ちょっとした修羅場と問題への決意
ミーンミーンミーンジジジジジツクツクボーシッツクツクボーシッ。
なんとなく蝉のモノマネをしてみたが、とんでもない虚無感と虚脱感が同時に襲ってきたので急遽中断の形をとる。夏に蝉のモノマネは自殺行為だ、と心のメモ帳に記載しておこう。
さて、現在午後の七時半。濁流のように流れ去った昼の買い物から随分時間が経ったようだが、その間は早弥の親父を説得して宿泊という形の保護をしたり、ヤクザじみた大阪弁のクズ男に一足先に里帰りしてもらったりと色々忙しかったのだ。
その間維月とは会話を挟む暇も与えられなかったので、ようやく今腰を落ち着けて面と向かって話をしているわけである。神妙な顔つきの維月が非常に異常なくらい怖い。
そういえば俺が偽彼氏宣言をしてからの相崎だが、事情が呑み込めていないためか疑問符を少々と怯えを多分にトッピングした表情で見送ってくれた。今回も直接ではなく、微妙な感じで俺の周囲のいざこざに巻き込まれてきたなあいつ。
まあそんなことはいい。とにかく、今は目の前の問題を消化せねば。
浅田家二階、維月の部屋。そこで俺は維月と机を挟んで向き合っていた。こんな修羅場に仲人として仕事を果たす机はすごいなーとか現実逃避をしながら、俺は正面から見据えてくる維月をみつめる。
顔は真剣そのものなのだが、可愛らしいパジャマを着ている所為でイマイチ迫力が少ない。とはいえ、冗談の一つでも言えば長刀で首を刎ねられそうな空気なので軽い口にはチャックだ。
ちなみに早弥は維月のベッドに座って事の成り行きを見守っている。
クズ男に胸倉を掴み上げられたときの様な恐怖の色はないが、かといって完璧にいつものテンションでもないようだった。つい先ほどまで恐怖の対象が近くにいたこともあり、まだ少し心臓の動悸が治まっていないようだった。表情もひびの入ったガラスのような脆いものである。
ふぅ、状況整理でもして心を落ちつけようと努力したはいいものの、逆に緊張で冷や汗が出てきた。
トイレ行きたい。
「ねえ」
「はい」
維月の低い声。綺麗だが、よく澄んで透る分、今の俺には深く突き刺さる。
「嘘なの?」
「嘘なの」
本当に嘘だ。ややややこしいが、って今言ったことも舌噛みそうなことだな。じゃなくて、俺は真摯に返事したつもりが冗談めかした物言いになってしまった。
ちなみに何が嘘かと言うと、維月が言いたいのは要するに俺と早弥の関係についてだろう。
スーパーでの囁きはちゃんと聞こえていたのだと、俺は少し安堵する。
「どうして嘘吐いたの」
「そりゃ、あのままだったら早弥が実家に連れ戻されそうだったからだよ」
それが何を意味するか、早弥から話を聞いてるっぽいお前ならわかるだろ? そんな視線を投げかけて様子を見る。もしも事情を知らなくても、早弥自身にこの場で話してもらえばいいだけだ。
「……従妹って、結婚できるんだよね」
「……間違いではないが、誤解はするなよ」
こいつ何を思って今の発言をしたんだ。まさか俺と早弥が付き合っていると本気で思っているのか?
