名前の無い村
拙稿『The Outsider ~規矩行い尽くすべからず~』の72話を完結した短編として改稿してみました。
水が少しだけ温んできた気がする3月。
私の皸だらけの指をお爺様が癒してくれた。
お爺様の暖かで大きな掌に、私の小さな掌がすっぽりと包まれる。
「[キュア・ライト・ウーンズ]」
掌の傷が癒えていく感覚はとても心地好い。
この程度の傷は私でも治せるけれど、それをするとお爺様は大層お怒りになられる。
神様の御業の代行を自身の為に使ってはならないと。
神様の御業の代行は村人の為に使わねばならないと。
冬の間、指の痛みに耐えて水仕事をする私への年に1度のお情け。
お爺様が私に与えてくれる最大にして唯一の贅沢。
神様も許してくださるはずだ。
許してくださると信じられるから、私は又1年辛い修行を頑張れる。
勿論、私がそう思っていることは私だけの秘密だ。
言葉に出してしまうとお爺様は哀しむだろう。
私はお爺様が大好きだ。
大好きなお爺様を裏切ることは決して口にしない。
今日は私の20歳になった誕生日。
誕生日の夜だけは毎年幸せに浸って眠れるのだから。
お爺様は手伝いと称して村の若者を連れてくる。
2年前から数ヶ月に1度、数日の間、私と村の若者を一緒に行動させる。
竜精霊の加護を失うわけにはいかないのだから、私は何時か誰かの子を産まねばならない。
私の右肩には竜鱗に見える痣がある。
サトー家の嫁は女子の第一子に痣のある子を産む。男の子には痣がない。第二子・第三子の女子にも痣は無い。痣があるのは女の第一子だけ。
そして第一子の女子は夭折しない。それが竜精霊の加護なのだそうだ。
未だ幼かった頃の真夏。
いつも一緒に遊んでいた男の子が、私の右肩にある痣を見て「蛇の鱗だ」と言って笑いだした。
私が「蛇ではない竜だ」と言い返すと男の子は面白がって「蛇」「蛇」と囃し立てる。幾ら言っても男の子は「蛇」と言い続けることを止めない。
泣いて社殿に戻ってきた私から話を聞いたお爺様は出かけて行った。
後で聞いた話だが、「蛇」と言った男の子は一晩樹に吊るされ、翌朝男の子は父親に連れられて村を出て行った。
その日以降、村でその男の子を1度も見ていない。
その夏以降、私はどんなに暑くとも手足の肌を見せない服を着ている。
5日に1度の村の共同浴場は勿論男女別の時間に入るが、私はいつも1人で入っている。
毎日遊んでいれば良かった子供の日常は、その夏、唐突に終わり、私は神官としての修行に励めとお爺様から命じられた。
村の男の子と話すことはなくなり、それまで親しく遊んでいた女の子も余所余所しくなった。
私には友達がいなくなってしまった。
今更村の若者と一緒になり子を産めと言われても、何か違うと思う。
婚姻から逃げられるのは後何年ぐらいだろうか。
30歳になっても夫婦にならない村人は多分いない。
数年以内に私は村の誰かと結ばさせられるのだろう。
変な時期に行商人がやって来た。
例年行商人がやって来るのは、雪の融けた水で泥沼になった道が完全に乾いた5月。
泥だらけのブーツを拭いもせずに、拝殿に入って来た初めて見る行商人。
愛想はとても良く、こんなに朗らかな人は村にいない。
坂道で転がると止まらないのではないかと、思わず心配してしまう程に膨よかな体型。こんなに丸い人も村人にはいない。
でもあの眼は駄目だ。
お爺様は人を見た目で判断することを許さない。でも駄目。
ヒキガエルを連想する気持ち悪い目で、何度も私の身体を嘗め回し、何かを計算しているかのように私をじっと見つめてくる。
何年も着用を続け着古している服は、私の体型がはっきりとわかってしまう。誕生日までに新しい神官服を仕上げておくべきだったと後悔した。
お爺様が私の為に購入してくれた真新しい白い生地と黒い生地。神様の代行者として相応しくあるために与えられた物でも、継ぎ当ての無い綺麗な生地を私が着ることを許されるのだから、特別な植物で緑に染めた糸を使い、大事に、丁寧に、時間をかけて、旧い絵に描かれた通りの刺繍をしたかったのだ。
