悪役令嬢の引退計画が、どうしてこうなった
「よろしいですわね、アンナ。本日の計画、最終確認をしますわよ」
「はい、リリアンヌお嬢様。全て拝聴いたします」
王宮のパーティー会場に隣接された、貴賓用の控室。その豪奢な空間で、私は専属侍女のアンナに向き直り、最終ブリーフィングを開始した。鏡に映る私は、深紅のドレスを纏い、吊り上げたアイラインも完璧な、絵に描いたような『悪役令嬢』だ。
「第一段階。ターゲットであるエミリー・ブラウン男爵令嬢のドレスに赤ワインをぶちまける。これは『嫉妬に狂った悪女』を演出するため。よろしいわね?」
「はい。エミリー様が会場の東側、噴水のオブジェ付近にいることを確認済みです」
「よろしい。第二段階。我が婚約者、アルフォンス第一王子殿下が割って入ったら、わざとらしく開き直り、エミリー様を突き飛ばす。これは『反省の色なき暴力女』の印象を決定づけるため」
「承知しております。殿下は現在、国王陛下とご歓談中ですが、エミリー様の近くに移動されるタイミングを見計らってお知らせいたします」
「完璧よ、アンナ。そして最終段階。殿下に『貴様との婚約は破棄だ!』と宣言させ、私は涙の一つも見せずに高笑いしながら退場。これで私は無事、悪役令嬢を引退。念願の辺境でのぐうたら生活が待っている……!」
そう、私の夢は、働かないこと。公爵令嬢としての息が詰まるような教育、妃としての重圧、そんなもの全て投げ出して、田舎の小さな屋敷で一日中パジャマで過ごし、好きなだけ昼寝をし、誰にも文句を言われずにポテトチップスを食べること。そのために、私はこの円満(?)婚約破棄計画に全てを賭けていた。
「お嬢様、本当に……よろしいのですか?」
アンナが心配そうに眉を下げる。
「アンナ。わたくしはもう決めたのです。毎日毎日、歴史だの経済学だの帝王学だの……もううんざり!わたくしは、わたくしの人生を取り戻すのよ!」
「ですが、殿下は……」
「殿下にはエミリー様がいるわ。あの方、健気で可愛らしいじゃない。私のような怠け者より、よっぽどお似合いよ」
これは、私、殿下、エミリー様の全員が幸せになるための計画。WIN-WIN-WINの関係よ。誰にも文句は言わせないわ。
「さあ、アンナ。出陣の刻よ!」
「……はい、お嬢様。武運長久を」
「誰が戦に行くのよ」
高らかに宣言し、私は決戦の地、パーティー会場へと足を踏み入れた。
会場の空気が、熟成されたチーズフォンデュのようにねっとりと固まるのを感じた。よし、最高の舞台だわ。
アンナからの合図を受け、私は優雅な足取りでターゲットに接近する。いたわ、エミリー・ブラウン男爵令嬢。淡いピンクのドレスが、今から赤ワインの餌食になるのも知らずに、友人と楽しそうに談笑している。
(ごめんなさいね、エミリー様。あなたのドレスを犠牲に、私は自由を手に入れるわ!)
給仕から赤ワインのグラスを受け取り、私は完璧なタイミングで彼女の横を通り過ぎた。そして――。
「あら、ごめんなさい。手が滑ってしまったわ」
バシャッ!
計算され尽くした角度で、グラスの中身がエミリーのドレスに美しい放物線を描く。我ながら見事な手際だった。
「きゃっ……!」
「まあ、ひどい!」
周囲から小さな悲鳴が上がる。エミリーの友人がハンカチを差し出すが、気休めにもならない。
「リ、リリアンヌ様……!」
エミリーが震える声で私を見上げる。よしよし、いい反応よ。怯えなさい、憎みなさい!
さあ、早く来るのよ、アルフォンス殿下!そして私を罵るがいい!
「この性悪女め!貴様との婚約は破棄だ!」と!
「リリアンヌ!君という人は!」
来たわ!待ち望んだ声!
私は内心でガッツポーズを決め、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、我が婚約者、アルフォンス第一王子。金色の髪を輝かせ、青い瞳に正義の炎を宿している。完璧なヒーローの登場だ。
「殿下、ご覧の通りですわ。この女がわたくしの視界に入って邪魔でしたので、少し躾をして差し上げたまでですわ」
私は扇を広げ、口元を隠して嘲笑う。完璧な悪女ムーブ。
「――なんて、なんて優しいんだ!」
「は?」
殿下は私の手を取り、ぶんぶんと上下に振りながら、感極まった様子で叫んだ。
「そのドレスの色は、彼女の持つ繊細な美しさを殺していると、そう言いたかったんだろう!桜色のドレスは、彼女の白い肌を不健康に見せてしまっている!だから、わざと汚すことで、僕が新しい、彼女に似合う瑠璃色のドレスを贈る口実を作ってくれたんだね!」
「……え?るりいろ?」
なぜ色の指定まで……?
