彼女が再び生まれる時に経験したこと
外の世界を見ていると、自分がそれまでいた夢の淵からゆるゆると昇っていく、ある種の高揚のような、それでいてそれを怖れている何とも不思議な感覚に襲われるときがある。
そんなことを思うのは、決して出ることの叶わない外の世界を、自分はただ見ていることしかできないからであると。そう、分かっているからだ。
……分厚いガラスの前で、窓越しの、当たり前とも言える外の景色をじっと見つめる。
それが、習慣だった。
眼前に広がる色は、その日は色みのないセピア色でどこか雨の臭いがした。町を歩いている人はきっと、それを嫌がるのだろうけれど、それは何故だか嫌いにはなれなかった。
外の景色は見えている。けれど、目の前に確かにあるのは、外気を遮断する、透き通っているガラス越し。『外』という世界はかつて別の意味を持っていた。その時の、遠いけれども今も鮮明に残っている頃の遠い日に思いを馳せる。
知っているからこそ、だからこそ自然と唇を噛み締める。
輝かしいかつての日々が、することがなくなった時、ぽっかりと空白になった時間をもて余していると、否応なしに思い出させる。
……この身は随分と前から、病床にあった。
曰く、長くとも二十歳まで生きられないという病である、と。宣告された時、乾いた笑い声しか出なかったことを覚えている。
うっすらと、知っていた。
言われずとも、分かっていた。
自分には何かが足りないのだと、理解していた。
他人よりも脆い、ほろほろと崩れているのが見えるような弱い命。
「…………」
この状態を受け入れたのは何時だったろう。刻一刻と近づいてくる死の臭いは最早慣れきったもので、それでも……こうして空を見上げる時だけは安らげた。
何が有ろうと、起ころうと。それが残されていたすべての希望だった。
羨望の眼差しでもって、それゆえに、来室者には気づけないのは、いつものことだ。
いつからか、ちょくちょくやって来る男がいた。
面会謝絶になっていたはずの、その時でさえ、やって来た。
来室した彼の、ほっそりとした指先に肩をとんと叩かれて、それでようやく振り向くのだ。扉が開くのに気づかなかったのか、という問いはきっと意味を成さない。男はそういう存在なのだ。
……そのくせ触れられれば何故か分かってしまうのが、おかしなところである。
これまで眺めていた世界に背を向けて、いつか来るだろうと思っていた時間が今であることを、悟った。
端整な顔つきの男はわずかに前屈みになって、無表情でこちらを覗き込んでいる。
……彼は、つかみどころのない男だった。別れて少し経てば、きっとその造作も忘れてしまいそうな、地味な顔立ちをしていた。そんな様子であったけれど、何故だか死相の浮かんでいるだろう自分の顔を見せたくないと思った。
彼としばらく見つめあう。先に目をそらしたのはこちらの方だった。
何となく、外を眺めていた時の、自分が自分でないような妙な浮遊感が残っていた。
逃げるようにそらした目は、自身の、何も持っていない手元を見ていた。
それすら虚しくなって、青い空を追いかける。
――ああ、と自然に漏れ出た声はかすれていて、喉がかすかに震えるのが自分でもわかった。
覚悟は出来ていたはずなのに、だ。
その時確かに、自分は冷静ではなかった。それは、うわ言のようであったかもしれない。
彼の方を見ないまま、呟きが漏れた。
「時間、なのですね……死神さま」
彼は――『死神』と呼ばれた彼は無言で、何とも反応はなかった。黙ったままで、そうだと言っているようだった。
彼が口を開いたことはない。話せるのかもわからない。お世辞にも死神らしい、恐ろしい顔ではないし、それ特有のいかにもな鎌もない。
ただただその黒い双眸がつやめいてこちらを見つめるのばかりが印象的な、一見普通の人のよう……けれど、彼は確かに死人を連れて行くのだ。
そんな場面を何度も何度も、見てきた。
それは生死の境を幾度もさ迷った者である自分だからこそ見えた、この世の終着点だった。
死にゆく全てに手を差しのべているのが男だった。
誰かのために現れては消えていく彼はいつか、目の前にやって来るのだろうと、それだけは分かっていた。
広い、まるで無限の可能性を秘めているかのような、そんな果てしもない空を見つめ続けながら、ふと、思う。
こんな人生だったけれど、それでも自分が生きた証である経験は、死後のどこかで埋没し、消えてしまうのだろうと。そんな、当たり前のことを思い出す。
そのことは何だか、少しだけ残念な気がして……そう考えているこの身はじき時間切れになると、確信できた。
既に、体はいつにない程のだるさを訴えている。『死神』に掴まれた腕は妙に冷たかった。
横たわるベッドで、そこから眺める景色が歪な形に変わった。
生けられた鮮やかな花が、真っ白な病室が、四角く嵌め込まれているはずの窓枠が、そこから見える空が、ぐにゃりと歪んだ。
何でだろうなんて、考えるまでもなかった。
そもそも、何のために『死神』はやって来たのか。すぐに分かる話だった。
歪んだ世界を見たくなくて、彼の腕の感触を感じながら閉じた目は、どのくらいか経った頃から開かなくなる。
口に出せたかも分からない声で、呟いた。
――ああ、終わりか。
◇◇
そうしておそらく、自分は死んだのだろう。何も見ることが出来ない、おそらく魂だけの存在であるのはひどく曖昧で、混濁しているように感じる。
……おそらく、死者であるがゆえに、だ。
けれどもその状態で、それでも思考できたのは一体何だったのか。
『 』
これから、一体どこへ向かい行くのだろう。地獄か、はたまた天国か。
あるいはよくある、本当にあるかも分からないような話に、生まれ変わりというのがあるが、生きていた記憶を失っている今、実は自分はその局面に在るかもしれない、とも思う。
どれが正しいかなど、分からない。ただ、わずかな変化だけは感じた。
生きているとき周りにあった、ありふれた、けれど具体的な名前は徐々に薄れて、思い出せなくなっている。
『 、――』
――ああ、分かってはいたけれど。
自分の名前でさえ、少しずつ、じわじわと消えていく。それが手に取るように分かる、不快感。
自分の名前は何だっただろう、と考えかけてやめた。
もうそれすら、今は関係ないのだ。抗ったところで結果はおそらく、変わらない。どうせ忘れてしまうものだから、どうせ消えるものだから。
記憶を奪われながら、意識は緩やかに、ますます混濁していく。
そのうち、何も考えられなくなった。
『――――――――』
だから、どこかで何か、音のような声のような、そんなものがかすかに聞こえたのは。
きっと、気のせいなのだろう。
◇◇
ふと引き上げられるような、そんな感覚があった。
やわらかな風が、頬を撫でていた。
周りでさらさらと、草がそよいでいるような、そんな音が聞こえる。
何故だか、自分の体が、そこにあると知覚できていた。
「あぁ…………」
目を開く。きらきらと、何かがきらめいていのが見える。
こうして――再び彼女は覚醒した。
続きそうで続かないけれども一応続きは考えている話。
暇だったら書くかもしれない。
読んでくださってありがとうございました。