従妹は従妹だ。俺個人としては、失礼な言い方になるが対象外。そもそも、俺の対象はいつだって維月一人だったんだ。他の女性全般に言えることでもある。
「あと、早弥ちゃんのことはずっと知ってたの?」
「仮にも従妹だしな。知った上で行動もしたつもりだ」
その言い方だと、維月も早弥の状況には理解があるらしい。まあ、そりゃそうか。
晃さんの話では、風呂に入った時維月に痣を見られているんだし、早弥もその時あたりに話しているんだろう。あと機会があるとすれば、昨日の深夜とか。
「だって早弥ちゃん、私の言った通り」
「うーむぅ、君の観察眼を甘く見てたわ。傷とか完璧に隠せてる思たんやけどなあ」
「家の内情しってりゃ多少予測がつく」
「あらま、見くびってたな」
早弥が顎に手を当てて考えるポーズをとる。早弥の弁は別に俺への過小評価ではなく、晃さんと会話さえしなければ気づいていなかったで全てをまとめることも出来たんだよな、と考えてしまう自分がいるのだ。おそらく、コイツは俺のそういう部分まで計算に入れて予測してたんだろうな。
だから見くびられていたわけでも、甘く見られていたわけでもない。
「この際だから全部話してくれ。まだ腑に落ちない部分もあるんだ」
「ええよー、君が維月ちゃんとの話を無事に終えれたらお話したげるわ」
物騒なこと言うのは止めてくれ。俺の心臓に悪影響がありすぎて前途恐恐すぎる。
維月をみつめると、やたら冷たい視線が俺を貫いていた。まじでもうグングニルかと思うくらい。
「あんた、早弥ちゃんには気がないの?」
「ない、お前の彼氏なんだから当たり前だろ」
本人を前にしてここまできっぱり言い切るのは失礼かとも思ったが、ここで嘘はつけない。
「そう、ねえ早弥ちゃん。ちょっといい?」
「ん? なんやー?」
「色々悪いんだけど、ちょっと部屋から出てもらってもいい?」
おぞましい予感。
「お? おう、ええでー」
「ごめんね」
「かまへんよー。それから君にはご愁傷様?」
「この時のためにジャンピング土下座スライディングでも練習しておけばよかった……」
俺は切実に思ったことを口にしながら、早弥が扉を閉める音を遠く聞いていた。床を踏む音が聞こえるから、階下へでも下りたらしい。
さあ、現実逃避もする暇がない。
二人きりになって、維月の視線を真っ向から受け止める。
今からお前を刺す、とか言ってバタフライナイフを取り出されても何ら不思議ではない表情、そしてそれについて文句は言えない状況。
何せ、嘘とはいえ俺は二度、維月を裏切っているわけだから。
そろそろ殺されてもいい頃かもしれない、とか悟ったことを思ってしまうわけである。
「維月」
「……電気、消してくれる?」
ヤダ、コワイ。
わざわざ溜めて言ったあたり、気迫と殺気を感じるんだが。
遠回しな強制に体を動かさないわけにもいかず、俺は維月の所望通りに照明を落とす。
普通のカップルなら、照明を落とすということに少なからずいやらしい事柄を思い浮かべそうなものを、今の俺はむしろ身の危険しか感じていない。この違いはどういうことだ。
消灯により、維月の部屋全体が深い深い藍色に包まれる。維月の顔があるのはわかるが、どんな表情をしているかが見えづらい。というより見えないな。
これはいよいよ、覚悟を決める時でしょうか。
そう思った直後、俺は胸付近に何かが飛び込んできたのを感じ、甘んじてそれを受け入れた。
続いて頬から脳へ響く衝撃。熱、痛み。
平手を喰らったらしい。
「馬鹿」と言われた。あのときみたいに。しかし今回は自前の口で。
「ごめん」と謝った。罪悪感のやり場に困っていたから、回収してもらうのだ。
胸に飛来したのは心臓部まで突き刺さるナイフや、一瞬で意識を奪ってしまうスタンガンなんかじゃなかった。腕に抱くと、柔らかい感触とその小ささに驚かされる。
小刻みに震え、あぁ、泣いてるんだな、とか冷静に判断する。
維月が、俺の胸で泣いている。ロマンチックなようだが、泣かせたのは俺だ。これも言い方によってはロマンチックだが、正真正銘悪人なのは俺なのだ。
小学四年生くらいの頃だったか、俺と維月がこの部屋で遊んでいた時のことを思い出す。
あの時は雷で停電してしまい、今みたいに暗闇の中で抱き合ったのだ。まあ維月が一方的に泣きついてきただけだが、それを俺も抱擁し返したので抱き合ったで間違いない。さり気なくなんて言葉の入る余地のない、大っぴらな惚気話だ。
