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深夜


 起きてからしばらくは無言だった。周りがまだ暗く、無音だというのが声を発するのを押しとどめる。枕元に置いていた携帯電話で時刻を確認すると、午前一時だった。

 俺はまだまだ寝れるじゃねぇか、と起き出した自分自身に愚痴をこぼしたが、どうして目が覚めたかを知ることになる。耳元のか細く、しかしうざったらしい音で。

 その元凶たるものの名前を、俺は無音の世界にぼそりとつぶやいた。

「蚊、だよな……」

 この音を聞くと絶対げんなりするんだよな。しかも夏だから暑い。熱で体力を奪われているというのに、蚊のやつまで現れると就寝どころではない。ふと気になって確認してみると、晃さんは何事もないかのように寝ている。俺に背を向ける形だ。

 この人は普段から体温が低いとか言ってるな。だからか、蚊は体温の高い俺の方にばかり群がるようだ。むかつく、この羽音は人間の神経を逆なでする為に存在しているとしか思えない。しかも、なぜいちいち耳元にくるんだよ。安眠妨害だ。

 俺は払いのけるようにして手を動かす。電気を点けようかと思ったが、晃さんが隣で寝ていることを考慮してやめることにした。しかし退治のしようがない。

 俺は不承不承に立ち上がる。起きたところなので、立とうとすると少しふらついた。

 そして右腕を水平に差し出す。そのまま、待機。

 いくら暗闇と言えど、蚊がとまればさすがにわかる。だからこの姿勢で蚊が腕にくらいついてきたところを、パシンッ……だ。俺ってば頭いい。

 自画自賛しながら、腕全体を注意深く眺めた。

 ……。…………。………………。

 待ったはいいが、なかなかとまってこない。

 待機中暇なので、俺は眠たい思考を無理やり蹴り起こして考えることにした。早弥のことだ。

 解決にまでは繋がらないが、親から逃げる手立てならいくつか思いつく。しかし、それでは意味がない。この件はどうにかして解決に導かないと、早弥の精神、肉体共に限界が訪れる。もうすでに限界近くまで来たから、逃げ出して俺のところに来たんだろうしな。

 しかし何か引っかかる。クズ男の暴力に耐えきれなくなってやって来た? 辻褄は合うが、なんだか違和感を覚えるような理由だ。虐待なら小学生の時点でかなり追い込まれるだろうし、中学生に上がるころは多感な年ごろだ。わざわざ高校生になるまで待っている必要はない。

 どこかに閉じ込められていた、と考えるならまだ理解の余地もあるが、それでは小奇麗なあいつの格好や俺のところまで来れる交通費に異議ありだ。

 何も見えてこない。あいつの現状も、俺の眼の前も、蚊も。

 大体、あいつは親と喧嘩したと言っていた。その言葉を信じるなら、虐待されているというのにも疑問が生じる。虐待を受けているなら反抗の意思など、とっくの昔にズタズタにされているはずだ。

 わからない。わからないことが一つでもあると、解答を導き出すことは至難の業となる。それはちょうど、ジグソーパズルでピースが足りないがために、絵柄を特定できないことに似ている。数学に喩えてみてもいいだろう。

 俺は右腕を下ろす。いつの間にか血を吸われていたらしく、俺は少し腫れあがった首筋を掻いた。

 これ以上粘るのも面倒臭いので、俺は外の空気を吸うことにした。血を吸う奴と同じ部屋にいられるか、俺は外に出る!

