第2話 婚約者候補の筋肉は育たない
その日の午後、エリザベスは親友のルルーシュと一緒に王都の人気のカフェに来ていた。
白いテラス席に並んで座ると、店の奥からふわりと甘い香りが漂ってくる。
季節限定のチョコレートタルトが目当てだ。エリザベスは迷わずそれを選び、ルルーシュはいつものようにフルーツの乗ったミルフィーユを頼んだ。
ルルーシュ・アスリト。侯爵令嬢で、おっとりした優しい子。
エリザベスの突拍子もない発言にも、いつも笑って受け止めてくれる。
「ベスは、ほんとチョコ好きよね」
「チョコは筋肉に効くのよ。気持ち的に」
「……気持ち的に?」
そのとき、店の前を通りかかった兵士らしき男性が目に入った。がっしりとした肩から、背中にかけて流れるような筋肉の起伏。エリザベスは思わず目を細める。
「……あの人、広背筋がいい感じに仕上がってるわね」
「え?」
ルルーシュが兵士の方をちらりと見てから、エリザベスに目を戻す。
エリザベスは、まだ兵士の背中を見つめながら、言葉を続けた。
「広背筋って、姿勢を支えるのにすごく大事なの。あそこがしっかりしてると、立ち姿も安定するし、剣を振るときの軸もぶれにくくなるのよ。あと、見た目も美しいし」
「……なるほど?」
エリザベスはルルーシュに視線を戻し、真剣なまなざしで言った。
「筋肉って、努力の証じゃない? 鍛えた分だけ、ちゃんと形に出る。裏切らないの。そういうところが、好き」
ルルーシュは一瞬きょとんとして、それからふわっと笑った。
「ベスって、筋肉が好きだったのね。知らなかったわ」
――ありがたいな。
突然、筋肉の話をしたのに、ルルは自然に受け止めてくれる。
……天使かも。いや、マジで。
そんなエリザベスの内心をよそに、ルルーシュがカップを置いて、ふと思い出したように言った。
「そういえば、カイル様とはどう?」
ーーああ、そうだった。忘れていた。
カイル・グランドル。昨年、婚約者候補になった、公爵家の次男。
顔よし、性格よし、頭よし――三拍子そろった、気品ある青年。
私やルルーシュと同じ年で、一緒に学園に通っている。
毎日穏やかに過ごしていて、仲もいい方だと思う。
でも、恋っていうには、まだ何かが足りない気がする。
「カイルは、穏やかでとてもいい方よ。ほんとに」
私は、チョコレートタルトをひと口かじりながら言った。
「顔もいいし、性格もいいし、頭もいいし……」
「うんうん」
「……あとは、筋肉だけ!」
ルルーシュがミルフィーユを切るのを止めて、目をぱちくりさせた。
「筋肉……だけ?」
「そう、筋肉だけ!全然ないわけじゃないの。でも、足りないのよ。惜しいのよ!」
エリザベスの中で、何かが燃え上がった。
鍛えれば、きっと恋できる。
筋肉は裏切らない。積み重ねた努力が、ちゃんと形になる。
私はそれを信じてる。信じてきた。
だから、カイルにも――筋肉を!
昼休みの学園の中庭のベンチに、エリザベスとカイルは並んで座っていた。
しばらくふたりで他愛ない話をしていた。
カイルはいつも通り、穏やかで優しい。
私の話にも丁寧に耳を傾けてくれるし、笑い方も上品で、隣にいて落ち着く。
……よし。今だ。筋トレ布教作戦、開始!
「カイル、ちょっと話があるの」
「どうしました?」
エリザベスは少し身を乗り出して、話し始めた。
「朝って、何か運動してる?」
「運動ですか?」
「ええ。朝の運動って、体にいいのよ。スクワットをするとね、血流が変わるの。頭も冴えるし、姿勢も整うし、いいことづくめなの」
「へえ……」
カイルは少し驚いたように目を瞬かせて、それから穏やかに言った。
「でも僕、朝は瞑想派なんです」
……ぐっ。そっち派だったか。
翌日。今日こそは、とエリザベスは意気込んでいた。
昨日のスクワットは不発だったけれど、まだ手はある。
「これ、最近話題の栄養補助食品なの。
王族として、試食しておくべきだと思うのよ。ほら、プロテインって書いてあるでしょ?」
「これは……粉末ですか? 味は? 成分は?王族が口にするには、もう少し検証が必要かと」
……ぐぬぬ。慎重すぎる。
三日目。エリザベスはまだ諦めていない。
今日こそ、筋肉の素晴らしさを伝えてみせる。
「最近、姿勢の悪い貴族が増えてるの。だから、筋肉を鍛えて姿勢を正すキャンペーンを始めようと思って!」
「それは確かに重要ですね。ですが、姿勢改善にはまず椅子の高さ調整から始めるべきでは?」
……椅子!? そこ!?
エリザベスは、ポケットからチョコレートの包みを取り出しかじった。
甘さが、沁みる。
「カイル、筋肉って……いいものなのよ」
「エリザベス様の情熱は、いつも素敵です」
……でも、筋肉は育たない。
エリザベスは、もう一口かじりながら、カイルの横顔を見た。
整った顔立ち。穏やかな物腰。
でも――
この肩幅に、もう少し厚みがあれば……
この背中に、もう少し広がりがあれば……
この前腕に、もう少し血管が浮いていれば……!
……ここまできたら、もう後がない。
これでダメなら、潔く諦めよう。
筋肉布教、最後の一手――最終兵器、投入。
「カイル」
「はい?」
エリザベスは、そっと冊子を差し出した。
そこには、手書きの文字。
『初級向け筋力強化メニュー(静音対応)』
「……これは?」
「私が作ったの。騎士団の訓練場を使わなくてもできる、静かで上品な筋トレメニューよ」
カイルは、冊子を手に取り、ページをめくった。
「……椅子に座ったまま腹筋を意識する呼吸法」
「そう! それなら授業中でもできるのよ!」
「紅茶を持ち上げる際、上腕二頭筋を意識する」
「そう! それなら貴族の嗜みと筋肉育成が両立するの!」
「階段は一段飛ばしで登るべし」
「そう! それだけで大腿四頭筋が目覚めるの!」
カイルは、しばらく沈黙した。
そして、微笑む。
「……エリザベス様は、本当に面白い方ですね」
「筋肉は、裏切らないのよ」
「ですが、王族の振る舞いとしては、階段を一段飛ばしで登るのは少々危険かと。また、紅茶を持ち上げる際に腕を震わせてしまうと、品位を損ねる可能性があります。授業中の呼吸法も、過度に意識すると集中力が散るかもしれません」
……撃沈。
私は、最後のチョコレートの欠片を口に入れた。
甘さが、心に沁みる。
「カイル、筋肉って……いいものなのよ」
「ええ。エリザベス様がそう思うなら、きっとそうなのでしょう」
……でも、筋肉は育たない。




