第3節「言霊の井戸」
短冊を手にしたその夜、湊は眠れなかった。
布団に入っても、あの声の余韻が耳から離れない。
「……うた……わすれるな……。」
夢うつつの中で、ふと祖母の言葉がよみがえった。
──“井戸の底には、声が棲んでいるんだよ。”
幼い頃、祖母に連れられて行った古井戸の記憶。山裾の竹林に囲まれた場所にあり、もう誰も使わなくなったはずの井戸。祖母はよく手を合わせ、何やら小さな声で祝詞を唱えていた。
翌日、居ても立ってもいられず、湊は一人で山道を登った。
蝉の声が遠ざかり、竹がざわめく細い道を抜けると、そこに苔むした石垣と古い井戸があった。
井戸の周りは不思議なほど涼しく、風が流れていた。
湊は短冊を取り出し、井戸の口にかざしてみた。
すると、紙片の文字がふわりと浮かび上がり、井戸の底から水音のような響きが返ってきた。
それは音でもなく、言葉でもなく、胸の奥に直接届くような声だった。
「……ここに……ことばは……ねむる……。」
湊の心臓が大きく跳ねた。
誰の声かわからない。けれど、確かに“生きている”気配があった。
その瞬間、井戸の水面に小さな波紋が広がり、風が強く吹き抜けた。
湊の手から短冊が舞い上がり、井戸の上で光の粒となって弾けた。
まるで、井戸が呼吸をしているようだった。
湊は震える声で呟いた。
「……祖母さん、これが……“言霊の井戸”……なのか。」
その言葉を皮切りに、井戸の奥から再び声が響いた。
今度ははっきりと、ひとつの言葉を告げた。
「……トコヨ……。」