私の思考が停止している間に、周囲の貴族たちが、ざわめき始める。
「なるほど、そういうことか!」
「殿下は以前、エミリー嬢には青系の色が似合うと仰っていた……!」
「それを覚えていらしたリリアンヌ様が、殿下のために……!」
「さすがはリリアンヌ様、我々には計り知れない深謀遠慮!」
違う。私はただ、穏便に婚約破棄されて、田舎でぐうたらしたいだけなのよ。
「リリアンヌ様……!」
当のエミリーが、感涙にむせび始めた。
「私のために……!このドレス、実は流行遅れの母の形見でして……。家が貧しく、新しいドレスが買えない私を気遣って、殿下とのダンスの前に着替えられるようにと……!ずっと恥ずかしいと思っていたのです!これで心置きなく……!」
「か、形見ですって!?」
まずいわ。これはガチで嫌われるやつじゃないの!計画が根底から覆る!形見のドレスにワインをぶちまけるなんて、悪役令嬢としても一線を超えているわ!
私は焦って次の手を打った。第二段階、プランBよ!
「感傷に浸るなど見苦しい!さっさとお下がりなさい!」
そう言って、泣きじゃくるエミリーの肩をドンと突き飛ばした。よし、これでDV悪女の称号ゲットよ!同情の余地なし!
「リリアンヌ!また君はそうやって!」
殿下がエミリーを支えながら、私を咎めるように見つめる。
(今度こそ……!さあ、言うのよ!「破棄だ」と!)
「――人前で令嬢が涙を見せることが、どれだけ彼女の評価を下げるか!それを案じて、わざと突き放すふりをして彼女を人目から遠ざけたんだな!鬼の仮面を被った天使か、君は!」
「なぜそうなるの!?」
「おお……!そこまでお考えに……!」
「エミリー嬢の今後の社交界での立場まで守ろうとされるとは!」
「リリアンヌ様こそ、淑女の鑑!」
もうダメだ。私の悪女計画、満身創痍よ。何をしても裏目に出る。どうしてなの。私の日頃の行いが良すぎたというの?そんなはずはないわ。私は毎日ぐうたらすることしか考えていないのに。
こうなったら、やけくそだわ!
「ええい、やかましい!お前たちまとめて地獄に落ちなさい!」
私は叫び、近くにあった壮麗なシャンパンタワーに狙いを定めた。
公爵令嬢としての嗜みで叩き込まれた護身術、その中でも最も見栄えのするハイキック。優雅なドレスの裾が翻り、私の脚が美しい弧を描く。
――そして、渾身の回し蹴りをシャンパンタワーに叩き込んだ。
物理的破壊!これで文句ないでしょう!
ガラガラガッシャーン!
シャンパンタワーが派手な音を立てて崩れ、グラスの破片と黄金色の液体が絨毯に染みを作る。
周囲の悲鳴が心地いいわ。ふふふ、見たことか!これぞ真の悪女……!
その時だった。
勢いよく飛んだシャンパンのボトルの一本が、天井で煌めく巨大なシャンデリアを吊っていた、見るからに古びたロープに直撃した。
ブツン。
嫌な音がした。
「「「きゃああああ!」」」
先ほどとは質の違う、本物の恐怖に満ちた悲鳴が上がる。
見上げると、巨大なクリスタルの塊が、ゆらりと揺れて……落ちてくる。
その真下には、さっき私が突き飛ばしたせいでまだ立ち上がれずにいる殿下とエミリーが!
(まずい……!)
ここで二人を死なせたら、私の計画は婚約破棄どころか、国家反逆罪で断頭台行きよ!ぐうたら生活が永遠に遠のいてしまう!
私は無意識に駆け出していた。
「危ない!」
考えるより先に身体が動く。
二人をまとめて突き飛ばし、入れ替わるようにその場に飛び込む。
――ドッゴォォォォン!
