ラーメン
「へいおまち!」
ラーメンが運ばれてくる。白い湯気が立ち上ぼり天井の換気扇に吸い込まれていく。
俺はその大きな白い器に顔を近づける。眼鏡が曇り視界が白くなる。まるで朝靄のなかだ。
そう、今朝は霧が出ていた。学校までは自転車で30分かかる。
長い上り坂を立ちこぎで進む。授業開始まで、あと5分。死んだ。確実に死んだ。だが、俺は諦めない。
自転車を全力でこいだ。霧で視界が悪いうえに、吐く息で眼鏡が曇る。視界は完全にホワイトアウトした。
ガシャン!
俺は、突然吹っ飛んだ。
(あっ、死んだな)
なんらかの衝撃によって、自転車から投げ出された俺は、ガードレールを越えて二メートル落下したのち、地面に全身を打ち付けた。
だが、そこは芝生だった。
痛みに呻きながら体を起こすと、小学生が騒ぎながら集まってくるのが見える。
俺が落ちたのは小学校の校庭のど真ん中で、しかも、小学校たちがサッカーをしている最中だったのだ。
「大丈夫?」と話しかけられたので、
「うるせぇっ!クソガキ!」と叫びながら走って校庭を出ようとしたのだが、小学生は泣き出すし、それを聞き付けた、ふけた女の教師に見つかって怒られて、あげくのはてに、俺の学校に連絡されたのだ。
全く酷い朝だった。
俺は曇った鬱陶しい眼鏡を乱暴に外すと、足元に向かって叩きつける。
だが、スポーツ用の眼鏡は、カチャと軽い音をあげただけで、その様子に余計腹が立った俺は、さらに靴で踏みつけた。
だが、スポーツ用の眼鏡は、形状記憶素材なので、グニッと靴の裏で薄っぺたく捻れるようにつぶれたあと、足をあげると、またもとの形に戻るのだ。
ついに破壊を諦めて、油で滑る通路に向かって蹴飛ばすと、ちょうど通りかかった店員の足元に滑り込んで、それを踏んづけた店員は、持っていたラーメンをぶちまけながら、派手に転んで、うつ伏せの姿勢で動かなくなった。
構うものか!俺はラーメンを食べるんだ!たとえ、隕石が落ちてこようが、俺はラーメンを食べる。
まずは、スープだ。ラーメンの命とも言えるスープ。ここで全てが決まるといっても過言ではない。
半分までスープに浸かった蓮華を持つと、それを押し付けるようにしてスープを救い上げ、口に運ぶ。少し蓮華を傾けて、ズズッとスープを啜った。
豚骨特有の甘みが口のなかに広がっていく。
それに比べて、人生のなんと辛いことか!
朝から人生最高レベルの災厄に襲われた俺だったが、あれはまだ始まりに過ぎなかったのだ。
そもそも俺が学校に遅刻しそうになったのは、昨晩の徹夜が原因だ。
クラスメイトの花子に宛てたラブレターを書いていたのだ。書いては書き直してを繰り返して気がつくと遅刻寸前だったのだ。
そして、放課後。
朝の件で説教を受けたあと教室に戻ると、すでにクラスメイトたちはいなかった。
そして校舎を出たとき、俺は見てしまったのだ。
花子だ!しかも、誰かと一緒に歩いているではないか!
あれは、俺の親友の太郎!
「おのれ、太郎!裏切ったなぁあああ!」
俺は叫びながら走り出すと、その勢いのまま太郎の背中にドロップキックを食らわした。
太郎は吹っ飛ぶ。
「きゃあああ!」
倒れた太郎を見て花子が悲鳴をあげる。
どうしていいかわからなくなった俺は、取り合えず足下の太郎に下段攻撃を繰り出すことにして、場を繋いでいると、突然目の前にイケメンが現れた。
なんだこのイケメン...
取り合えず例外無くイケメンは殴っていいと日本国憲法に書かれているので、それにしたがってイケメンに殴りかかる!
「死ねぇ!」
イケメンの顔面を、俺の拳が破壊するまで残り1㎝!
しかし、イケメンは俺の手首を掴んで止めたのだ!
イケメンの癖に強いのかよ...!反則だろ!
イケメンはそのまま俺に背負い投げを食らわした。
「花子を泣かすやつは俺が許さない!」
さっきまでは別に泣いてなかった花子が感動して泣き出した。
(泣かせたのお前じゃねーか!)
心のなかで突っ込む俺には目もくれず、二人はイチャイチャしはじめたのだった。
俺は、親友と恋人を失ったのだ。
そして、俺は今、ラーメンを食べている。
ラーメン。
ラーメンだ!
ラーメンだ!!
もう、ラーメンのことしか考えられない!
