ココカ・クロスフェード
◇
人間は期待に応える生き物だという話を聞いたことがある。
たしか、小学校の朝礼で校長先生が話していたような……他の話はほとんど覚えていないけど、この話だけは如実に頭にこびりついていた。
『誰しも期待されると応えたくなるものです。若いみなさんは色んな人の期待を受けています。保護者の方、地域の方の期待に応えられるような、立派な大人になってくださいね』
列の先頭で耳を傾けていた俺に、校長先生はウインクしてくれた。
あれから十年。
大学生になった俺はたくさんの人の期待に応え続けている。
学生らしく学業に邁進しているのかって?
残念ながらそうではない。むしろリアルでは独り暮らしにかまけてサボりまくりの日々だ。どうせ家族だって出来のいい姉が本命で、出来損ないの俺には期待していないだろうから、別に気に病むことはないけど。
俺がみんなの期待に応えているのはネット上――とあるゲームの中である。
デフォルメされたキャラクターを動かして、プレーヤー同士でチームを組み、様々な「クエスト」をクリアし、アイテムを入手することで射幸心を満たすという、とても一般的なMMORPG『クロス・オブ・クロス・オブ・クロス・ウィズ・クロス・アナザー』。
メイン武器がクロスボウなので、ゲシュタルト崩壊しそうなほどにクロスを推しているものの、あまりにもタイトルが長いため、ネット上ではイニシャルをとってCOCOCA――ココカと呼ばれている。Wはいらない子になったらしい。
ココカはアバターのデザインに秀でており、そこに惹かれてプレイを始める奴が多いと言われる。
そんな彼らに「内面の可愛らしさ」を提供しているのが我々のような存在である。
つまり、俺はネカマなのだ。
チャットからゲームプレイに至るまで、ありとあらゆるシーンにおいてアニメじみた女の子らしさを出していく。女の子アバターゆえに「そう」期待されるわけだから、ダマしているなんて感じることはない。
あの訓話の通り、みんなの期待に応えているだけだ。
ただ、パーティの奴らから貢ぎ物をもらったりする時には、まるで悪の帝王にでもなったような気分になってくる。
人を手玉に取るのはこんなに楽しいことなんだな。ゾクゾクしてしまう。
『レベル50のクロスボウバズーカ、イレナちゃんがもらっていいよ』
『本当ですか? ありがとうございます、バリスタンくん!』
中ボスがドロップしたアイテムをあっさり譲ってくれるバリスタンくん。
パーティの中でクロスボウナイトを担当しており、フィールドでは騎兵の機動力を生かして先陣を切ることが多い。
一方のイレナちゃん、つまり俺のアバターはとてもノロかった。なのでバリスタンくんの馬に乗せてもらうことがしばしばある。でなければ戦闘にも参加できない。
このことは他のパーティメンバーの密かな怒りに繋がっているらしく、クロスボウニンジャの石弓くんはどうにか馬を扱えるランクまで上がろうと必死だし、他のメンバーもバリスタンくんとの格差を埋めようと涙ぐましい努力をしていた。
『イレナちゃん。クロスボウの弦とか足りないでしょ?』
『馬上では扱えないけど、このヘビークロスボウとか楽しいぜ!』
『できれば、この防具を使ってから返してほしいでござる』
彼らは時折イレナちゃんに目をかけてもらうことを期待してアイテムをプレゼントしてくれる。中には珍しいものもあった。
『うわあ。ありがとうございます!』
イレナちゃんは彼らの期待に応えられるように「愛すべきイレナちゃん」を演じ続ける。
このループが延々と続く。
まさにウチはイレナちゃんを中心とするパーティなのである。みんな必死で微笑ましいなあ。パソコンの向こうにいるのはモサい男なのに。
◇
MMORPGであるココカには文字でのチャット機能が存在する。
主にユーザー同士の交流に用いられるわけだが、当然ながら文字だけでは「女性」を証明することができない。
ネカマという存在が広く知られているだけに、パーティのメンバーは自分の期待を裏切られることを恐れてか、時としてイレナちゃんに「女性」を求めることがあった。
『イレナちゃん、今日はもうお風呂に入ったでござる?』
石弓くんとのチャット。いささか変態じみている人なのであまりレスしたくないものの、パーティメンバーに返信しないのは変なので、仕方なく『今日は入らないです』と女性らしさのカケラもない返答を送る。
