零へ
「いつも通り」
「天術はなしだな」
茶色の髪を靡かせる姉のホルンと僕は西門の前で対峙していた。
「よっし、いくよ」
姉の合図とともに僕は兄先へと力を集中させる。踏み込んだ土から生じる音が妙に耳に残った。両者、駆ける足で距離を詰めていく。
半身で低い姿勢を取ったまま姉は、僕の懐に滑り込み拳を振るった。それを咄嗟に往なして、右から蹴りを食らわす。間一髪、上腕で防御した姉が、口の端を吊り上げた。その余裕の表情に危険を感じ、後ろに下がり距離を取る。しかし、それを読んでいたのか姉は迷わず肉薄。
なるほど、そういうことか――。
姉は視線をこちらに残して背を向ける。姉と戦うにあたって危惧すべきは後ろ回し蹴り。華奢な体から想像もつかないような強烈な威力を誇っている。今からするのはまさしくそれだ。
だからこそ、僕が取る行動はただ一つ。右回りに円を描くよう振られる足蹴りを、死角となるはずの左手へと移動し回避。空を切る余響が消えぬ前に、強く握った拳で殴り掛かる。
「惜しかったね、カルガ」
「え?」
そう耳へと伝達された時、僕は宙を舞っていた。
姉は、地に着いた右足を軸足に変え、左足で背面蹴りを敢行したのだ。
尻餅をつく僕は、未だ懐疑的な腹と姉に視線を往復させる。
「まだ続ける?」
服に付着した砂を手で払いながら、姉は問う。挑発にも降伏勧告にもとらえられる物言いで、僕は笑ってしまう。
「負けだ、負け」
「よっし、じゃあ今日もあたしが修行内容決めていいんだよね?」
「ああ」
修行、それは僕たちが目指す未来への準備であり計画だった。
「そうだな、今日はね、自然を操る『真然術』の合体技を行いたいと思いまーす」
「いや、マジかよ……」
ここはウォート大陸に属する国イスタルクの城塞都市シル。五十年前までは小さな村に過ぎなかったが、城塞としての機能が期待され、城が建設。それから、多くの人が移住し、今では我が国イスタルクが誇る有数の城塞都市となっている。
そんなシルは今、最重要拠点として重きを置かれていた。その理由は領土の維持。隣国ノーキングが有する堕天軍の猛攻によりイスタルクの領地が失陥し、今やシルが南国境付近に位置するまで前線は下がってしまった。シルが陥落されれば、後方のエスケープ山脈も奪われる事となり、多量な資源と戦況の悪化は避けられない。要するに、シルの陥落はイスタルクを直接危機に晒すのと同等で、これが最重要拠点に置かれる主な理由である。
そのため鎮座するのが、天使に与えられた力『天力』を使用し、人では成し得ない不可思議な技を起こす術『天術』、それを行使して国を守る兵団「光翼団」である。シルは、南部管轄である光翼団第三分団が駐屯し保守している。そして第三分団長であり、南部最強と呼び声高いオーラグレイ・ジアーツこそが我が尊敬する父である。
父は南部管轄であるが故、不在も珍しくはない。よって基本は、祖父、母、姉と従者そして僕の五人で生活している。
家族に寂しい思いをさせてすまないといつも詫びる父だが、シル然りイスタルクを守る父を僕は尊敬しているのだ。僕にとって偉大な父親であり、目指す目標でもあるから。今まで父と同じ土俵に立ちたくて、姉と共に光翼団入団を自身の夢として掲げてきた。
そして今日も光翼団へ入団するため修行へと勤しむのだが、決闘に負けた僕は姉の修行に付き合わなければならない。平和に終わればいいのだが……。
シルの城門を抜け、少しばかり離れた草むらに佇む姉と僕。春風に軽く触られた姉の茶色の髪は、絹の如く綺麗に流れる。草の丈は姉を小さく錯覚させる程に高く、靡かれる草原は蒼穹の雲を幻想させた。いつ見ても美しいこの景色が、僕は堪らなく好きだった。
「カルガ、目標はあの大きな木ね」
想い耽っていると、姉のホルンが一つの大樹を指差し、高低差のない僕の目に視線を合わせる。
