第8話「伝説がはじまったこと」
それはあのノズモナド王国に予言がもたらされた日より実に20年後のことです。
帝国歴1202年。
樫月(7月)21日の深夜。
帝国郊外のフェリペの村にて、青い満月が辺りを包む魔法のような夜に、鍛冶屋のアーファンルンクの家でひとつの産声が上がりました。
生まれたのはまさに玉の様な赤子でした。健康そのものといったその嬰児は、取り上げた産婆によって沐浴を済まされ、すぐにふかふかの衣にくるまれて、母親の隣に、それもよく顔が見られる位置に置かれた揺り籠にそっと寝かせました。さっきよりは落ち着いて来てはいましたがまだ泣き止んではいませんでした。
「元気そうな子でよかったねえ! シャンティ!」
寝室のすぐ隣の台所で、沸かしてあった熱いお湯で両手を洗いながら産婆の祝福の声が聞こえてきました。産婆は目じりに小皺がよって茶色の髪を結った小柄の人でした。その昔、村にはこういった産婆の様な医療に精通した女性、『賢い女』とも呼ばれていましたが、そういう者がひとりはいるものでした。
「ええ。本当にありがとうございました。ヒルダさん」
寝室のベッドで仰向けのままシャンティと呼ばれた、赤子の母親が小さな声で答えました。肩までブランケットを被っていましたが、黒い髪を長く伸ばしているのがわかりました。産婆の名はヒルダというようでした。ヒルダは鍋に水を張ってそれを火にかけると、机の上にあった薬草を持ってくると葉から茎、根までそこに全部放り込みました。
「いやいや、お礼なんていいんだよ。助け合いさ。よく頑張ったね」気のいいヒルダはそう言って微笑むとシャンティの母としての健闘を称えました。「あたしゃこの村で何度もお産に立ち会って来たけどあんな綺麗な顔の赤子は初めてだよ。きっと将来、大物になるね」
シャンティはそれを聞いて笑いました。お世辞であっても、彼女には十分嬉しかったのです。自分が新しい命をこの世に産み落とした母親になったということが何だか無性に嬉しかったのです。
「まあ、ほんと?」
シャンティは隣の我が子の顔を改めてその緑の眼で見つめました。子を慈しむ、温かく優しい視線が注がれていました。赤子はさっきより穏やかな表情をしていました。
──一体、あなたはどんな子になるのかしら……大物になんてならなくていいから、あなたが元気に育ってくれて、やりたいことを見つけて、それをのびのびやって、幸せになってくれたら私はそれでいいのよ……
シャンティは欲のない人でしたが、彼女なりに我が子の幸せを願っていました。
生まれ持っての身分や世俗に捉われて自由な生き方をするには相応の苦難が伴いましたが、シャンティはそれでも子には望む道を行ってほしいと思っていました。アーファンルンクの家は代々、鍛冶を生業としてきましたが決してそれだけに捉われてほしくはないとも思っていました。世界はこの村だけに限定されず、村を飛び出せばきっと無限に広がっているはずでしたから。
「ああ。ほんとさ」ヒルダはそう言いながら完成した薬草汁をコップに注いで持ってきました。「それから、これ少し苦いけれど痛みが少しは楽になると思うよ」
シャンティはお礼を言いながら、それを受け取り一気に飲み干しました。彼女は思わず顔を顰めました。ヒルダはその素直な反応に微笑みました。
「思ったより苦いですね……」
「そうだろ? てか、そんなに一気に飲むもんじゃないさ」ヒルダが笑いながら言います。「そういや、この子の名前はもう決めたのかい?」
ヒルダがシャンティにそう訊いたとき、玄関で扉ががたんと開いた音がしました。そして口髭を蓄えた目の細い長身の男が扉をくぐって、足早に寝室に入ってきました。男は腹のあたりが黒い煤のようなもので汚れている革のエプロンをとって床に投げ、そしてヒルダには目もくれないで、シャンティの傍にやって来て片足を床につきました。シャンティがブランケットから手を出しました。男の胸元のボタンは外れていて隙間から肌が覗いていました。
男はシャンティの手に自分の傷まみれの手を乗せて、しばらくじっと顔を見つめていました。
「…………男か? 女か?」
ようやく男は一言、ぶっきらぼうに訊きました。喉からやっと搾り出したような一言でした。それは、あまりにも直球な質問でしたが、いかにも不器用な男と言った感じでした。
「男の子よ。あなた」
