着いて活性化する者がいるらしい。
人間ではめったにいないそうだけど、森の動物や魔物では時々いる。そしてそういう個体は寿命を越えて森で生き延びて、森のヌシなどと呼ばれる存在になるらしい。
これは……まさか?
そんなことを考えた、その瞬間だった。
『……ヘ、オカエリ』
「!」
『モリヘ……オカエリ』
頭の中に、不思議な声が響き渡りだした。
不気味な感じはしなかった。むしろとても懐かしく、小さい頃はとても身近だったような気がした。
これは……なんだったろう?
じくじく、じくじく。
それは胸の疼きと連動している。
瞬間、唐突に頭のどこかが理解した。
そうだ。
この声は、私を呼んでいるんだ。帰っておいでって。
思えば、もう何年も森から離れていた。
王の勅命というやつで無理やり婚約させられ、王家に入るなら森にいるわけにはいかないと思って……それ以降、なるべく森に入らないように心がけていた。
私が森に親しんでしまうと、高い獣魔スキルが問題になる。少なくとも、お姫様になるには問題が出てきてしまう。
獣魔スキルは、テイマーや召喚士のスキルとは違う。
自らも人外となり、いわば同胞として交流するスキルであるがゆえに。
金気のものを嫌うようになったり、ニオイの強いものが食べられなくなったり。
高レベルになると、青い血の生活に間違いなく支障をきたしてしまうから。
お姫様にならなくちゃならないなら、森にいるわけにはいかない。
だからもう何年も、森には近づかないようにしていたのだけど。
「ああ、そうか」
そこまで考えたところで、ようやく私にも理解できた。
うん。たぶん、婚約破棄のうえに追放されたのが原因だろう。
ずっと心の中で、森から離れよう、離れようとしていた。そしてそれは、予定通りにお姫様になったのなら一生そのままだったんだと思う。
だけど、今回の事で、心の枷が外れちゃったんだ。
でも。
だったら、この胸の疼きって……眠っていた刻印の中の精霊が動き出したってこと?
「……ふふ」
思わず、笑いがこぼれた。
私の推測が間違いないならたぶん……もう、私はお姫様になる必要はない。
いえ。
完全に精霊が活動をはじめてしまったら、お姫様になる事はもうできないだろう。
陛下と奥方様が戻られるまで、まだだいぶ日がある。
その間、私はあのバカ殿下や女の刺客に出会わないよう、森の中にいる事になる。
そしてその間、私の心身は急速に森に引っ張られるわけで。
これは……もしかしてあのバカ殿下……バカ王子に感謝すべきかもしれない。
小さい頃の夢。
それは、大叔母様のような魔獣使いになる事。
あの日、陛下が無理やり私をバカ王子の婚約者にするまでは、お父様やお母様も、たぶん応援してくれていた事。
『ああ、レナは才能があるからな。いい魔獣使いになれるだろう』
『こんなに可愛いのに……』
『おまえの気持ちもわかる。しかし高レベルの獣魔持ちが貴族の奥方になっても苦労するだけだぞ?』
『ええ、わかってます。ただ、こんな可愛いのにもっていない気がして』
『確かになぁ』
お父様、お母様ごめんなさい。
私は、レナはやっぱり森の子に……魔獣使いになります。
ピィーッと頭上で鳥が鳴いた。
ただの鳴き声ではない。私に森に入れ、追っ手がくると言ってくれている。
うん、わかってる。
私はうなずくと街道を横切り、次の森にそのまま飛び込んだ。