ここでシャンプーの銘柄とか出してしまうのはナンセンスである。せっかく調べたのだからと安易にコメントしてしまえば、逆に演技じみているとして警戒されてしまう。
ココカに入れ込んでいるプレーヤーなのだから、たまにはそういう日もある。そんな上手なリアリティで石弓くんの期待に応えてあげるのだ。
『えー。イレナ汁ほしいでござる』
うええ。なんなんだこの人。
さすがにキモいので『じゃあ入ってきますね』とログアウトさせてもらう。
今日は平日なのでパーティの集まりが良くない。そんな時はHDDに録りだめているアニメを消化するほうが賢明だ。
「たまには風呂にも入ろうかな……」
パソコンから離れようとしたところで「ペコン」とスカイプにメッセージが届いた。
差出人はエイプリルさん。
『ちょっとお話しませんか』
「わかりました。少しだけ待っててくださいね……っと」
彼は前から付き合いのあるパーティメンバーだ。
近ごろは忙しいらしくてゲームには参加していないけれど、こうしてスカイプでお話することはそれなりに多い。
なにせ、彼のようにゲームのチャットだけでなく声での会話を求めてくる人のために、わざわざボイスチェンジャーまで手に入れたのだ。当然ながらカメラありでは男だとバレてしまうので、パソコンにカメラは付いていないということにしてある。
ネカマとして彼らの期待を裏切らないために色々と工夫しているのだ。
「こんばんは。イレナさん元気?」
「とても元気ですよ。おかげさまで一キロ太りました」
とあるアニメのキャラクターをひたすらマネすることで習得した「イレナ話術」。ボイスチェンジャーがあるとはいえ、話し方でバレるかもしれないので注意しないといけない。
エイプリルさんとは半年前からスカイプで話すようになった。
元々文字のチャットでも話の面白い人だったのだけど、こうして声を交わすようになってからは、とても頭のキレる人だと知ることができた。彼との会話はいつでも楽しく、石弓くんのように自慢ばかりしてくる奴とは決定的に異なっている。
だから、俺はエイプリルさんとのスカイプを密かに楽しみにしていた。
「そういえば、そろそろバレンタインだよね」
「もう二月ですもんね」
二月。今年もたくさんの単位を落としてしまった。来年次第では五年生になってしまうかもしれない。
そんな陰鬱な気持ちが声に出てしまったのだろうか。
「イレナさん、元気ないんじゃない?」
「あっ……いえいえ。そんなことないですよ」
「そうだ。この前にこういう話があってね……」
エイプリルさんは気を利かせてか、アルバイトでの失敗談を聞かせてくれる。
やはり話が上手い。俺はすっかりのめり込んでしまう。
「ははは。そんなことってあるんですね。せっかくのクーポンなのに元のメニューより高くなっちゃうって」
「あの時はクーポン会社の方もこんがらがってたからなあ。とにかくバレンタインらしく女の子を呼べるようなクーポンにしたかったのに、ああなるんだから」
「バレンタインといえば……エイプリルさんはたくさんもらえるんでしょうね!」
ほんのりと拗ねたような感じにする。イレナちゃんはたまにこういう発言をするようにキャラ付けしてある。
するとエイプリルさんは「いやいや」と前置きして、
「そうでもないんだよ。去年も七つくらいだったし」
「十分じゃないですか!」
妙にリアルな数字だったので、ついつい本気で言ってしまう。
くそう。こっちなんて今まで一つももらったことがないのに。ホワイトデーにパーティの人からプレゼントをもらったことはあるけど。
「ははははは。十分なのかな。ところでイレナちゃんはくれたりするの?」
「へ? わたしですか?」
「うん。わりと稼いでいる方だから、ホワイトデーは楽しみにしてくれていいよ」
エイプリルさんはこちらにチョコという期待をかけてきた。
となると、応えずにはいられないのが俺の性分である。悲しいかな。まさか男なのに男にバレンタインチョコを贈ることになるなんて。
まあエイプリルさんならいいか……近所のスーパーで買ってこよう。
「わかりました。そのかわり、ホワイトデーはすんごいのをお願いしますね」
「やっぱり手作りなのかな?」
「もちろんですよ。お父さんにあげる分と合わせて作ります」
くそう。わざわざ手作りしないといけなくなった。
「へえ……楽しみだ」
「あんまり期待しないでくださいね」
「いやいや。イレナさんにもらえるだけでもうれしいよ」