 部屋内の蚊に晃さんを捧げる形で、俺は扉を閉めた。廊下に出ると、下へと続く階段が目に入る。

 痒みを訴える首筋を引き裂かんばかりにかきむしり、階段へ向かう。その途中、維月の部屋から何やらぼそぼそと話す声が聞こえた。あいつら、まだ起きてたのか。

 しかしまあ、なんだ。俺が「まだ起きてるのかー」とか言って扉を開け放した瞬間、昨日の二の舞になりそうな気がしたのでやめておこう。テンションの高い声ではなかったが、本能的野性的勘が働いて自然に体が階段に向かう。

 浅田家の階段は螺旋構造になっている。だからだろう、俺が階下に明かりがともっていることに気付いたのは階段を下りている途中だった。

 萌さん、だろうな。これで晃さんが出てきたら、俺は見ず知らずの男性と寝ていたことになる。考えるだけでも恐ろしいので思考はそこで打ち切り、リビングに入った。

「あれ、ずっと起きてたの?」

 案の定いらっしゃった萌さんは、アイスココアをすすりながら俺に笑顔を向けてきた。維月の嬉しそうな顔に似ているため、親子ともども少しドキドキさせられる。

「いえ、目が覚めたんです」

「蚊でもいたのかな?」

「その通りですね」

 ここの家の大人はどうしてこんなに勘が鋭いんだろう。俺が鈍いだけか?

 萌さんは笑顔で「蚊取り線香でもつけようかしら」と、寝室の空気を汚染する気満々の発言をしながらココアをすする。水色がかったキャミソールに、ジーパンを切り取ったようなホットパンツといった姿だ。四十代の格好ではないと思ったが、似合ってしまっているのがどうとも言えない。

「維月たちもまだ起きてますよね」

「そうみたいね。あの子に女友達ができて嬉しいわ」

「すいません」

 俺の口からは実に自然な謝罪が飛び出した。言った後で少し失言かと危惧したが、事実なので訂正はしない。いや、できない。

 維月には女友達がいないと言っても過言ではない。それの原因は俺で、いつも一緒に行動しているために近付きがたい雰囲気を醸し出しているのだ。そのため、維月にとって友達と呼べるのは俺と関わりのある朝川くらいのものだ。相崎とは面識がない気がする。

 自分の所為だと自覚しているために、謝罪が飛び出してしまった。

 萌さんは意外にも目を丸めて疑問を浮かべている。

 しかしそれもすぐに笑顔へと切り替わった。

「あの子は彼氏君の話ばかりするのよ?」

 本当にうれしそうな顔。あらゆる人を惹き付けそうな瞳は細められ、俺を射抜く。

「女の子と一緒にいる時は気を使われているみたいで嫌だって言ってる。彼氏君はいつも自分の思ったことを素直に言ってくれるから、そこが安心できるんだって」

 素直に言う、か。単純な性格だからだな、俺は。

 しかし、萌さんの話は俺を少し元気にしてくれた。少し、調子に乗るくらいに。

「そんなことを言われると照れますね」

「でもこの間は、素直に言うことに傷つけられるって泣きそうになりながら言ってたよ」

 うぎゃあ。一か月前の偽物カップル騒動のことか。本当に申し訳ないと思っている。単なる誤解だとわかっていても、維月を傷つけてしまったことは俺の心にも傷を負わせた。

「発言には気をつけるようにしますすいません本当にやめてくださいごめんなさい」

「フフ、でもそのあとは泣きながら喜んでたけどね。好きだって言ってもらったって」

 なんだかそんな話を聞かされるのも恥ずかしい気がするが、悪い気はしない。維月の喜んでいる顔が目に浮かぶようで、今すぐ抱きしめたい衝動に駆られた。

「だから、あの子には彼氏君だけがいればいいの。友達は最低限でいいのよ」

 萌さんは最後にそう言って締めくくった。ココアを啜ってから一息つく。

 何にしても絵になってしまう萌さんを見ていると、遺伝について考えさせられる。維月も萌さんと同じく、なんでも様になるからだ。

 そんな生命の神秘について思いを馳せていると、萌さんから声がかかった。

「私の最大の不安は、彼氏君があの子のことをどう考えているか、なの」

 俺の息が詰まる。疾しいところはない。それは断言できる。しかし、だ。

「好きでいてくれているっていうのは伝わるんだけど、具体性がないよね」

 冷静で、的確で、俺たちの関係を最低限の文字数で表す意見。俺は一抹の不安を覚えながら、親友の放った言葉を思い出す。

 偽物カップル。

 幼馴染としての距離感を捨て切れず、カップルとして具体的な機能を果たしていない俺たちの関係の名前だ。俺はこれについて悶々と考えているときに、維月に対する誤解を招いたのだ。

