モブ
「はい、それでは今日はここまでです。お疲れ様でした」
担任の先生の声が、午後の倦怠感に包まれた教室に響いた。
教室内がざわめき始める。
椅子を引く音、教科書をカバンにしまう音、友達同士の会話。
一日の締めくくりに相応しい喧騒が、窓から差し込む夕方の斜光と混じり合って、何とも言えない郷愁を醸し出していた。
俺──鈴木輝明は、ゆっくりと教科書を閉じた。
今日も二、三時間ほどダンジョンに潜ってから帰ろうと思っていた。
学校が終わる時刻は午後三時半。
いつものダンジョンに向かえば四時頃には入場できる。
そこから二、三時間潜れば、帰宅は七時前後になる。
夕食までには間に合う時間で、母親に心配をかけることもない。
俺にとって、この放課後のダンジョン探索は日課のようなものだった。
学校生活では得られない充実感がある。
たとえスライムという最弱のモンスターしか相手にできなくても、戦っている間だけは自分が特別な存在になったような気分を味わえる。
現実逃避と言われればそれまでだが、俺にはこの時間が必要だった。
カバンに教科書を詰め込みながら、今日の収支を頭の中で計算する。
1時間で大体10体のスライムを倒せる。
一体につきFランクの魔石一個、五十円。
つまり500円の収入。
3時間なら1500円程度。
決して多い金額ではないが、何より、自分の力で稼いだお金という実感が得られるのは大きい。
周りの同級生たちは部活動や友達との遊びに時間を使っているが、俺には探索者という別の世界がある。
それが俺の小さな誇りでもあった。
「おーい、昼行燈」
教室の後方から聞こえてきた声に、俺は硬直する。
嫌な予感が胸の奥で膨らんでいく。
振り返らなくても分かる。
あの声の主は間違いなく吉田だ。
クラスでも有数の問題児で、いつも俺を困らせる存在。
「鈴木くーん、鈴木輝明くーん」
今度は甲高い、わざとらしい声で俺の名前を呼んでいる。
教室内の他の生徒たちが、こちらの様子を窺うように視線を向けているのが分かる。
注目を集めることが何より苦手な俺にとって、これほど居心地の悪い状況はない。
仕方なく振り返ると、案の定そこには吉田の顔があった。
茶髪に染めた髪を無造作に掻き上げ、制服のシャツのボタンを幾つか外している。
いかにも不良然とした外見で、教師たちからも目を付けられている生徒だ。
吉田の両脇には、いつものように取り巻きも控えている。
「よぉ、昼行燈」
吉田が薄ら笑いを浮かべながら言った。
「今日も元気そうじゃん。相変わらず影薄いけどさ」
取り巻きがくすくすと笑う。
「昼行燈って言葉、よく思いついたよな、吉田」
「だろ? ぴったりだと思わない?」
取り巻きBも便乗するように言う。
「昼間に灯す行燈みたいに、全然目立たないし、役に立たないっていう意味があるんだよ」
確かに俺は目立たない存在だし、これといった取り柄もない。
言い得て妙な渾名だった。
「きみ、探索者やってるんだって?」
吉田が俺の肩に手を置きながら尋ねてきた。
距離が近い。
息が顔にかかって不快だ。
でも、払いのける勇気はない。
「やっぱ稼いでるんでしょ〜?」
取り巻きAが期待に満ちた表情で言う。
「最近金に困っててさあ」
佐藤が困ったような顔を作りながら続ける。
しかし、演技じみた表情からは全く困窮している様子が伝わってこない。
この流れは分かる。
いつものパターンだ。
彼らが金の話を持ち出すとき、必ず俺に集るつもりでいる。
最近よく絡まれるようになったのも、俺が探索者をやっていることが周りに知れ渡ったからだった。
「俺もなっちゃおっかなぁー、探索者」
吉田がわざとらしく悩むような仕草を見せる。
しかし、実際に探索者になるつもりなど毛頭ないことは明らかだ。
危険を冒してダンジョンに潜るよりも、俺から金を巻き上げる方がずっと楽で確実だから。
「でもさ、探索者になるのって結構面倒くさそうじゃん?」
取り巻きAが言う。
「申請とか、訓練とか、色々あるんでしょ?」
「そうそう」
取り巻きBが頷く。
「それに危険だしね。モンスターに襲われたりするんでしょ? 怖いよなー」
三人の会話を聞きながら、俺は心の中で溜息をついた。
彼らにとって探索者は、金を稼ぐ手段としてしか捉えられていない。
ダンジョンに潜ることの意味や、探索者としての誇りなど、理解しようともしないだろう。
「で、昼行燈」
吉田が再び俺に向き直る。
「稼いでんでしょ? 少し貸してくれない?」
予想通りの展開だった。
俺の手は無意識にポケットの中の財布を探る。
土日を返上してダンジョンに潜り、コツコツと貯めた一万円が入っている。
「最近マジで金がなくてさ。参考書も買えないんだよ」
参考書を買うという理由が如何にもらしい嘘だった。
吉田が勉強している姿など見たことがない。
「頼むよ、昼行燈」
取り巻きBも加わる。
「いつものように貸してくれない? 今度絶対返すからさ」
いつものように。