エイプリルさんは「ありがとう」と言ってくれる。
うーん。もらえるだけでうれしいのならテキトーに作って「がんばったけど上手くいかなかった! テヘ!」みたいな感じでごまかしてしまおうか。
「料理はしない方ですけど、わたしなりにがんばらせてもらいますね」
「じゃあ、十四日の正午に。今年は休日だからありがたいよね」
「えっ……もしかして手渡すんですか?」
まさかのことに俺は卒倒しそうになる。
だって今まではそんなこと一切なかったからだ。そりゃリアルで会いたいって人もたくさんいたけれど、それは上手いこと断ってきた。
エイプリルさんにはそんなアプローチをかけられたことがなかったので、わりと安心していたのになあ。
「ダメかな。やっぱり郵送だと味気なくてさ」
「えーと……その……」
「そっか。だったらさ、駅前の花壇に置いててくれない?」
「エイプリルさんの近所にある、住道駅の花壇ですか」
あのあたりに住んでいるという話は聞いたことがあった。こっちは長瀬駅なので自転車で飛ばせば行けないことはない。
「うん。イレナさんが三十分前に来てくれたら、オレとは会わずに済むでしょ」
「なんだかお手数かけてすみません……」
本来なら手渡せばいいところをこちらの事情で曲げてしまい、俺はとても申し訳ない気持ちになる。
しかしエイプリルさんは「もらえるだけで十分だよ」と笑ってくれた。
これはもう本気でやるしかなさそうだ。
◇
かくして『男のための男によるチョコレート作り』は始まった。
わざわざ道具屋筋まで出向いて手に入れたハートのチョコレート型に、溶かしたチョイスマリーのチョコを流し入れる。ちなみに沸騰したお湯にそのままチョコレートを入れたら「超薄味のチョコ汁」になってしまったので、わざわざネットで溶かし方を調べるはめになった。
ところが、ただ溶かすだけではチョコに変なまだらが出来てしまう。
味付けが下手なのはキャラ作りとしてありだけど、さすがに見た目については手抜きだと見抜かれてしまいかねない。
またもネットで調べなおして、ぬるま湯を用いたテンパリングを行うことになる。
「お姉ちゃんがチョコを作ってたけど、あれも大変だったんだろうなあ」
ようやく三度目にしてバレンタインチョコは完成に至った。
あとはアルミホイルで包んで、ケーキの空き箱に入れておけばいいだろう。
メッセージカードには「イレナより」と丸っこい文字を書いておく。カクカクした書き方ではバレてしまうかもしれないので、これもネットで例文を探しまくった。
ここまで苦労したのだから、エイプリルさんには美味しく食べてもらいたいところだ。
ふと、ガラス戸に写っていた、チョコレートを持ってニヤける自分の姿を見て、俺は何とも言えない気分になった。
虚しいようなキモいような。
◇
二月十四日。バレンタインデー。
恋人たちが楽しそうに歩いている中をママチャリでかっ飛ばしていくのは俺である。
前かごにはチョコを入れて。
向かう先は「約束された住道駅」だ。
今回のクエストの目的は花壇にチョコを忍ばせておくこと。失敗を繰り返して一から手作りしたチョコはきれいなハート型をしている。
エイプリルさんが来る前に仕掛けておかないと「男だとバレない」というサブミッションをクリアできないので、出来るだけ急がないといけない。
こいで、こいで、こいで。
そんな具合で駅前に辿りつくと、中央にある人型のモニュメントが、一時間前だと教えてくれた。ありがとうモニュメントくん。少し早めについてしまったけど、時間に遅れて姿を見られるよりはマシだ。
「さてと。花壇といっても色々だな」
チャリにカギをかけて、どこにチョコを忍ばせようか考える。目立つところにあると他の人に持っていかれるかもしれない。かといって、変なところに隠すとエイプリルさんが探し出せないかもしれない。
しばらく悩んでいると、後ろの方から大人数の笑い声が聞こえてきた。
「マジかよ。どんなんだろうな」
「めっちゃ気になるわー」
みんな髪を染めていてガラが良くない。あまり関わりたくないタイプの人たちだ。このあたりはああいうのが多いのかな。
「さすがにまだ来てないか。とりあえず下見しとこうぜ」
「マジですげえ発想だよな。バレンタインにネカマを呼びつけるなんて」
「どんな奴が来るんだろうな!」
えっ。どういうこと。
もしかして、この人たちはイレナを探しているのか?