「私、一瞬すごく不安になって、怖かったんだから……っ!」
「ごめん、ごめんな」
維月の声がかすれて、若干湿り気を帯びているようだ。そうさせているのが俺なのだから、ひたすらに謝るしか言葉の選択肢がない。
俺は維月の背中に腕を回し、出来るだけ圧迫しないように力加減をしながら抱きしめる。
女性って全員が全員こんなにやわらかいもんなのかねぇ。柔らかすぎて潰してしまわないか、ふと心配になる時がたまにある。生まれて間もない子猫を抱いて、手のひらに乗せた時のような不安感が急激に俺を侵食していく。
「嘘だってわかってても、あんたが他の女の子の彼氏だって言ってるのは、すごく、つらかった」
俺も、維月がそんなことを言ったら発狂するだろうな。
その気持ちを考えた上で、俺は早弥の保護を優先したわけなんだな。
「もっと強く抱きしめて」
要望があったので、少しだけ力を加えてみる。ああ不安。
「痛くないか」
「平気」
大丈夫そうなので、安心する。
思えば、ここまで強く抱き合ったことはないかもしれない。
心臓の鼓動を胸の左右両方から感じ、耳をくすぐる息遣いで顔全体が火照る。
気恥かしさがピークに達したので、なんてことはない疑問を訊ねてみる。
「なあ、電気消したのはなんでだ」
「聞くな馬鹿ぁ……」
維月の小さい拳が俺の胸を叩く。ノックされる扉の気分ってこんな感じなのかね。
そんなことを考えながら、俺はああそうか、と納得していた。
維月の震える声で、腕で。
こいつ、昔っから強情っぱりなところがあるからな。気持ちはわからんでもない。
でも、今更って気もするよな。
泣いてるところ見られたくないとか。
何回も見てきたって、そんくらい。
「なんであの時、自分のこと早弥ちゃんの従妹だって言わなかったの」
あぁ、そのことか。俺も一瞬考えたんだけどな。
「おふくろが帰ってきたとき、万が一にも早弥の親父といざこざあったなんて耳に入らないようにするためだ。お前、俺の母親の性格知ってるだろ?」
「……そういうことね」
維月が胸の中で頭をこすりつけてくる。同時にこすれる軽い髪の毛がくすぐったく、かゆい。
納得してもらえたようで何よりだ。まあ、世間一般で言われるところの過保護、をまた一歩踏み出したあの性格じゃあな、俺の気苦労も分かってくれるだろう。
暴力で有名なクズ男と接触があったとおふくろの耳に入れば一巻の終わり、仕事にまで一緒に連れて行かれるようになり、ここでの生活さえ危うくなるからな。冗談抜きで。
外国なんてまっぴらごめんだぜ。ノット ガイコクだぜ。外国って英単語あんの?
「もうこれからはあんなこと絶対に言わないでね」
「あぁ、そうならないことを祈るばかりだ」
「祈るんじゃなくて、そうならないように動くの」
「おう、実質的で素晴らしい意見だな」
大分機嫌を直してくれたみたいだ。
俺は維月の背中にまわしていた手を頭部にやって、頭を撫でてみる。絹でも撫でているのかと錯覚するほど滑らかで、触り心地満点。指で梳いてみると容易く一本一本に分かれていった。
俺の毛はゴワゴワしてて硬質だからな、くせ毛ではないが非常によろしくない触感なのだ。
維月の頭に触れると、人間ではなく猫の小顔でも撫でている気になる。暗がりで維月が見えにくいため、余計にそういう錯覚がしてしまう。
それからしばらくは、ずっと抱き合ってお互いのことを確認し合っていた。早弥がいつものごとく「まだー?」とか言ってムードをぶち壊しにしてくることがないか気兼ねしていたが、さすがにそこまで空気の読めない奴でもないようで、無言で暗い中抱き合うことができた。
あともう一つ懸念していることがあるのだが、この際どうでもいいか。
冷静を装っているつもりだが心音バクバクなんて、すでに維月には伝わっているだろうし。
♡ ♥ ♡ ♥ ♡ ♥
「これで君も非童貞なんやな。バッドチェリーボーイなんやな」
下の階に下りると、早弥が思い悩む母親像さながらの様子でわけのわからない発言をしてきた。バッドチェリーボーイってなんだ、と興味の赴くまま訊ねてみたい気もしたが、多分誤解されているっぽいので面倒なことになる前に濡れ衣は晴らしておこう。