そう、これは初めてのことではない。
俺は何度も彼らに金を貸している。
というより、取られている。
返すと言いながら、実際に返済されたことは一度もない。
正確に計算すると、これまでに貸した金額は五万円を超えている。
全て俺がダンジョンで稼いだ血と汗の結晶だ。
一日数百円から千円程度の収入を、何か月もかけて積み重ねた大切なお金。
それが一度も返されることなく、彼らの懐に消えていく。
彼らにとって俺は、金を引き出すATMのような存在でしかない。
「どうよ、昼行燈?」
吉田が俺の返事を催促する。
俺の手がポケットから財布を取り出す。
開けると、一万円札が一枚入っている。
今週の全収入。
これを渡してしまえば、今週は完全に無収入になってしまう。
でも、断れない。
断ったら何をされるか分からない。
それを考えると、金を渡した方がマシに思える。
「……分かった」
か細い声でそう答えながら、俺は一万円札を吉田に手渡した。
彼は満足そうな笑みを浮かべながら札を受け取る。
「ありがとう、昼行燈」
吉田が言う。
「また今度返すからさ」
「本当に助かるよ」
取り巻きAが付け加える。
「いい奴だな、昼行燈は」
取り巻きBも調子を合わせる。
彼らの言葉は空虚に響く。
建前だけの感謝の言葉に、何の重みも感じられない。
俺はただ呆然と、立っていることしかできなかだった。
そのとき、教室の扉の向こうの廊下を、一人の女生徒が横切った。
長い黒髪を後ろで一つに束ね、凛とした表情で前を見据えながら歩いている。
制服を完璧に着こなした姿は、まるで雑誌から抜け出してきたモデルのようだった。
姫月さんだ。
教室内の空気が一瞬で変わった。
さっきまで騒がしかった生徒たちが、まるで魔法にかけられたように静かになる。
彼女が持つ独特の威圧感が、廊下越しにも伝わってくる。
姫月氷華。
三年生で、学年でも屈指の美貌を誇る女生徒。
しかし、彼女を有名にしているのは外見だけではない。
彼女はAランク探索者なのだ。
正確にはA+ランク探索者らしいが、どちらにせよ俺からしたら雲の上の存在だ。
孤高の探索者で、誰とも群れない氷のような人。
姫月さんについて語られる時、必ずこのような形容詞が使われる。
彼女は学校でも一人でいることが多く、友達らしい友達も見当たらない。
授業中も休み時間も、常に一人。
まるで周りの人間など存在しないかのように振る舞っている。
それでも彼女に憧れる生徒は多い。
美しい容姿もさることながら、A+ランクという圧倒的な実力が彼女を特別な存在にしている。
俺のようなF+ランクの探索者からすれば、別世界の住人だ。
たまに彼女の配信を見るが、めちゃくちゃ人気だった。
姫月さんは探索者としての活動を配信サイトで公開している。
しかし、他の配信者とは全く違う。
視聴者サービスはほとんどせず、淡々とモンスターを狩るだけ。
雑談もしなければ、コメントに反応することもない。
ただ黙々と戦い続ける姿が映し出される。
それでも視聴者数は常に数万人を超えている。
ビジュアルもさることながら、彼女の戦闘スタイルがあまりにも洗練されているからだ。
俺が一匹のスライムを倒すのに五回の攻撃が必要なのに対し、彼女は高レベルのモンスターを一撃で倒してしまう。
同じ探索者とは思えないほどの実力差だった。
吉田たちも、姫月さんの姿に見入っている。
さっきまでの威勢はどこへやら、彼女の前では借りてきた猫のように大人しくなっていた。
それほどまでに彼女の存在感は圧倒的だった。
彼女の姿が廊下の向こうに消えていくと、教室内の緊張感も和らいだ。
まるで台風が過ぎ去った後のような静けさが残る。
ああ、そうだ。
今日もダンジョンに行くんだった。
姫月さんの姿が見えなくなった後、俺は我に返った。
彼女の圧倒的な存在感に気を取られていたが、予定は変わらない。
今日も二、三時間ダンジョンに潜るつもりだった。
吉田たちに一万円を取られてしまったが、それでもダンジョンに行く意味はある。
今日また少しでも稼げば、来週には多少の収入になる。
何より、ダンジョンに潜っている間だけは、学校での嫌な出来事を忘れることができる。
「じゃあ、俺はこれで……」
そう言って立ち上がろうとした俺に、吉田が再び声をかけてきた。
「おう、昼行燈。また次もよろしく頼むぜ」
嫌な笑みを浮かべながら言うぞの言葉に、俺の心は重くなる。
いつまでこんな日々が続くのだろうか。
でも、今はダンジョンのことを考えよう。
カバンを肩にかけ、教室を後にする。
廊下はまだ姫月さんの残り香のような冷たい空気が漂っている。
彼女のような強さがあれば、吉田たちに舐められることもないだろう。
でも、俺にはそんな力はない。
むなしいだけの妄想だった。
スライムという最弱のモンスター相手に、必死になって戦う自分。
情けないと思いながらも、それが俺の現実。
重い足取りで校舎を出る。
今日もまた俺の小さな冒険が始まろうとしていた。