というか、イレナがネカマってことは……バレてたの?
平静を装いつつ、俺は駅の中に逃げ込む。
不良、八人いたけど、あの中にエイプリルさんがいるのだろうか。うーん。どいつもこいつもそんな風には見えない。
まさかこんなことになるなんてなあ。けっこうショックだ。
「あいつ、ちゃんと来るかな。まさか来ねえとか?」
「わりとお前に懐いてたんだろ、そいつって」
「まあな」
変なピアスをしている男がタバコを吸っている。
声でわかったけど、たぶんこいつがエイプリルさんだ。
あの楽しい話をしてくれるエイプリルさんとはちっともイメージが合わない。でもこの人なんだろう。
「くっせえオタクが出てくるのを楽しみにしてたのになあ」
そうか。そういう笑いのために今まで半年もスカイプしてたのか。マメな人だな。
そんな「期待」をしてくれているのならば、いっそこのまま話しかけてやってもいいかもしれない。
あるいはノコノコと花壇にチョコを忍ばせて、彼らに大きな笑いを作ってあげるのもいい。
バカにしたいのならば、バカにさせてあげるのも……いや。
そんなことをしても、自分が楽しいわけがない。
ああ……そうか。今まで俺は「期待に応えてあげている」つもりだったけど、それは自分の中でネカマをしている理由を作っていただけだったのかもしれないな。
結局のところ、女性を演じることでみんなに丁寧に扱われたかっただけ。
お姫様のようにチヤホヤしてもらいたかっただけ。
リアルではありえないからこそ「そっち」に特別扱いを求めたのだ。
ところがエイプリルさんは、こちらをチヤホヤどころか、くさい奴としてケラケラと笑おうとしている。そんなものに応えたくはない。
決めた。このまま待ちぼうけを喰らわせてやる。
せいぜいお友達をガッカリさせるがいい!
『それでいいんですか?』
「へ?」
なぜかボイスチェンジャーを使った時の自分の声が聞こえてくる。
周りには……誰もいない。どういうことなんだ。俺はいつのまにか二重人格にでもなっていたのか?
『あなたはイレナなんですよ。パーティの人をガッカリさせてはいけません』
もう一人の自分はたしなめるような口ぶりで話しかけてくる。
「でもエイプリルさんは俺をバカにしようと……」
『それはあの人が勘違いしているからです。イレナをくさいオタクだと。かわいいですよね。そんなことあるわけないのに』
「お前こそ、どうかしてるんじゃないか。俺がくさいオタクなのは事実じゃないか」
近くのガラスに目をやれば、ジャージのもっさい奴が立っている。
これが俺のリアルの姿のはずなんだ。
『今はそうかも。でもエイプリルさんの夢を壊してはいけません』
「いったい何をしろってんだよ」
『わたしの言うとおりにやってみましょう。まずはデパートにゴーですよ』
デパートといえば住道にはサンメイツがある。あそこなら何でも売っているだろう。それこそイレナのふりをするための――化粧品や服だってあるはずだ。
「ちょっと待て。なんで女装しないといけないんだよ!」
『あるべき姿に変身するだけですよ』
彼女はマジメにそう言ってのけた。
あるべき姿……そう考えてみると、たしかにリアルでの自分には何もない。むしろイレナとしての方が知り合いも多いくらいだ。
俺のあるべき姿とはイレナなのではないか?