「別にエッチなことをしろだとか、キスをしろだとか下世話なこと言ってるんじゃないよ」

 わかってます、と首の動きだけで伝える。萌さんはでもね、と続けた。

「悪い言い方をすれば、あの子は彼氏君に依存しているの。だから、彼氏君のアプローチやスキンシップをすごく嬉しがる。逆に、それが満たされないと不安がどんどん募り募って『私が彼女でいいのかな』とか、『私のこと嫌がっているのかな』とか後ろ向きに考えてしまう」

 俺は無言でうなずき続ける。そうすることしかできなかった。

「テストでさ、自信のない教科をやって点数を教えられない不安と似てるんだよ。もっとわかりやすく言えば、自分が合格なのか不合格なのかはっきりわからない受験って感じ。人によっては全く気にならないって人もいるだろうけど、維月は思い切り気にするタイプだからね、そこのところを少し気にかけてあげてほしいなって思う」

 ココアを飲みほした萌さん。俺は昨日、維月が急に泊まることを勧めてきたのを思い出していた。

 あれも、不安の表れだったんだろうか。あいつの中では俺と早弥の関係をまだ少し誤解していて、不安で仕方がなかったために俺を誘ったんだろうか。

 自分の誘いに応えてくれるかと、縋る様な思いで。

「沢山言っちゃったけど、そんなに気負うことないよ」

 萌さんがマグカップの底を見ながら微笑む。

「だって彼氏君は、維月のことを好きでいてくれているからね」

 少し落ち込んだ気分だったが、この言葉には大きく返事することができた。

 俺は維月のことが好きだ。それだけは、誰にも譲らない。

 誰にだって、負けない。


 ♡ ♥ ♡ ♥ ♡ ♥


 深夜の二時になった。

 萌さんと雑談しながら一時間ほど経っていたようだ。

「じゃあ、私はそろそろ寝るね。彼氏君も早く寝るように。おやすみ」

 萌さんの言葉を最後に俺はリビングに一人になった。晃さんを生贄に部屋を出てきたから、戻ったら悲惨なことになってそうだ。もう少しだけ呆けていよう。

 俺は無意味に数字を数えたり、羊を数えたりしながらしばらく黙りこむ。

 そして2,237匹目まで羊が柵を飛び越えたあたりで、階段の方から足音がした。そのまま、こちらにむかってくるようだ。

「あれ、あんたも起きてたの?」

「なんやなんや、これからウチらにエロい事しに行こうか迷てたんか」

 維月となんか騒がしい奴だった。俺は維月にだけ手を振る。

「蚊がいて目が覚めた」

「あぁ、どこか刺された?」

「ケツの穴とか?」

「首筋」

 早弥がどんどんハッスルしてきているな。俺は無視するから一向に構わんが、維月とかは真面目に赤い顔をするのでやめてあげてくれ。

 維月が俺の首筋、蚊に血を吸われた辺りを撫でる「かゆい」身を捩ってくすぐったい感じを払拭。

「かゆみ止めいる?」

「いや、自然に平気になるから大丈夫だ」

「なあなあ、じゃあかゆみ止めとか買いにいかへん?」

「人の話を」「近くにコンビニかなんかあったやろ?」「……聞け」

 途中であきらめはしたが、最後まで言い切ったぞ俺は。

 早弥は最初からノリノリだったが、その提案には維月も賛同派のようで「じゃあ着替えて財布取ってくる」とか言い始めた。俺は、付いていかないわけにはいかないだろうなあ。

「ほらほら、あんたも財布とってきいや!」

「うっせ、今から行くよ」

 俺の財布、自宅なんだけどな。

「維月、俺はまず自宅行くから後で来いよ」

「うん」

 維月にはそれだけ伝えて、俺は玄関口に向かった。

 なぜかそれに倣い、早弥が「どうして俺の方についてくるんだよ」ニッコニコしてやがる。普通なら維月の方に付くだろうに、なぜ俺の方なんだ。

