第1節「風が開く扉」
夕暮れの霧結町は、異様な静けさに包まれていた。
子どもたちの笑い声も、商店の呼び込みも、蝉の鳴き声さえも途絶え、町全体が言葉を忘れたようだった。
湊は胸騒ぎに導かれるように、山裾の古井戸へと足を運んでいた。
あの短冊を手にしてから、心の奥に絶えず囁く声があった。
──“トコヨ”。
竹林の中、井戸はひっそりと口を開けていた。
夕陽が沈みかけ、空は赤から群青へと移ろい、風がざわめいた。
そのとき、突風が吹き抜け、湊の手の中の短冊が宙に舞った。
紙片は光を放ちながら、井戸の真上で回転を始めた。
「……!」
風が渦を巻き、木々が一斉にざわめく。
湊の髪と衣服が乱れ、井戸の底から低いうねり声のような響きが立ち上った。
まるで大地そのものが歌っているかのようだった。
短冊の文字が浮かび上がり、湊の瞳に飛び込んできた瞬間、視界が白く弾けた。
気づけば、足元の石段は霧に飲み込まれ、周囲の竹林は透き通る光の粒に変わっていた。
風が一陣吹くたびに、世界の形が崩れ、別の色に塗り替えられていく。
そして──湊は見た。
空と海が逆さに重なり合う、不思議な世界を。
川のように流れる文字が、空を泳ぐ魚のように漂っている。
「……ここが……常世……?」
言葉にした瞬間、風が応えるように吹き抜けた。
その風の中から、一人の少女が現れた。
白衣のような衣を纏い、長い黒髪を揺らしながら。
彼女の瞳は淡い光を帯び、どこか寂しげに微笑んでいた。
「──ようやく来たのね、“詠み人”。」
湊の胸は激しく鼓動し、言葉を失った。
けれど、その声だけは、はっきりと意味を持って響いていた。