いやでも……おかしい。そもそもなんでこんな変な思考が出てくるんだ。
「いやだ。絶対にいやだね!」
『もう正午まで一時間しかないんですよ。とりあえずデパートに入りましょうよ』
とりあえず……わかった。
とりあえずサンメイツに入ろう。別に何かをするわけではない。ただ入るだけなら大丈夫のはずだ。
そこから先はほとんど思考が働かなかった。
まるで未知の生き物に身体を操られているような――三年間のネカマ生活で得た「女性の知識」をそのまま本能で生かすかのごとく、デパートを走り回って、お金を払いまくった。
気づいた時には姉にそっくりの自分が立っていた。
ただし姉より背は低い。これは元々だ。
どうせ大学には行かないからと伸ばしっぱなしにしていた髪はきれいにまとめられて、つややかになびいている。
ヒゲはカミソリで剃られ、ナチュラルメイクと呼ばれるわりに手のかかる化粧を施してから、口元にマスクを被せる。
手には毛糸の手袋を。全体は女物のコートでごまかして、足回りは剃ってからストッキングでカバーする。
各所によくわからない香水をふりかけ、最後にマフラーで首元を隠してやれば『イレナの中の人』の完成となった。
『さあチョコを渡しましょう。あんなにがんばったんですから、きっと喜んでくれますよ』
あんなにがんばった……たしかに努力はした。
「わかった。そんでもってエイプリルさんを見返してやろう。でも声でバレないかな?」
『そのためのマスクじゃないですか』
彼女の言うままに、デパートから外に出る。
ストッキングなのでやたらと足元が冷たい。
こんなに寒いのに、しっかり正午まで待ってくれているんだから、エイプリルさんもマメな人だ。なんであんな勘違いをしてくれたのだろう。
「あの……エイプリルさん。これを……」
「えっ?」
変なピアスをしているエイプリルさんにバレンタインチョコを手渡す。
きちんと作法に則り、両手で差し出した。
背の高いエイプリルさんの表情をチラリと窺うと、彼はとても驚いているようだ。
「マジで、え、えっ」
「おいおい。ネカマじゃねーじゃん!」
ガラの良くない人たちがエイプリルさんを煽る。
「……さよならっ!」
俺はその隙に、彼とその仲間から全速力で逃げ出す。
幸いにして追いかけてきたりはしなかった。みんなでチョコの中身を確認しているのかな。
はたして、あの歪んだハートに込められたものを彼らは踏みにじることができるのだろうか。
くさいネカマの作ったものだと看過できるだろうか。
イレナの気持ちを無視することができるだろうか。
ママチャリに乗り込み、ペダルに足をかけたところで、ふと笑みがこぼれた。
「どうかしたんですか?」
『いやね。もうおかしくって。おかしすぎて笑えちゃうんだよ。だっておかしくないかい。イレナなんているはずないのに』
「おかしくなってるのはあなたですよ」
カーブミラーに写ったイレナの口元が、わずかに歪んだ。
◇
どうしてこうなった。
アパートの洗面所の鏡に映る自分の姿に、『俺』はつい泣いてしまいそうになった。
「なかなか似合ってるじゃないですか」
イレナは髪をまとめていたゴムを取り外しながら、パチンとウインクしてみせる。
あれから、まるで身体の自由が効かない。
デパートで衣服を揃えていた時もそうだったけれど、ほとんど本能のままに身体が動いてしまっている。
一応、マフラーやコートで首元が蒸れているのは『俺』にも伝わってくる。
しかしそれらを脱いでいるのは、もう一人の自分――イレナだ。
もうチョコのイベントは終わったはずなのに、いつまでこの状態が続くのか。
そもそも……どうしてこうなった。
「さてと。これからのために、ショッピングしないとですね」
彼女はパソコンの前に座る。
『おい。もうお金なんてないぞ』
「わかってますよ。だから今月分だけにしておきます」
イレナはショッピングサイトを立ち上げると、カタカタッと文字を打ち込んだ。
『エストロゲン……』
「いわゆる女性ホルモンです。ご存じですよね?」
もちろん知っている。それにより何が起きるのかもわかってしまう。
ポチポチと商品をカートに入れていく、その手をどうにか止めようとしてみたが、やはりどうにもならない。
『やめろ。やめてくれ!』
「どうしてですか。今のままではパーティメンバーにバレてしまうかもしれませんよ。イレナはもっと柔らかいほうがいいでしょ」
話をわかりやすくするためか、彼女は骨ばった四肢や首回りに手をやる。
たしかにイレナらしさは全く感じられない。
だけど、あれを始めてしまうと簡単には後戻りができなくなる。ホルモンバランスが崩れて常にダルい気分になることもあるという。ある一定のラインを越えてしまえば、子供だって作れなくなってしまう。
今のところそんな予定はないけど。
「すぐにはアマゾンも来ませんから、今のところは大豆で補っちゃいましょう」
彼女はその辺に転がっていた節分の余りを口にする。
おいしい。大豆のイソフラボンはエストロゲンの代わりになりうるそうで、男でもお肌がきれいになるとかテレビでやっていた。ただ、大豆の場合は食べ過ぎても大丈夫だけど、本物のエストロゲンとなると身体にも大きな影響が出てきてしまう。
『やめろ。本当にやめてくれ』
「やめないですよ……やめません。あなたはイレナなんですから」
イレナは両手を大きく広げてから「あなたが小さな身体に生まれてくれてよかったです」と笑みを浮かべる。
ペコン、とスカイプにメッセージが飛んできた。
エイプリルさんだ。
『さっきはありがとう。知人に呼び出されていたんだけど、まさか会えるとはね』
「ふふ。わかりやすくて、かわいくないですか?」
イレナはカタカタと返信を打ち込む。
すっぴんなので恥ずかしかったです――二人ともエンマ大王に舌を抜かれそうだ。
いや、この場合は抜かれてしまうのは『俺』になるのか?