「お前の想像してるようなことはしてないからな」
「ハッ! しかもそれやったら維月ちゃんもこのケダモノに貞操を……」
「やかましい黙れ、なんで俺はこんな奴を庇ってるんだ」
いつものテンションに復帰してしまった早弥を見て、最早後悔しか湧いてこない。疲れさせられるというより、呆れる。
そんな俺の憔悴した顔を察してくれたのか、早弥がやや真面目な顔になった。
「おとんのこと、ありがとうな。あそこで君が無理してでもああ言ってくれへんかったら、ホンマに実家連れ戻されてたと思うわ」
俺の眼を直視しないで、顔を俯ける。左手で右手を抱くようにしながら、バツの悪そうな態度だ。
自分の父親の件になると、早弥はいつだって暗くなる。おぼろげだが昔遊んだ記憶の中に、こいつのこんな様子ものこっている。
でもやっぱり何かがかみ合わないんだよな。あの時とはまた違った、この表情。どこに違和感を覚えているんだろう。何が違うんだろう。
「それからそれ、面白うて直視できひんわ」
堪えるような表情は、あっさりと決壊した。俺はその意味がわからず、早弥を訝しむ。
隣の維月に解説を頼もうと首を巡らすと、眼が合った瞬間に眼をそらされた。うわ、なんだよと傷つくが、同時に維月の苦笑と目が泳ぐその様子にますます疑問が募る。
「それ」
早弥が指をさしてきた。人差し指は俺に向いているが、微妙にずれている。差している場所を推測するに、俺の頬部分、に……。
思い当たる節があったので、早弥の笑っている理由がようやくわかった。
「笑うな、コレも元はお前の所為だぞ」
「わ、わかってるけど、アハ、アハハっ!」
もう我慢することも出来ないらしく、早弥は高い声で笑いを弾けさせた。そんなに可笑しいかよ。
僅かな羞恥心から俺の手は頬をさする。微かに残る痛みとともに、いつもとは違う感触があった。
「ごめん、強くひっぱたきすぎた、かも」
維月が声を押さえながら後ろめたそうに目線を泳がせる。
先ほど維月に平手打ちをされた俺の頬は、早弥を笑わせるほどに腫れてしまっていたらしい。不細工に加工された俺の顔は、早弥のツボにクリティカルヒットした。
コイツ、人の苦労をなんだと思ってんだ。
「だって、普通そんな腫れるか? 維月ちゃん、強うやりすぎ、ヒヒッ」
「う、うん、ごめん、ごめんね」
「いいんだよ、笑い過ぎで奇声発してるコイツが元凶なんだから」
涙まで流して笑いやがる。今もぼろぼろこぼしながら指先で拭いているが……、笑い過ぎでも普通こんなに涙出るか?
俺がそう思ったのも一瞬、次に聞く早弥の声は震えて、泣いているようだった。
「あーアカンてぇ。その顔は反則、にらめっこで使われたら勝てる気がしいひん。ちょ、写真撮ってもええ? ほんで友達にメール送ったんねん」
鼻水も出てきて、いよいよ本格的に泣き顔じみてきた。
「おい」どうしたんだよ、と訊ねる前に早弥が言葉を重ねてくる。
「人を笑わせる才能あるでお二人さん。ウチこんなに笑ったん久しぶりや、笑いにうるさいっちゅうて有名な関西圏の人間こんなに笑かせるんやからよっぽどやで」
指先だけでは足りず、腕で目をこすっている。こいつ、今本当に泣いてる、よな。
維月を窺うと、驚いたような表情になっていた。この様子だと、泣いているに一票入れた方がいいよな。でも、なんでこんな急に。
早弥は喋り続けていた。何回か同じ言葉を連発しながら、必死に抵抗するように笑い続ける。
次から次からとめどなく溢れてくる涙は頬と腕、それから床を濡らし、鼻水が口に入っていって早弥が苦しそうにむせる。それでも笑うのだ。
「おい早弥」
俺が声をかけると、早弥の笑いは脆く崩れ去り、途端に泣き顔へと変貌してしまった。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
泣き叫びながら、俺に突進してくる。
構えていなかった俺は早弥の突然の突撃で後ろに倒れてしまい、思い切り背中を打ち付けた。直後呼吸困難に陥り、言葉がまともに出てこなくなる。天井白いなー、と意識が飛びかけた。
床に倒れたままではのしかかってくる早弥で苦しいので、無理やり上体を起こす。
早弥は俺の胸に顔をうずめて、服を湿らせていた。
わけがわからず、しかし恐る恐る維月を振り返ると絶句していた。それもそうか、俺自身そういう状態なんだからな。