「ウチは君とお話がしたいねん」

 夜には似つかわしくない、明るい笑顔のまま言う早弥。これは冗談の類なのか、それとも本当に話したいことがあるのか、さっぱり分別がつかない。詐欺師と話している気分だ。

 俺は無言で靴を履き替え、外へ出た。早弥も後から続くので、少し待って、歩き出す。

「維月ちゃんってええ子やなあ」

 早弥が切り出す。俺はその意図が掴めず、「そうだな」と普通にノーマルな反応しかできない。ここで俺が千の言葉を用いて維月を賞賛すれば、早弥と言えど多少はたじろぐだろうか。そもそも、俺にはそれだけの語彙力があるのだろうか。話がそれてきたので閑話休題。

「なあ、君はそんな維月ちゃんと付き合ってて何とも思わへんの?」

「思わないわけないだろ、ちゃんと好きだよ」

「ちゃうて」

 俺の家の前に来たところで、早弥が大袈裟に溜息をつきながらやれやれ、といった様子で首を振る。こいつは何が言いたいんだ?

「維月ちゃんは見た目も綺麗で性格もいい、トップクラスの女の子やで」

「彼女が褒められるのは嬉しいな、ありがとうよ」

「でも高望みしいひんとは、限らへん」

 わざとらしく溜めながら、早弥が言う。明朗な笑顔とは打って変わって、性格の悪さがにじみ出るようなニヤニヤ笑いが顔に表れていた。

 つまりお前が言いたいのは、俺では釣り合わないってことか?

 心の中でテレパシーを送るフリをしながら、無言で鍵を差し込む。

「話聞いたで。なんでも一か月前、アンタ維月ちゃんを泣かせとるらしいやないか」

「あの件は本当に反省してるよ」

「でも傍から見てればそうは見えん。維月ちゃんは不安がっとるねん。せやから、アンタ以外の男になびく可能性だって大いにあり得るわけや」

 早弥の言葉に、俺の精神にぐらつきが生じる。支えていた支柱が少しずつ、僅かに削り取られていくような不快感。

 鍵を開けて、家の中に入る。財布はどこだったか。

「その話を踏まえて、聞いて欲しい」

「あ?」

 そうそう、確か台所の机に置きっぱなしだったな。俺はそちらに向かいながら早弥の話に耳を傾ける。一応、聞き洩らしのないように。

 俺は台所に鎮座している黒革の財布を手に取り、早弥に向き直った。

 早弥の口が重々しく、開かれた。



「ウチは君のことが好きや。維月ちゃんと別れて、ウチと付き合ってくれへんか?」



 視界が急に歪み、頭に鈍痛が走る。自分が立っているということが不思議に感じるほど混乱する頭の中。滑り落ちた財布の床に落ちる音で、ようやく我に帰る。

 早弥の今の発言。俺のことが好きだって? 俺はその言葉を疑い、周りを確認してみるが誰もいない。確かに、俺へと向けて発せられた言葉らしい。もしもこいつが天井のシミに告白していたなら、俺は迷わずに精神病院に連行するだろう。いや、維月と別れてとかほざいたから俺に向けては確実か。

「それ、本気で言ってるんだとしても俺は応じないぞ」

 心臓が『外へ出せっ!』と食道あたりを圧迫するような感覚に苛まれながら言う。対し、早弥は更にニコォっと不気味に微笑むのだ。

「やっぱり維月ちゃんか」

「当たり前だ」

「さっきの話も踏まえて、やで?」

「……あいつが不安に思ってるなら、それを解消する行動をとるだけだ」

「ほんならウチは全力で邪魔させてもらおっかなー」

「おいおい、性悪な発言だな」

 何をどうして邪魔するのか。俺は構えはしたが、どこから攻撃がくるか全く見当がつかない。前か、後ろか、右か、左か、はたまた上や下からなのか。いや、コイツの場合すでに俺に爆弾を仕掛けていていつでも爆破できるとかそういうとんでもない状況を楽しんでいるのかもしれないとか思ってみたり。