凄まじい衝撃と轟音。舞い上がる埃。
……あれ?痛くない。
恐る恐る目を開けると、私は殿下の逞しい腕の中にいた。いつの間に……。
見れば、シャンデリアは、私のほんの数センチ横に突き刺さるように落下している。まるで巨大な鉄の墓標のようだ。
「君は……」
殿下が、見たこともないほど熱い眼差しで私を見つめている。
「僕たちを救うために、あのロープが切れかかっていることに気づき、シャンデリアが落ちることまで計算して、わざとシャンパンタワーを……!」
「……はい?」
「リリアンヌ様は、私たちの命の恩人です!聖女ですわ!」
エミリーが、もはや原型を留めないほど泣きじゃくりながら叫ぶ。
それを皮切りに、会場から割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こった。
「聖女リリアンヌ様、万歳!」
「我らが王太子妃に栄光あれ!」
「リリアンヌ様!リリアンヌ様!」
私は、殿下のたくましい腕の中で、静かに白目を剥いた。
(なんで……?)
もう、疲れたわ。
引退計画は、どうやら宇宙の彼方に飛んで行ってしまったらしい。
王妃にでも何にでもなってやる。
その代わり。
「……ええ。すべて、この日のために」
私はか細い声で、女優のように儚げに呟き、気を失うふりをした。
殿下の腕の中で意識を手放す寸前、私は固く、固く誓った。
(王妃になったら、その絶大な権力を使って、合法的に、お前たち全員の生活を地獄の底に叩き落としてやるわ……!)
遠くなる意識の中、鳴り止まない「リリアンヌ」コールだけが、やけにクリアに、そして最高に忌々しく聞こえていた。
*
数時間後、私が王宮の医務室で目を覚ますと、そこにはベッドを囲む人だかりができていた。
国王陛下、王妃陛下、そして我が父と母。さらに、涙で目を腫らしたエミリーと、なぜか感極まった表情の知らない貴族たち。
そして、私の手を固く握りしめ、心配そうに覗き込んでくるアルフォンス殿下。
「リリアンヌ!気がついたか!」
「……殿下。ここは……?」
「医務室だ。君は英雄だよ。いや、聖女だ」
「はあ……」
「リリアンヌ嬢」
国王陛下が、厳かな、しかし温かい声で私に語りかける。
「君の勇気ある行動、誠に見事であった。アルフォンスの妃として、いや、この国の未来の国母として、これほど頼もしいことはない」
「もったいのうございます」
私は寝台から起き上がろうとするが、殿下に優しく制された。
「まだ寝ていなさい。君は疲れている」
「ですが……」
「リリアンヌ様、どうかご無理なさらないでください。全ては私のせいですのに……」
エミリーがまた泣き始める。もうその涙腺どうなってるのよ。
「エミリー嬢、君のせいではない。これはリリアンヌが、我々全員を救うために起こした奇跡なのだ」
殿下がきっぱりと言う。
「実は、あのシャンデリアのロープは、以前から老朽化が指摘されていた。だが、予算の都合で交換が後回しになっていたんだ。もしあのまま気づかずにいたら、いつか大惨事を引き起こしていただろう。君はそれを、誰にも気づかれぬよう、自らの悪評と引き換えに解決してくれた」
(ただの偶然です)
とは、とても言えない雰囲気だった。
私はただ、曖昧に微笑むことしかできない。
「リリアンヌ」
殿下が私の手を両手で包み込み、真剣な瞳で私を見つめる。
「今まで気づかなくてすまなかった。君がこれほどまでに深く、国のこと、僕のこと、そして民のことを考えてくれていたとは。僕は……僕は、君という素晴らしい婚約者を持ちながら、その表面的な厳しさしか見ていなかった。愚かだった」
「殿下……」
「これからは、僕が君を支える。君の深い優しさと知恵を、僕が誰よりも理解し、共にこの国を導いていきたい。だから、どうか、これからも僕の隣にいてほしい」
プロポーズ?これ、プロポーズなの?
婚約破棄されるはずが、なぜか愛を告白されているわ。
私の返事を待たず、周囲は再び感動の渦に包まれた。
「おお、なんと素晴らしい!」
「これぞ真実の愛!」
父と母は泣いている。嬉し泣きね。私のぐうたら計画が頓挫したというのに。
私はもう一度、静かに意識を飛ばそうかと考えた。
しかし、殿下の力が強くて、手は抜けそうにない。
こうして、悪役令嬢リリアンヌの引退計画は、歴史的な大失敗に終わった。
そして、後に『沈黙の聖女』と呼ばれることになる私の、全く望んでいない英雄譚が、静かに幕を開けたのだった。
(覚えてなさいよ、アルフォンス……。あなたのそのポジティブ思考、いつかへし折って、絶望の淵に沈めてあげるわ……!)
未来の王妃は、聖女の微笑みの下で、最高に邪悪な復讐を誓うのだった。