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後の祭りで涙して

作者: 尾登遥香

連載のほうの取材のために出かけた時に思いついた話を二日でまとめ、発表しました。細部の設定などは違いますが、少女が出てくるあたりは実際にあった話です。

なにか少しでも感じてもらえることがあればうれしいです。

 ある冬の日、土曜の朝の上り電車。平日ほどではないがそれなりに混んでいる。きっとみんな厚着して着膨れしているから余計に混んでいると感じるんだと思う。

 あたしは車両の真ん中あたりの吊革につかまって、窓の外を眺めていた。

 今、電車に乗っていることに特に意味はない。なんとなく出掛けたくなっただけだ。神奈川の外れの片田舎でじっとしてられなくなったってところか。


 電車は割と大きな駅に滑り込んだ。何人かの乗客が座席から立った。あたしのように吊革につかまって立っていた客がかわりに座って、ふうっと息をついた。

 あたしの前の席に座っていたおばさんも、立ってドアの前に並んだ。

 あたしは一瞬座ろうか迷った。あたしは電車の中で座るのはあまり好きじゃない。幅が狭くて、隣の人と体が触れるのが嫌なのだ。

 あたしの両脇に立っている人は、空いた席の目の前にあたしが立っているせいで、座りたくても座れない状況になっている。

 すると、どこからともなく小学生くらいの女の子が出てきて、その席にちょこんと座った。4年生くらいかな? まだ小さくて、隣の人にも触れていない。両脇に少し隙間ができている。

 その子に続いて、母親とみられる人も、人の間を縫って申し訳なさそうに腰をかがめながら出てきた。

「ねえママ、理科やる。」

女の子がそう言うと、母親はトートバッグから問題集のようなものを取り出した。女の子は、受け取ると膝の上に広げて、黙々と鉛筆を動かした。母親が女の子に手渡す時、ちらっと表紙が見えた。左上に[4年生]と大きく書いてあって、右側には[紺屋義塾大学付属中学校]の文字が読み取れた。

 そうか、この子は中学受験をするのか。それにしても、紺屋義塾大といえば、私立ではトップ級の大学だ。すごいな……。これからどこへ行くんだろう? こんな時間に。模試でも受けに行くのか? それとも塾か? 塾だとしたらなんでわざわざ電車に乗っていくようなところに? この親にはよっぽどこだわりがあるのかもしれない。

 この路線の沿線というのは、地価が高いため、どちらかというと上流階級の人が多く住むといわれる。そういう人というのは、一般に子供の教育には熱心だろう。この子の家も、もしかしたらそうなのかもしれない。


 あたしは吊革につかまったまま考えていた。

 中学受験――最近、流行りらしい。地元の公立中学が荒れているから、そんなところに子供を行かせたくないと、私立中学を受験させる親が増えている。そこへ入ってしまえば高校卒業まで試験は無いし、普通なら高校受験に費やす時間を大学受験に使うことができる。場合によっては、大学まで受験なしだ。

 あたしの町ではまだなじみがないものだ。駅に近い地区の人はまだいいんだろうけど、あたしの住んでる地区から駅に出るには、バスで15分、徒歩で30分もかかる。バスの本数だってそう多くはない。そこから電車に乗って東京や横浜の学校に行くとなると、通学時間は2時間を超えてしまう。あたしの周りでもそれをする人はいない。でも、下手に荒れた公立中学に行くよりは、2時間でも3時間でもかけて私立に行ったほうがよっぽど楽だと思う。

 と、いっても後の祭り。今のあたしにはどうしようもないことだ。

 町はずれの中学校に通ってもうすぐ2年。次の春を迎えればあたしは受験生になる。この前の三者面談では、今現在の進路希望を聞かれた。そこには、周りに流されてしまって成績が落ち、ろくな高校に行けない自分の姿があった。担任からは、「今のままでは地元の高校がやっと。」という答えが返ってきた。

 泣きたくなった。

 小学校の時は、同じく町はずれの小学校ながらも、クラスで一、二を争うところにいたのに。もちろん、全て環境のせいにはできない。自分の努力が足りなかったと、それこそ悔やんでも悔やみきれない思いが今、胸の中にある。


 6年生の夏、学校から県立の中高一貫校の話があった。あたしたちの代から開校するらしい。

 私立じゃないから経済的負担も少ないし、割と近いところにできるのでいいのではないかと、あたしは担任直々に言われた。これもあたしがその時クラスのトップにいたからだろう。