シャンティはそんな質問に優し気な表情と返事を返しました。重なった男の手はわずかに震えていました。
男はシャンティにとっての夫にあたる人物のようでした。
夫のそういった態度に彼女は慣れているようでした。夫が赤子に興味がない訳ではないのがわかるだけで十分でした。きっとただ夫は戸惑っているだけなのだということが彼の口から発せられた短い言葉と手の震えからすぐに伝わってきました。
「…………そうか」男は立ち上がって、揺り籠で寝ている赤子の方に目をやりました。赤子はもうすうすうと寝息を立てていました。すっと音も無く男は近寄りました。「…………生まれたんだな、お前…………こういうときって…………こういうときって何て言えばいいんだろうな」
しばらく、男は立ち尽くし黙りこくってうんうんと真面目に考えていました。それをシャンティもヒルダも静かに見守っていました。するとふとした瞬間に言葉が飛び出したのでした。
「…………生まれましてありがとう、とかかな?」
男があまりにも真面目な顔をしてそんなことを言うものですからシャンティが思わず吹き出しました。ヒルダもそれに続きました。
「ふふふ、あなた、笑わせないでちょうだい」
シャンティがお腹を押さえて笑いました。彼なりの祝福の言葉でした。幸せでした。
「はは、傑作だ。マークガーヤ、あんたとんだ詩人だよ」
ヒルダも大いに笑いました。男の名はマークガーヤというようです。
その声を聞いて、みるみるマークガーヤの顔は気恥ずかしさに赤くなっていって、対照的に赤子の顔は曇っていきます。ついにはとうとう泣き出してしまいました。
ヒルダがこりゃ大変だ、と言いながらあやそうと駆けつけました。
「…………おっと、ごめんよ…………そんなに泣かせるつもりはなかったんだ…………」
マークガーヤが静かにわなわなと慌てます。どうしたらいいかとわからいというふうです。
ヒルダが赤子を抱きかかえました。
マークガーヤがこのとき、抱いてあやすことができたらよかったのですが、彼はまだそこまで踏み込むことができませんでした。まだ、自分の子が無事に産まれたということを完全には整理し切れていないという状態でした。
「急に大きい声を出したらね。赤ちゃんもびっくりするからね」ヒルダがおーよしよしと、上手に慣れた手つきであやしながら言いました。大したものですぐにやがて赤子も落ち着いてきます。すると赤子がおもむろに瞼を開けました。潤んだ瞳が露になります。それを見てヒルダは素っ頓狂な声を上げました。「あれまあ、この子、なんて綺麗な目をしてるんだい!ご覧よ、シャンティ!」
ヒルダからずいと差し出された我が子を抱えると、言われるがまま、シャンティはその目を覗き込みます。
「ええ……なんて……」
思わず、シャンティは声を漏らしてしまいました。そこには宇宙がありました。きらきらと輝く星空をそのまま映した湖面のような、宝石で例えるならブルーサンドストーンのような、吸い込まれそうな美しさがありました。
マークガーヤも近付いて来て、一緒に覗き込みます。
「…………ああ、美しい目だ…………今まで見た、どんなものよりも美しいよ」マークガーヤがシャンティの肩に手を置いて頷きながら言いました。「そうだ…………名前だ…………ぴったりな名前をつけてあげないと」
「ええ、そうね」シャンティは肩に置かれた手に手を添えました。そしてマークガーヤの顔を仰ぎます。「あなた、何か考えてる? 私もいくつか考えたのだけれど、なかなかいい名前がなくって……」
「イーラーケル」
「え?」
マークガーヤのあまりにも迷いのない名前の提案にヒルダは驚きました。
「イーラーケル…………たった今、思いついた…………この目を見てね」
「イーラーケル=アーファンルンク……ええ……いい名前ね。どういう意味なの?」
なかなか聞かない名前でもありましたが、似合っているとも思いました。けれど立派な名前すぎて、この子は後々、大丈夫だろうかと一抹の不安もありました。
「意味はね…………古いシェ―フェン語の言葉なんだけど…………」
マークガーヤもシャンティもシェ―フェン系と呼ばれる民族を共通の祖先に持っていました。
「ええ」
ゆっくりでいい、とシャンティはマークガーヤの呼吸を合わせるように言いました。
それを夫婦の独特の間で感じ取ってマークガーヤがゆったりと間をとって言いました。
「…………『夜の贈り物』だよ」