だってイレナなんていないわけだから。
「大丈夫ですよ。エンマさまもわたしには手を出しません。だってこれからウソではなくなるんですから」
彼女は平然と言ってのけた。
当然ながら『俺』の声で。
「ああ……この喉もイレナらしくないかも。ネットで発声法をマスターしないと。でも喉仏は削りたいですね」
彼女は喉元に触れる。
そしてそのまま手を下にやり、
「あとは平たい胸ですけど、シリコン入れるよりは自然に大きくなるのを待ったほうが柔らかくていいはず」
『やめてくれ……』
「どうしてですか。きっとみんな喜んでくれますよ!」。
そうか……みんな喜んでくれるなら、それもありなのかもしれない。
なんて少しでも考えてしまったせいだろうか……突然『俺』の視界は真っ暗になってしまった。何も聞こえない。何もできない。まさか心の中に閉じ込められた?
どうしよう。これではイレナを止められない。
◇
それから二年の月日が経った。
もう一人の自分――イレナに主導権を奪われて、ネカマなのかオカマなのかよくわからないものになってしまった『俺』は、次第に思考すらままならなくなって、彼女が眠っている間にこっそりと記憶を辿るような存在に落ちぶれてしまった。
たぶん今の『俺』は最後に残された良心みたいな役割なのだろう。
しかしながら良心だけでは自分の身体を動かせないものだから、彼女が応えようとしている「期待」を止めることはできなかった。
彼女はネット上においてもリアルにおいても、あのエイプリルさんを含めたパーティの奴らの「期待」に応え続けた。
外見と内面で女性らしさを求められ、イレナがそれに応えるたびに色んなものが壊されていった。
「ふふふ。エイプリルさんったらお金持ちですね」
「そんなバカな。ギリギリのところを削っているんだよ」
「わたしのためにですか?」
すっかり衣替えされたアパートに、パーティの人を連れ込むこともしばしば。
こっちは年頃の娘を持ったような気分になるけれど、ただ記憶を辿るだけの存在には「コラ」と叱ることすらできなかった。
それこそ、映画館の座席でポップコーンを食べている客が、どれだけお金を積んだところでハリウッドで撮影し「終えた」スピルバーグに口出しできないかのように。
『やめてくれ、もうやめてくれ』
イレナは二年かけてイレナになっていた。
ココカの中で「誓いの指輪」を交わしたエイプリルさんの求める「最大級の期待」にも応えられるほどにイレナになってしまっていた。それどころか指輪を交わしていないバリスタンさんの期待にも応えている始末だった。
だから、大学の件で話し合いに来た母親により『俺』が救出された時には、もう人生において後戻りはできなくなっていた。
イレナが本来の姿となっていた時代が長かったせいで、肉体的にはほんのかけらも俺が残っていなかったのである。
母親はあまりの変貌ぶりに呆れかえっていた。
「あんた、どうしてこんなことに……」
「これがわたしのあるべき姿なんだから仕方ないですよ。あなたの息子はもういないんです。あきらめてください」
平然と口答えするイレナに対し、母親はポロリと涙を落とす。
「あんな。私はあんたがちゃんとした大人になってくれるように「期待」して送り出したんよ。それが、こんなにおかしくなっちゃってさぁ……」
「えっ」
その「期待」にイレナの存在は崩れ去った。
なぜなら、彼女はその「期待」に絶対に応えられないからだ。
おかげで俺は表に出られたわけだけど、やはり元通りというわけにはいかなかった。
どこからどうみてもイレナ――こんな状態ではまともな働き口が見つかるはずもなく、大学中退もあって、俺は社会のレールから外れてしまった。
さらに世間の目もあるので家から出してもらえず……ただただ実家の一室でボーッとするような日々が続くことになった。
もうネトゲは怖くてできなかった。
好きだったアニメも楽しいとは思えなくなり、エロゲの類も用を足せなくなったので処分するしかなかった。
