プロローグ 「世界から、言葉が消えた日」
最初に異変に気づいたのは、祖母だった。
その朝、彼女はいつものように、縁側で茶を啜りながら新聞を読んでいた。けれど、眉をひそめたまま、何度も紙面を見直していた。
「……字が、抜けてる。ほら、これ……。」
湊が覗き込むと、そこには確かに、いくつかの漢字が滲んだように崩れていた。まるで、紙そのものが“記憶を失っている”かのようだった。
「見えづらいだけじゃないの?」
「違うよ。さっきまでは、ちゃんと読めたんだ。」
祖母の声は穏やかだったが、その目は不安げだった。
その日の午後、近所の主婦たちが「炊飯器のボタンの文字が消えた」と騒ぎ、学校では生徒たちが「教科書が読めない」と泣き出した。
テレビでは、キャスターが言葉を詰まらせ、SNSでは「文字が消えるバグか?」と話題になっていた。
でも、それはバグではなかった。
世界が、“言葉”そのものを忘れ始めていた。
ニュースは映像だけになり、看板の文字は空白に変わり、人々の会話は次第に意味を成さなくなっていった。
耳に届くのは、意味のない音の連なり。目に映るのは、白く濁った記号。
やがて、言葉を持たない世界が、静かに日常を蝕んでいった。
祖母はその夜、もう一度だけ、何かを口ずさんだ。
それは、湊が幼い頃、眠れぬ夜に聴かせてくれた不思議な歌──。
言葉の意味はわからなかった。けれど、その声には、なぜか涙がこぼれるような力があった。
それが、湊のすべての始まりだった。