「でもさ、一つ考えてみようや」

 早弥が起爆スイッチに手を掛ける……幻影を見た。嘘だ。

「維月ちゃんは、すでに君のことどうとも思ってないんちゃう?」

「どうしてそう言えるんだ?」

 殺人事件で犯人をあぶり出した探偵と殺害者の会話みたいだと思った。

 またもニコォっと笑む早弥。その微笑みは、維月のいない俺なら軽く騙されてしまいそうな妖艶さを含んでいる。萌さんや晃さんとはまた違う冷たさを持った、凄絶な笑顔。

「君ら、付き合ってるからっていう理由じゃなくて、幼馴染の腐れ縁で、惰性に行動してるって感じやもん。まだキスさえしたことないんやろ? 知ってるで、手を繋ぐ程度がせいぜい関の山やってことは維月ちゃんから聞いとるねん」

 痛いところを突かれて、俺は言葉に詰まる。保育園の時にキスくらい果たしとるわーっ! と強く主張して俺たちの愛を証明したいこと山の如しだったが、結局羞恥心に阻まれて喉に到達するより早くしぼんでしまう。そればかりが呑みこんでしまう始末だ。

「そんな関係ならさ、やめてまえば?」

「それは嫌だね」

「なんでや」

「俺はこれでも維月のことをしっかり考えているんだよ。そりゃあ話で伝え聞いた通り、俺は人前で手を繋げるってくらいが限界のチキン野郎だ。でもな、あいつと別れて他の女と引っ付いてのうのうとしてられるほど、半端な気持ちで付き合ってるわけじゃねえんだ。舐めんなよ」

「ちょっとトイレ行って消臭剤取ってきてもろていいすかー?」

「セリフが臭いってかしばき倒すぞコラ」

「いやん押し倒されるぅ」

 なんなんだコイツくねくねしやがって。いっそミミズにでも転職しちまえとか毒づきながら、俺は早弥を素通りして玄関に向かう。

 そして、ネタばらしを喰らった。

「ドッキリ大成功ー!」

「わーパチパチどんどんパフパフー。……どういうことだ?」

 急に早弥が破顔して、俺の方にパーティ用クラッカーを鳴らすようなジェスチャーを送る。何事かわからず、俺は呆然としていた。

「いや実はな、維月ちゃんから不安やーっていう相談を受けて、じゃあウチが試してきたるわっちゅうて君の言質をとったっちゅうわけですよ」

「……あ?」

「あいうえおー!」

 テンション高いなお前。それから俺は試されていたってことか。なんだこのやりきれない気持ちは。

「じゃあお前の告白もそれの範疇か」

「それはどうかな」

 フッフッフとか悪役じみた笑いを披露して下さる早弥さん。その様子だと冗談の類のようですね。

 と俺が思っていると明るい顔から一転、すこし表情に陰が差した。

「なんか、寂しいって気持ちはある」

 ガシガシと乱暴に頭を掻きながら、俺の眼を直視せずに言った。そんなにかきむしったら禿げるぞと心配してしまうほどかきむしり、案の定と言うべきかやはり手には細い髪の毛が付着しているようだった。こいつは間違いなく綺麗の部類に入るので、そんな髪の毛ですら勿体ないとか思ってしまう。維月のものだったら譲り受けて家宝にするレベルだが。まあ冗談だ。

「ウチな、こう見えて彼氏なんて今まで一人くらいのもんやねん」

「それは美しい割には一人って意味合いか?」

「その通りや」

 俺は今、人間七つの大罪の一つを垣間見た気がする。

「その人はイケメンで多少ヤンチャでユーモア溢れる男やった」

 昔を懐古するようにうんうんと頷きながら話しているが、自慢がしたいだけなのだろうか。自画自賛して、本人いわく寂しい気持ちを払拭しようとしているだけか?