「はあ……あの大樹ってじいさんにとって大切な木だぞ? 目標にしたら絶対ダメだろ。他を目標にするぞ」
祖父が『わしを語る上で欠かせないのがこの木だ』と豪語していた。
目標とされる大樹は、壮大で威権を示している。草の空に独り身で立つには明らか浮いている存在だった。
「でも、昨日じいちゃんが燃やしても良いって言ってたでしょ?」
首を傾げて尋ねる姉に僕は嘆息を零す以外になかった。
「言ってたけどな。あまり気持ちいいものでもないだろ」
「目標としては最適だし。よっしやろう、カルガ準備はいい?」
そう頷き、前を向く。
これが姉お得意の自己完結である。一人で考えたと思うとすぐに傍若無人な行動を取る。
「本当にやるのか? 母さんに怒られても責任は取らないぞ……」
こうなっては何を話しても無駄。諦めるほかない僕は、渋々掌を大樹へと向ける。横から見える姉が微笑しているのに対して妙に腹が立つ。
本当に姉は自分勝手な人だ。羨望の念を抱いてしまう程に。
「いくよー、せーのっ!」
口を大きく開けて姉は、お馴染みの掛け声を放つ。
咆哮と同時に僕の掌からは炎が、姉からは突風が放たれた。
炎は、突風と融合してより大きく巨大に。そこから周りを巻き込んで大きな横渦となり、草を焦がしながら一直線に大樹へ。呑み込むように草原も大樹も全てを燃やし尽くした。焦げた匂いが鼻の奥へ届く。草むらが火の海になるほどに大きな炎の渦が出来上がってしまった。
姉は、拳を握ってから「よっし」と一言。
「あーあ、燃やしてしまった……」
僕はというと姉みたく喜ぶ気にはなれなかった。
大樹は、下の根本を焼かれて地面に倒れかかり、そのまま灰へと化す。
「大丈夫。ママにはバレないって」
「この有り様でどうやってバレないって言うんだよ」
「はいはい分かったから、切り替えて。切り替えが悪い男は嫌われるよ」
「これで切り替える方が断然嫌われるわ」
「ふふふっ。技も成功したんだし帰ろ」
姉は上機嫌に鼻歌を歌いながら踵を返すが、
「え」
その呑気な行動に自然と驚嘆の声が溢れた。
「いやいや、ちょっと待って。帰る前にやることあるだろ?」
僕は、速歩きで背を向ける姉を呼び止めた。振り向いた姉は、目を眇めている。
あ、これ姉さんが変なこと言うやつだ。
「何、トイレ?」
「違う」
「大丈夫、あたしママには絶対報告しないから。安心して奥の森で済ましてきなよ」
「だから違う」
自然とため息が零れる。姉さんは変わらない。
「生憎、あたしは分からないよ。どうせ大した事じゃないんでしょうけど、言ってみなさい」
腰に手を当て怪訝な様子の姉は、独善的な態度を取ってきた。これに気づかない姉って目ん玉付いてんのかな。
馬鹿な姉へ分かりやすく件の場所に顎をしゃくりながら問い掛ける。
「これどうするんだよ?」
「あ……」
これとはまさに目の前に広がる火の海のこと。膝の高さまである草むらが勢いよく燃え盛っている。
「あ、燃え盛った手遅れの炎の事ね。分かってたよ」
「分かってなかっただろ? しかも自分で手遅れって言ってるし。本当にどうするんだ?」
「火式のカルガが頑張って消してよ」
弟なら出来るでしょと期待の眼差しを送る姉だが、不可能を押し付けられるほど酷なものはない。僕には対処しようがないのだ。
「火を火でどうやって消すんだよ。僕達の真然術じゃ操れはしても消せやしないぞ」
真然術。それは天術の一種であり、特定の自然を放出したり操作する術のこと。火式、風式、土式、水式の四つ存在がしていて、主に一人の人間には一つの自然が使用できる。天術を扱うにあたっての基礎であり、誰もが最初に習得する術だ。