「ごめん、ごめんな! でも今だけ許してっ! ウチ、もうホンマにアカンねん、駄目やねん! せやからほんのちょっとだけ泣かせて! 許して、ごめん! ごめんっ!」
早口に並べたてながら、俺の胸倉を掴みながら顔をうずめて泣きじゃくる早弥。
維月は無言で俺の横に座り、そっと俺の手を握ってきただけだった。大声を出して非難してきたり、俺や早弥を蹴り飛ばすといったバイオレンスな対応はしない。
男ならここで早弥を抱きしめ返すべきなんだろうが、俺にはどうすることもできなかった。横に維月がいるということもあるが、何より頭が真っ白でそこまで気が回らないのだ。気丈で強く、芯の太いという印象を与える早弥が、脆く泣きじゃくっている。
その現実に、俺は頭の中を白紙にされる。
どれほど、
どれほどコイツは追い込まれていたんだろう。
一人で抱えて、無理に明るくふるまって、決壊を防いで。
あぁ、辛かったよなぁ。
独りって、心細くて今にも消え入りそうだもんなぁ。
お前友達に相談できなかったのか。それで俺のところまで来たのか。
重苦しい地響きのような嗚咽の中で、俺の胸には湿り気がどんどん広がっていく。それはお世辞にも気持ちのいいものとは言えず、むしろ不快にすら感じるくらいのものだったが、早弥の感じていた圧迫感や不快感といったものの具現だと思えば、納得のいくものだった。
アイツがやったのか。あの、クズ男が。
鼓膜を微笑に振るわせる早弥の声を聞きながら、俺は怒りが沸々と込み上げるのを感じる。怒りだけじゃない。早弥を今すぐ助けてやれない自分の不甲斐無さに嘆き、どうすればいいのか途方にくれて困惑し、あまりの選択肢のなさに笑いすらこぼれる。
そうか、お前はもう、どうしようもなかったんだな。
帰れって言って、ごめんな。
「早弥」
どうすればいいのかなんてわからない。でも、どうにかしないといけない。
「もう安心しろ」
無責任に言うなんて、これほど不謹慎なことはないと思うだろ?
でもな、
「俺が助けてやるから、安心しろ」
未だ小刻みに震えながら俺の服に新たな模様を追加する従妹に声をかける。これこそ無責任だし、助けるなんてお門違いの言葉かもしれないが、これしか出てこなかった。
早弥がゆっくりと顔を離す。鼻頭が真っ赤で、目も軽く腫れていた。
「ホ、ホンマ?」
「あぁ本当だ」
お前が助けを望むなら、いくらでもやってやる。
激しい運動をしたわけでもないのに息切れをしている早弥は、さらさらと流れてくる鼻水でまたむせていた。苦しいなら喋らなくていいのに。
「ウチ、助けてほしい、助けて、もう嫌やから、助けて……っ!」
早弥が自分の本心を打ち明けてくれた。
その様子に、俺は以前の騒動のとき維月がくれた単純な細工の施されたメールを思い出す。
本当の気持ちを伝えるのって、大事ですよね。
なかなか伝わらないし、伝えようとも思えないものだけど。
でも伝わってくると、そのエネルギーってとてつもないですよね。
俺は早弥と向き合い、言葉の持つ力の絶大さに感心しながら言いきった。
「絶対助けるから、覚悟しとけよ!」
さあこれから忙しくなるぞ。
でも、俺の気分が一向に落ち込む様子は見せない。
ふと後ろを振り返ると、維月も頷いてくれていた。
よぅし、やるか! って心の中で言ってみる。一人気分が良くなるだけだった。
♡ ♥ ♡ ♥ ♡ ♥
前から常々思っていたが、俺が夢を見るとよく現れるアイツはなんなんだろう。いつもいつもシュールな感じで登場するが、今回の場合も例外ではなかった。
夢。
見渡す限り砂ばかりで、今日は公園じゃないのかと思っていたら遠くの、遥か遠くの方にシャングルジムっぽいものが見えた。多分この砂は砂場のもので、今見ているこの夢での砂場が異常な広さを誇っているのだろう。そして遊具の中なのでベンチも見つからない。俺は大人しく地べたに座っていた。
ちなみにソイツは立っても座っても寝転がっても浮いてもいない。埋まっていた。
更に奇妙なことに、下半身だけが露出しているのだ。首だけ出ているというのなら足で砂掛けするなどの嫌がらせが出来るが、下半身だけなら股間に踵落としくらいしかできない。
今日はなんでこんなに砂場が広いんだ。
『さあな、夢に関することなんて知ったことか』
ふぅん、じゃあなんで埋まってる?