「でも、結局別れた。なんでやと思う?」

「ズバリ、お前の性格が以下略だったから」

「はずれー。そんな君には残念賞としてティッシュペーパーをあげよう。これで色々励めよ」

「黙れよ」

「答えはなんと、ウチのおとんが原因でしたー」

 あまりにも明るく唐突に言うので、俺は少し面喰った。話に聞くクズ男のことだ、と一瞬理解が遅れて喉に言葉が引っかかる。俺は何を言おうとしてるんだ?

「ウチのおとんは、娘の彼氏が家にやってくると拳で挨拶を交わします。ボディーランゲージってやつですハイ。それでウチの彼氏はたちまちギブアップを唱えてしまいましたとさ、まる」

 まるで童話でも読み聞かせるように、淡々と言いやがる。自作の丸まで表現して、作文口調にもなってるじゃねぇか。

 そこで俺は、早弥の言いたいことをなんとなく察した気がした。

「で、こないだ別れたんやけどね、そのことで親と喧嘩になって、怒って飛び出して君のところまで辿り着いたっちゅうわけですよ」

 おい中略しすぎだ。 なんで俺のところになるんだって言いたい。

「なんで今それを話したんだよ」

「だって君も知りたかったやろ? それに、あながち君のこと嘘じゃない」

 俺のところに来る理由はそれか? なんだか気恥かしいが。

 早弥はそこで大きく溜息をついて、話すのをストップした。伏せられた目は床を見つめ、俺と向き合おうとしない。それはそれでいいんだが。

 こいつは、本当は元彼氏にずっと支えてもらいたかったんじゃないか。父親に暴力を振るわれても、それでも支えてくれると信じて家に連れて行き、結局破綻した。まさに、試してみたところ、本当の部分が浮き彫りになって、真実の刃に傷つけられたってところか。

 だから寂しいと言った。こいつの、ほんの少しの本音。

 それにしても、やはりどこか引っかかるな。俺は早弥の父親の話を聞くと、名状しがたい違和感を、しこりができるように感じるのだ。

 どこがおかしい? 自問自答。知るかと返ってきた。いつかのように。

 話を聞けば聞くほど、クズ男はクズ男だ。どんどん人間性が疑われる野郎になってきている。

 しかしどこか、なんだかわからないが変だと感じる点がある。

 そのことについて黙考しながら靴をはき、外へ出扉が鼻にダイレクトアタック。続いて痺れを切らしたらしい維月が仏頂面で現れ、「遅い」と批難してきた。俺は扉で打ったところを押さえながら、涙腺がだらしなく緩むのを感じる。めちゃくちゃ痛い。