ラーメンラーメンラーメンラーメンラーメンラーメンラーメンラーメンラーメンラーメンラーメンラーメンラーメンラーメンラーメンラーメンラーメンラーメンラーメンラーメンラーメンラーメンラーメン...
「らぁあああああめぇええええん!!!」
俺は叫ぶと、ラーメンの器のなかに顔を突っ込んだ。鼻や口にスープが入ってくる。
俺は今ラーメンになっている。
俺がラーメンであり、ラーメンが俺なのだ。
つまり、ラーメンとは人間だ。花子とか、太郎とか、イケメンとか、そんなものは、ラーメンに比べればどんなに小さい存在だったか...
そう、このラーメンの偉大さ、神聖さ、強大さ...
そういったものに比べれば、俺の抱えてる問題なんて些細なものだ。
そう、俺はラーメンだ...
ラーメンだ!
ラーメンだ!!
「俺はラーメンだぁあああ!!!」
机のうえに財布を叩きつけると、地面に倒れている店員に向かって言う。
「釣りはいらねぇ!とっときなぁ!!」
俺は走り出した。油でぬるぬるの床で、滑って転ぶ。
だが、立ち上がる。朝のダメージに比べれば、イケメンの背負い投げに比べれば、たいしたことはない。
それに、今の俺はラーメンだ。
マリオカートで言ったら、スターをとったような状態だ。
つまり、無敵!!
俺は走る!
入り口のドアに全速力でタックル!
「ぐはぁっ!」
引き戸!
だが、ラーメンである俺には関係ない!
俺は引き戸を全力で蹴っ飛ばす!
ガシャアアン!
扉は、凄まじい音を立てて、外側に倒れる!
俺は走った!行く宛もなく走った!
気が付くと、花子の家の前にいた。
ポケットにはグシャグシャになったラブレターが入っている。
俺はそれをビリビリに破り捨てた。
もう、こんなものいらない。
俺はラーメンだ。ラーメンさえあればいい。
ドアの前にはインターホンがあった。
だが、俺はそれを押さない。がっしりとつかむと壁から引き剥がしてアスファルトに叩きつけた。
俺はラーメンだ。こんな小細工、俺には必要ない。この声があれば充分だ!
「花子ぉおおおお!!ラーメンだぁあああ!!!ラーメンを食べに行こう!!」
しかし、花子が出てくる気配はない。
だが、諦めずに何度も叫んでいると遠くからサイレンが聞こえてきた。
警察だ!警察は、カツ丼を使って尋問をするようなやつらだ。何もわかっていない。ラーメンさえあれば、すべての犯罪を抹消できるというのに。
だから俺は、思いきって、家のなかに入った。
不法侵入?それは人間の法律であって、ラーメンである俺には適用されない。
俺は、階段をかけあがり花子を抱き抱えると、窓から飛び降りた。
「ラァアアアアメェエエエエエンンンン!!」
着地と同時に足に鋭い痛みが走った。骨折してかもしれない。
だが、ラーメンに骨はない。あるのは豚骨だ。
つまり、ラーメンである俺にはなんの問題もない!
俺は折れた足で走った。
花子が悲鳴をあげる。
その悲鳴で召喚されたイケメンが俺の前に立ちはだかる。
だが、今なら勝てる!
骨を切らせて肉を断つ!
なんか違うが気にしねぇ!
俺は花子をイケメンに投げる。イケメンは花子を受けとめ、よろける。その隙をラーメンである俺は見逃さない。
イケメンのがら空きになった足を払って転ばせると、花子を受けとめ、2人分の体重で、プレス!イケメンの顔が醜く歪む!
俺はそのまま走る!走る!
「ラァアアアアメェエエエエエンンンン!!!!」
気が付くと俺は交番にいた。
「...カツ丼でも頼むか?」
いかつい顔の警官が言った。
「ラーメン」
「ラーメン?こういうときはなぁ、カツ丼って決まって...」
「ラァアアアアメェエエエエエンンンン!!!」
「わ、わかった、ラーメンを頼もう」
ラーメンが届くまでの数分間、警官はいろいろ質問してきた。
「まず、おまえはラーメン屋で食い逃げをした」
「食い逃げ?俺は財布ごと置いてきたんだ」
「財布のなかには30円しか入っていなかった」
「あっ...」
沈黙
「それから、器物損壊、不法侵入、誘拐、暴行...」
意識が遠退いてていく。
そして、ラーメンが届いた。
俺は静かにラーメンを食べた。
ラーメンを啜る音に隠れて、俺は泣いていた。
ラーメンを食べ、スープを飲み干す。
からになった器の底には、「おつかれ」と、書かれていた。
俺は叫ぶ。
「らぁああああああああああああああああめぇえええええええええええええええんっっつつつつ!!!!」
深夜の交番に、俺の声が響き渡った。