 母親も強く勧めてきた。高校受験の大変さを説いてきた。

 でも、あたしはその話を蹴った。中学受験をする小学生の現場が、新聞やテレビで報道されているのを見て馬鹿馬鹿しいと思ったからだ。日々の塾通い、問答無用で私立に入れようとする親など、報道する側はマイナスイメージを抱かせるようなことばかり言ってきた。その時、あたしは気付かなかった。それでも中学受験をさせようとする親がいることに。つまり、その魅力に気付けていなかったということだ。

 今でも、その公立の中高一貫校は断ってよかったと思っている。だから、私立に行きたい。行きたかった。編入試験について調べたこともあった。もちろん親はいまさら受けさせてくれはしない。

 親は、公立の中高一貫のことと一緒に、私立のことも少しは話したと言っている。あたしは聞く耳をもたなかったためよく覚えていない。もしあたしがその時どうしてもと言っていたならば、そっちへ行かせる用意もあったと。

 あたしは、教育なんてものは、国がやる義務を負っているわけだから、そんなに余裕が無いのに、わざわざ高い金払って私立に行くこともなかろうと思っていたのだ。

 ところがいざ入学してみると、この国の無力さを知った。当たり前のように廊下を闊歩する不良、それを見過ごす教師、女子の中での厳格な上下関係……。ろくに掃除をする奴はいない。校舎は汚れ、設備は悪く……。これが識字率99%を誇る国の教育現場か? ゆとり教育がどうとか言ってるけど、それ以前の問題じゃないの?


 気がつくと、目から涙が溢れ出ていた。自分がすごくみじめに思えてきたからだ。こんな人前で恥ずかしいとは思うけど、涙は止まらない。声も出てしまう。

 ぽたり、ぽたりと床にしずくが落ちる。例の女の子がふと顔を上げた。涙でよく見えなかったけれど、こっちをじっと見ている。その顔は、「なにコイツ泣いてるんだ?」とは言っていなかった。あたしの勝手な想像だけど、この子はあたしが苦しんでると分かってくれている。

 ありがとう。でも、そう思えばそう思うほど涙が出てくるものだ。幸い、他の乗客は気付いていないようだ。

「なにぼーっとしてるの?」

その子は、母親に声をかけられ、ハッと我に返り、再び黙々と鉛筆を動かしはじめた。


 電車が速度を落とし、駅に着くという放送が流れた。副都心のターミナル駅の駅名が連呼されている。その放送に反応して、母親が女の子に、

「ハル、次で降りるよ。」

と言った。

「えっ?」

あたしは小さい声をあげてしまった。あたしも母親にはそう呼ばれているからだ。

 女の子は、問題集を閉じて母親のトートバッグの中に戻した。

 ハル、ハル、ハル……。この子はなんていう名前なんだろう。『ハルミ』かもしれないし、『ハルヒ』かも、『ハルキ』かもしれない。

 でもあたしは、『ハルカ』だと信じる。きっとあたしと同じ名前だ。

 あたしはごしごしと涙を拭いて、『ハルカ』の顔をしっかりと見た。『ハルカ』は、不思議そうな顔をしてこっちを見ている。

 かくんと軽いショックがあって、扉が開いた。サラリーマンに交じって『ハルカ』は降りていった。

 ここから電車は地下鉄に乗り入れる。あたしはもっと先まで行くつもりだった。なのに、気付けばあたしは『ハルカ』を追ってホームに降りていた。目は無意識に『ハルカ』を探している。

 見つけた! 階段の少し手前で詰まっている。あたしはそこをめがけて走りだした。途中で何人かの足を踏んだ。でもそんなことは気にしない。

 あたしは、さりげなく『ハルカ』の隣に立った。そして、少し身をかがめると、小さな声で囁いた。

「ハルカ、頑張ってね。」

母親は気付いていないようだ。『ハルカ』はぽかんと口を開けている。

 あたしはすぐにその場を去った。あたしたちが乗ってきた上り電車はドアを閉めて発車したところで、入れ替わりに下り電車が反対側のホームに滑り込んできた。あたしの足はそっちへ向かう。『ハルカ』を見て、今から必死で勉強しようと思った。そうすれば、県内トップレベルの志望校も夢じゃない。それには、まず家に帰ることだ。

 ここより先へは行かない。でも、一度戻って加速をつければ、もっともっと先へ飛べると思った。

 そのための扉が、今、開かれたのだ。通勤電車の両開きの扉が、あたしにとっての飛翔の扉。


 あたしは足取り軽やかに、家に戻る下り電車に乗り込んだ。

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