 早弥がその一部始終を見ていたらしく、俺の様子に大変ご満悦の様子。げらげらと深夜と乙女にはあるまじきはしたない笑いを上げながら腹を押さえていた。

「何してたの」

「財布を探し回ってたんだよ……!」

「ヒャヒャヒャヒャヒャ! ヒャヒャヒャヒャヒャ!」

 せめて何かまともに喋れよ、と早弥を睨んだが効力はない。維月は呆れたように鼻を鳴らし、俺の近くまでやってきた。

「大丈夫?」

「あやうく医療とは無縁な整形を施されるところだったぜ」

「それは惜しかったね」

 どういう意味だゴラァと巻き舌全開で言い返したかったが、痛みに邪魔されて声にならない声が出てくる。猫に盛りがついた時の鳴き声みたいだ。

「じゃあ行こ。早めに行って、早めに寝ないと」

 確かにそうだな。俺は首だけをがくがくと動かしながら肯定の意を示す。

 そのまま維月、俺、早弥の順に外へ出、最後に鍵を掛けてコンビニを目指した。

 鍵を掛け終わったあたりで、俺の鼻でうずく痛みが引き始めたのだが、それでも後を引くしぶとさだったので面倒臭い。

 そんなことを思いながら、夏の空に映える星の群れを眺める。

 物事の解決策が、この星の数ほどあればどんなにいいことか。

 俺の口から洩れるのは美しさに感嘆する溜息ではなく、世の中に対する世知辛さを嘆くものだった。


 ♡ ♥ ♡ ♥ ♡ ♥


 コンビニの方向は学校へ行く道と同じで、俺と維月にとってはすでに歩きなれた景色だ。しかし「不審者を見つけたんねん!」と躍起になって自ら不審者に立候補するという、その間違った方向のやる気だけは一級品の早弥にとっては物珍しいらしく、年甲斐もなくはしゃいでいるようだった。いや、いつものことなんだからわざわざ報告しなくてもいいのだが、道中は特筆することがなかったので余談として紹介した次第だ。で、現在はコンビニの中。自動ドアの前で不良に絡まれることもなく、安穏に辿り着いたそこは桃源郷という言葉が似合ってしまうくらいに涼しかった。そういえば思い出したが、俺が中学三年生の頃、『クーラーと結婚する』とジョークを放ったところ、維月が非常に物悲しそうな顔になったのが印象的だったなあ。今でもあの顔をしてくれるんだろうか。

 昔に思いを馳せながら、俺がいるのはつまみ類を取り扱う中年オヤジコーナーだ。なぜか早弥と意見が合うという不思議な現象が起こった。維月は普通に甘いものを物色している。太るぞと忠告するのは俺の安全を考えてやめておいた。

「やっぱりつまみ系統はうまいよなー。こう、ビールとかとホンマにマッチする感じ。小さい頃はスルメとか好きやってんなあ」

「あー、上手いよなスルメ。俺も好きだった。でもおふくろが腹壊すからってあんまり食わせてもらえなかったんだよな」

「へぇそうなんや、案外きっちりした人やもんなぁ君のおかん」

 どこがだよ、と苦笑しながらコーナーを移動し、維月の元まで。甘いものは自粛したのか、苦手なはずの辛いものが並ぶコーナーで商品を眺めている。下段の商品を取り、座りながら成分表を見ていた。

「お前辛いもの苦手じゃなかったか?」

「これアンタの」

 おぉ、なんか、なんだろう。彼女に選んでもらうっていうのはワクワクすっぞ。

 維月は手に取っていた商品を「高カロリー……」とか呟きながら戻し、次にもっとカロリー高そうな奴を選ぶ。俺を太らせる作戦でも実行中なのだろうか。

「維月ちゃんってすごい健気な女の子やんね」

「? どうして?」

「普通言われへんかったら彼氏の分まで買おうとか思わんて、なあ?」

「まあ、そうかもな」

「ふうん。お父さんが男の子はよく食べるから、コンビニとか行ったりするときは吐きそうだって泣きごとを言うほど高カロリーなものを食べさせてあげるといいよってこの前教えてもらった。それで今選んでるわけなんだけど、迷惑……とか?」

「泣きごとを言うほどは勘弁だが、普通の範囲内なら大歓迎だ。むしろ嬉しい」

「そっか、じゃあ良かった」

 維月が安心したように微笑んで、また真剣な顔つきで俺の分の何かを物色する。維月であれば俺の好き嫌いくらい把握しているし、何も言わなくても安心だ。

 俺は辛いものは維月に任せ、今回の忘れがちな目的であったかゆみ止めを探す。

 エロ本コーナー近くにあった。誤解を招きかねないから早々に退散しよう。

「あー、エロ本コーナーにおるー」

 そこへ運悪く、示し合わせたかのように早弥が大きな声を出して俺を指差した。むしろ示し合わせてきているよなコイツ。あからさまにニヤついてるし。

 維月がすごい勢いで立ちあがり、俺の方を見た。

「違うぞ、かゆみ止めを取りに来ただけだ」とか言う暇すら与えられず、すごい形相で維月が走ってきた。結構怖いのだが、それでも美人なので可愛らしいなあとか危機感なく思ったりする。