『知るか、俺が訊ねたいくらいだ』
不憫な格好してるぜ今。
『だろうな、今お前から股間に踵落としでも喰らうんじゃないかって冷や汗が出てるくらいだ』
そういえば思考は筒抜けなんだったな。
『その通りだ。だからお前がやろうとしてもこっちにはわかってしまうわけだからして止めとけよ』
意味わかんねぇよ、とりあえずフリとして受け取っておけばいいか?
『お前はいつから芸人になったんだ。そういうどうでもいいことをしようとするな』
まあなんでもいいか、ところで今回なぜ俺はこの夢に?
『だからしらねぇよそんなの。なんで来るんだ』
俺がこの夢を見る時の基本は、俺が適度におかしくなっている時だ。
『あぁ、自殺止められた日とか彼女に振られた日とかカップルの倦怠期とかか』
まあそうだな、今日も多分従妹のことで少々バグってる。
『昂ってるって言った方が正しいだろ』
間違いじゃねぇわな。同時に不安とか色々あるからここに来てるんだろ。
『来るんじゃねぇよ、何を得てるんだいつもいつも』
基本何も得てないな。起きたらどうせ記憶も曖昧だし。
『なおさら来んなよ』
夢は見ちまうもんだから仕方ねぇだろ、俺だって来たくねぇよ。
『で、今は何が不安なんだよ』
ん? あぁ、実は従妹のことでな、啖呵切ったはいいが、どうしようかって思ってな。
『どうにかしろよそんなこと』
やるさ、でも具体的な作戦がないから不安だっつってるの。
『そんなことなら見栄張ってんじゃねぇ馬鹿野郎』
最後の違和感だけが残ってるんだから仕方ねぇだろボケナス。
『語彙力のない子供のやり取りみたいだな……、とにかくアドバイスは出来ん』
誰もそんなの求めてねえから。
『フン、何も思いつかない癖にか』
だから一々心を読んでくるなって。
『知ってるものは仕方ない、不可抗力だ』
にしても俺が抱えるこの違和感の正体は何なんだろうな。
『微かに哲学っぽい香りがするな』
それを言い出せばこの夢も似た感じだがな。
『この夢はお前の心理描写みたいなもんじゃないのか?』
かもな、夢ってそんなもんだし。
『そうだな、まあ何にせよ違和感の正体を探る時の基本は、何処に違和感を覚えたか、だぞ』
あー、どこだろう。漠然としすぎててわからん。
『まずはそこからだな』
ふぅん、案外参考になる時もあるんだな。
『気分と運次第だな』
ハッ! まあなんだっていいさ、とにかくそろそろ夢から覚めたい。
『さっさと消えろ』
うるせぇよどうしたら覚める。
『……このまま一生覚めなければいいのに、と思ったがお前と永遠ここにいるのは嫌だな』
猛烈に同意だ。
それを最後に、砂場に座っていたはずが急に真っ暗な空間になる。
誰もいない、何も見えない、聞こえない、感じない、におわない、分からない。
そんな中で、俺は夢から覚めていった。