それが終わると、やはりボーッとするしかない。
ただ――たまに姉が帰ってくると、それを物陰からこっそり覗いたりする。
何から何までイレナそっくりな姉の姿。社会人らしくスーツが決まっている。立ち振る舞いから身体つきまで本当にそっくりだ。
俺はなぜ、ああなれなかったんだろう。
どうして家族の期待には応えられなかったのだろう。
『いっそ殺しちゃって、あなたがお姉さんに成り代わるのはどうですか?』
「やめろ。もう出てこないでくれ」
またあの声がささやいてくる。
心の中に生まれたバケモノ。
『どうせ今のままでは何もできないんですから、やっちゃいましょうよ』
「いやだ。もうお前の口車には乗らない!」
『…………』
どうにか抑えつけられた。
いなくなったはずなのにまた出てくるなんて。もう自分はダメなのかもしれない。いっそ姉に手をかけてしまうまえに死んだほうが……。
「やっほ。元気にしてる?」
「あ、お姉ちゃん」
姉はいつのまにかリビングからこちらに来ていた。
やはり身長以外はそっくりだ。おへそまでそっくりなのだからイレナの執心ぶりには恐れいる。そこまでイレナ、というより姉のようになりたかったのか。
「あんたもリビングでてっちりを食べたらいいのに」
「いや。なんか俺がいると良くない空気になるから」
「そんなことないとは、さすがに言えないけどさ。でもあれだよ?」
姉はおもむろに抱きしめてくる。
女性らしい匂い。ちょっとだけ酒くさい。
「姉ちゃん?」
「あたしは、まだあんたに期待してるんだからね。がんばりなよ」
姉は「女の子になりたかったのなら、それでもいいんだから」と言ってくる。彼女もイレナのことは知らされているのだ。
「いや、別にそんなつもりはなかったんだよ」
「だとしても、あんたはあんたがなりたいようになってね。あたしはこうやってバリバリやるしかなかったから、あんたにはがんばってほしいんだ」
彼女に背中をポンポンと叩かれる。
今の俺のなりたいもの……これといって頭には浮かんでこないな。
いつも他人の期待に応えようとしてきたわけだから、自分のために何かをしようなんて考えたこともなかった。
「やっぱり、人のために役に立てる人になりたいのかなあ……」
「へえ、いい夢じゃない。すごく立派!」
彼女はそう言ってから「お鍋。おいしいからおいで」とリビングに戻っていった。
本当にいい夢なのかな。本当にそれでいいのかな。
リビングからはフグと旭ポン酢の匂いがしたけれど――俺は自分の部屋に入り、ふとパソコンの前に座り、何気なくスカイプをつけてみる。
オンライン状態になったのをみてか、ペコンとメッセージが飛んできた。
『久しぶり。元気?』
エイプリルさんからのメッセージ。
たぶん「元気ですよ」と答えることを望まれている。
でも、そう答えたところで何かが変わるのだろうか。彼の射幸心を満たして、こっちに何のメリットがあるのか。
『またチヤホヤしてもらえますよ。人のために役に立てますよ!』
心の中でイレナが話しかけてくる。
だから、チヤホヤされたところで何になるのか知りたいんだよ。
だいたいゲームのアイテムだって、リアルのチョコだって、もらってうれしい、もらうことができてうれしい、それ以外に何があるんだ。
この世に、人に認められる以外のモノサシはないのかよ!
「ないですよ」
彼女はゆっくりと立ち上がった。
そしてスカイプを「ペコン」と切る。
「少なくともあなたにはないです。だけど、わたしにはやりたいことや、なりたいものがたくさんあるんですよ……だから、もうあきらめてくださいね」
ガラス戸に写ったイレナの口元が引きつる。
あきらめる――これから彼女が何をやろうとしているのか、どんな悲惨な結末を迎えようとしているのか、はっきりとわかってしまうのに、なぜか彼女を止めようという気は起きなかった。
どうしてだろう……ああそうか。
やっとわかった。
これが、この姿が、今までもこれからも、ずっと『俺』のやりたいことだったんだ。