「アンタの部屋にこういう類のものがないと思ったら!」

「違うって、かゆみ止め……」

「ホンマに男なんてエロの塊みたいな生き物やで。ここで妄想に耽っては維月ちゃんに置き換えて楽しんでるんやろ!」

「アホ言うのやめろ」維月が真っ赤な顔でわなわなとふるえてるから。

「ちなみにどういうのが趣味なん?」

 綺麗なお姉さんはなかなかどうして嫌いになれない。じゃなくて、

「お前に教えるわけがないだろ」

「じゃあ、私には教えてくれる、ってこと?」

「お前顔真っ赤だぞ。大丈夫か、病院行くか」

「べ、別に、あの、アンタは男だから仕方ないとは思うけど、なんていうか……」

「維月ちゃん言うたれ。こんな本じゃなくて、私が実際」「うっせ黙れ変態女郎」

 俺まで恥ずかしいわ。維月はなんだかやるせなさそうな顔。真っ赤っかだ。

「まあ冗談にしてや、維月ちゃん。ここは大人にならなアカン。維月ちゃんの彼氏と言えど、中身はスケベ丸出しむっつり変態野郎なんやから」

 早弥は今時絶滅危惧種並みに珍しい、純情な乙女を目にしてドS心でもくすぐられたらしい。維月に耐性がないからって遊びすぎだろ。あと俺を貶めるの好きだな。

「はいはい、冗談はそこまでにして、俺はかゆみ止めを取りに来ただけだから安心しろ」

「そ、そうなんだ」

「騙されたらアカンで、男は絶対こうやって言い訳を用意してるんやから」

「お前は口さえ動かなければ普通の美人なんだがな」

「いやん美人やなんて彼女の前で恥ずかしいわぁ」

「よし行くぞ維月」

 俺はお目当ての商品を手に取り、別のコーナーに移動する。早弥は置いてきた。俺たちがあいつについていける気がしない。

「あ、そうだ。これ、アンタに選んだんだけどどうかな」

「ん」

 激辛という文句が全面に押し出された、真っ赤なカップ麺だった。ほほぅ、本当に辛いのかどうか試してやろうじゃねぇか。俺は親指を立ててOKのサインを作った。維月も満足そうに顎を引く。

「お前、欲しいものとかないのか」

「この時間帯に何か食べると太るから、自重」

「んまあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 いきなり早弥が絶叫する。うるさいしレジに立つ大学生くらいの男が盛大に肩をびくつかせたし、迷惑しかないからやめろよ。維月もびっくりして目を丸くしている。

「維月ちゃんはその細さでそんなこと言うんか! 嫌味かこの野郎!」

「お前だって細いだろうが」

「ふざけんなよ! 理想の体型っちゅうもんがあるんじゃ!」

 わけわからん。男にとって女とは別の生き物なのだろうか。

「で、でも早弥ちゃんは胸があってうらやましい」

「ウチは細身がいいんじゃあ!」

 早弥が維月の肩を掴んでガクガクと揺さぶる。その際ちらりと覗いてみると、なるほど、維月の言うとおり確かに胸は大きかった。

 あまりにも盛大に揺さぶっているので、維月が可哀想になってきてしまい止めに入る。

「時間も時間だから、さっさとレジ通すぞ。欲しいものはもうないか?」

「わ、私はもうない」

「早弥は?」

「愛と金と名誉が欲しい」

「愛と名誉ならまだしも金を金で払ってどうする。大体そんなものがレジを通ってもらっちゃ困る」

「世もマツやね」

「末だ、ボケてる場合か」

 結果、レジを通すものは維月の選んでくれたカップ麺とかゆみ止め、それから早弥の持っていたつまみ数種類とクリームプリンとなった。値段は全部俺持ち。どうしてこうなるんだか。

 最後、店を出る際「騒がしくしてすいませんでした」と頭を下げると「いえいえ」とにこやかな対応をされたので、個人的には満足なんだが。

 コンビニを後にして、帰路につく。携帯電話で時刻を確認すると、三時二十九分とデジタルに表示されていた。寝る時間もあんまりなさそうだな。

 まあ、それもいいか。

 維月と早弥は楽しそうだし、文句はないだろう。

 俺は帰り道を、早弥の父親に対する違和感について考え、一秒で放棄し、後はガールズトークに適当に混じりながら歩いた。

「眠て……」

 欠伸をして、それをネタに早弥が話しかけてくる。

 それに適当に返事しながら帰るのも、夏休みらしくていいと思えた。

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