珍しいことに、お爺様が激高している。あんなにお怒りになられたお爺様を見るのは初めて。
どうやら行商人の目的は祓殿にある鏡のようだ。
お爺様の剣幕に恐れをなした行商人は慌てて逃げ出した。
いい気味だと思ったことは誰にも話せない私だけの秘密。歳をとる毎に私だけの秘密は増えていく。
そんな事があったことを忘れかけていた頃。見知らぬ少年がやってきた。
少年は少し前に訪れた行商人の使いだと言う。黒に近い肌に、明るい茶色の髪、青い目だった。
この村の人は皆黒い髪。私の瞳は茶色だがお爺様は黒い瞳。茶か黒の瞳の人しかいない。
先般訪れた人も含めて行商に来る人は村人と同じく白い肌。外の人たちの髪と瞳の色はばらばらだ。
黒に近い色の肌をした人をこれまで見たことが無い。
少年はお爺様に何度も頭を下げている。
お詫びの品として届けるように言われた羊が、来る途中の水に当たり下痢をしているそうだ。
少年は繰り返し謝罪の言葉を口にし、お爺様から泊まるように勧められても断って帰って行った。
お爺様は村の人を呼んで、頂いた羊を今夜の食卓に載せると言う。
400人の村人全員に配れないから招く人は籤で決めるそうだ。
私は2日前から月のものが重くて肉を食べる気にはなれない。今夜は食事をせずに早く眠るつもり。
ベッドの上で1日中眠れないから、具合が少し良くなった合間合間に針仕事をする時間が取れたので、新しい神官服を仕上げることができた。
最近はお爺様も私も忙しい。
村では病気が流行っている。
私には話してくださらないが、お爺様も病気のようだ。
お爺様も私も1日に使える神様の御業は限られている。
誰を助けるのか毎日選択を迫られるお爺様はお辛そうだ。
病気には2種類ある。
『お叱り』の場合。怒っている精霊様のお怒りを鎮めるのだ。これは私にもできる。
『呪詛』の場合。これはお怒りが強すぎて私のような未熟者では駄目だ。お爺様のように長年修行を積み重ねられた神官でしかお怒りを鎮められない。
村にはお爺様が必要なのに、恐らくお爺様は明日ベットから立ち上がれないだろう。
私は意を決し、お爺様の休まれている部屋に向かった。
ドアをノックせずに開けて、ランタンを手に部屋へ入る。ベットで休まれていたお爺様は怪訝な顔を私に向けた。
「お爺様。お話しがあります」
「明日の朝では駄目なのかい?」
お爺様は返事をするのもお辛そうだ。
「用件はおわかりですよね」
「いや……わからない。思いつめた顔をしないで優しい顔を向けておくれ」
「聞いてください。お爺様。私の力が足らないばかりに、お爺様にだけ負担を掛けてしまったことをお詫びいたします。ですが、患っている村人はあと数人です」
お爺様は目を閉じられた。でも私の声は聞こえているはずだ。
「明日は[キュア・ディジーズ]をご自身にお使いください」
長い沈黙に思えた。実際には数秒だったのかもしれない。
「それをしてはいけないと既に話したはずだ」
お爺様は目を閉じたまま返事をしてくださった。
「ですが」
「聞きなさい」
初めて聞くお爺様の冷たいお声。
「ナオミの言いたいことは……村人全員を癒す前に吾が神の元へと旅だってしまえば全員を癒せない。そう言いたいのであろう」
「そうです。先ずはお爺様を癒さねば村の人々全員を救けられません」
「お前は考え違いをしている。よいか。全ては神の御心なのだ。誰を救けるか救けないのか、それは神がお決めになられること。吾にこの世でやり残したことがあるのであれば、病は何もせずとも癒える。吾も村人も、今ここにこうあるのは積み上げてきた業の結果なのだ。もしかしたら直近で吾の行った何か、それが『ラクダの背を折った最後の1本の藁』だったのかもしれぬ」
口を閉じたお爺様は目を開き私を見てくださった。
「ナオミ。お前には年頃の娘らしい楽しみを何1つ贈れなかった。どうか吾を許しておくれ」
「そんな……お爺様。私はお爺様と共に過ごせてとても幸せでした。許さねばならないことは何1つとしてありません」
「そうか。そう言ってくれるのか。とても嬉しいよ。ナオミは優しい自慢の孫娘だ」
お爺様は再び目をお閉じになられた。寝息が聞こえる。疲れておられるのだろう。これ以上お爺様のお邪魔はできない。
お爺様への説得は叶わなかった。
あと私にできることは神様にお願いすることだけ。ランタンを片手に拝殿に向かう。
拝殿へ向かう途中祓殿の前を通る。
灯りになるものは何もない祓殿。何故か光が見えた。
光は動いている。夜に断りなく祓殿に入る不心得者は村にいない。いないはずだ。
ランタンのカバーを下ろし、最小の光しか外には漏れないようにして、祓殿を外から覗き込む。
光は鏡を反射して室内のあちらこちらを探っている。
月の光かと一瞬思ったが、月はあんな風には動かない。もともと月光が直接当たる場所に鏡は設置していない。
どの位置から光を鏡に当てれば、あぁいう風に室内を照らせるのだろう。そもそも一旦鏡に光を当てて室内を物色する理由がわからない。
警戒心よりも好奇心が勝った。私はランタンのカバーを上げ、音を立てて祓殿に踏み込んだ。室内が明るくなる。
祓殿には人が隠れられる物陰はない。にも拘らず誰もいない。
鏡を確認する。奇妙な恰好をした男のような肩幅の広い体型をした者が1人。隣に皮鎧を着用した可愛らしい少女が1人。背後にも3人の女性がいる。1人はブレスト・プレートを着用し長い剣を手に持っている。4人の女性は皆信じられない程に美美しい。
思わず振り返って背後を見る。やはり誰もいない。
もう1度鏡を見た。男だろうか? 何が面白いのか可笑しそうに笑っている。むっとした私に反応した少女が、右肘を笑っている者の左脇腹にそっと接触させた。
「ごめんなさい」
お爺様の大きな温かい掌に包まれたような心地好さへと誘う、安心する男性の声。荒んでいた心の襞に沁み入り、気持ちが落ち着いてきた。
でも何故お話を止めたのだろう。もっと声を聞き続けていたいのに。
「聞こえていますか? 」
目の前の男性が困り顔をしている。
何か話していたのに、声は聞こえていたのに、幸せに包まれた感動で全く話を聞いていなかった……
男性と見つめ合っていると、隣の小柄な少女が男性の体を隠すように半歩斜め前に出て自己紹介をはじめた。
スカートに一カ所当て布をしているが、清潔さが印象深いのはセミロングの美しい黒髪のせいだろうか。大きな瞳のこんな可愛らしい妹がいて欲しかった。
後の3人が順番を譲り合っている。男性より少し背の低い、4人の女性の中で最も背の高い女性が前に出てきた。今、家を出てきたばかりのような汚れの無い綺麗なコートと鎧から見え隠れする衣服。
背筋を伸ばし滑らかに歩む姿勢の良さと、心持ち垂れ目だが人形のように整った面て。傷みのないツヤのある短い赤髪が印象的な女性は、見た目で抱いた想像通りの上品で活舌の良い澄んだ声で挨拶を終えた。姿勢と声から醸し出される品の良さに近寄り難さを感じる。こういう人を貴族と言うのだろうか。
私より少し背の低い、茶色のロングヘア。この女性も美しい髪をしている。皮鎧を着用しているが、外から見える範囲で衣服を修繕した跡が見えない。上等そうな赤いショールが綺麗な面てに良く似合っている。憐れむような目線と声が少し気になったけれど嫌味はない。なんとなく、お友達になってくれると嬉しいなと思った。
最後に自己紹介をしているのは私より少し背の高い金髪の女性。何故かこの人の髪だけは私や村の女性のように見える。威圧的な装備は恐ろしいけれど、凛々しい声、落ち着いた物腰。麗しい面てと目を合わせていると「お姉様」と呼びたくなる大人の女性だ。
あっ、女性の方々の話は意識して聞こうと注意していたのに、髪と衣服ばかり見ていたのでお名前しか聞いていなかった……けれども一つだけは確信している。
鏡の向こうの男性は、私の世界を変えてしまうだろうということを。