先程の合体技も真然術の一環であり、姉の持つ真然術「風式」と僕が持つ真然術「火式」を同時に同じ出力で同じ目標へ合わせる事で可能となった。息が合う僕たち姉弟であるからこそ可能な芸だったのだ。
そして、ここからが本題なのだが、真然術には相性が存在する。火式には水式、水式には土式、土式には風式、風式には火式が強く、ある程度だが自然の摂理に遵守している。常識的に言えば、燃え盛る炎に対抗できるのは水式だけだが、姉は風式で僕は火式。僕と姉では燃え盛る炎を助長させてしまう。そう、僕達では解決には至れない。
「冗談だよ。でもさー、火ってこんなに消えないものだっけ? いつもならほっといても大丈夫だったのに」
「さぁどうだろな。合体技の威力が強すぎたんだろ。本部から水式の天術者を呼んできて消してもらおうか?」
僕達で消せない以上は、応援を呼ぶしか方法はない。面倒くさいが本部に戻らなければ。
乗らない気持ちを抑え、燃え盛る火へと背を向けようとした時、
「いや、その必要はないよ」
粛然とした面持ちで炎を見つめる姉に止められた。僕等じゃ消せないことは流石にもう分かっているはずだが。
「何故だ? 火が隣の森に移るかもしれない。早急に手を打つ必要があるだろ?」
この時は、ただただいつものバカ全開な姉でいるのかと思った。だが、この後の言葉を聞いて憂慮していた気持ちが全て吹っ飛んだ。
「あたし、【源変】を習得したから」
澄ました表情で口にするのには、余りにも釣り合わない言葉。驚愕した僕は、大きく口を開いた。
「げ、源変⁉ 源変って真然術を強化する技の事か?」
「うん、そうだよ」
「天術者の三割しか使えない技だぞ?」
「うん、知ってるよ」
「嘘は付いてないのか?」
「うん、あたしは【源変】を使用できるよ」
源変とは、自然を操る真然術に天力の塊である「揺灯」を与え、新しい性能の付与や性質の強化を行う技。分かりやすく言えば、真然術の強化版である。
一般的に源変の習得で苦戦するのは、「揺灯」だ。自身の体に所持する天力を外へ放出し、炎のような姿を形成させれば「揺灯」となるのだが、それは簡単なものではない。そこに至るまでの集中力、単純なる天力の容量と放出量が関与してくる。だから、生涯かけても「揺灯」を習得できない天術者が七割も出てきてしまうのだ。姉は僕より一歳年上の十五歳。この歳で成功させたのなら将来エリートコース確定。逸材とも言われようか。
しかし姉が仮にできたとして、火を消せるかどうかの話は変わってくる。何故なら、「源変」は人によって性能や性質は変化するものだから。姉の風式がより強力な技になるのは疑う余地もないが、姉の「源変」が火に有効打を与えられるかは今だ不明だ。
「カルガ! ちゃんと見ていてね」
胡乱な目で見つめる弟を見て逆に燃える状況になったのか、姉は自信満々に口角を上げ、目つきを変える。
十四年間一緒に過ごしてきたから分かる、これは冗談ではない。姉は至って本気だ。
右手に風を纏わせる。姉らしい優しく穏やかな風を。
次に左手へと目線を変え、拳を強く握った。天力を集中させているのか、体の震えが止まらないでいる。
自身の手を睥睨する姉の瞳には、研鑽が映ったような気がした。
数秒かけ、身震いを静かに抑えていく。刹那、手の奥底から光の粒が溢れ出した。抑えきれなくなった天力が光に姿を変えて形を形成させる。その形相は、まるで揺れる白い炎のようだった。
「揺灯! 本当に出来るなんて……」
「よっし、準備は整った。いくよカルガ!」
姉が一歩前に出る。華奢な背中は、何故かこの時だけ大きく見えた。不安は一切隠れていない。
焼け切った灰が頬に触れる。未だ炎は、食いしん坊の如く雑草を食らっていた。これ程大規模になれば、先程の技を超える大技を繰り出さなければならない。しかし、不思議なことに今の姉にはそれすらも可能と思わせてしまう。
僕は、久しく姉に期待してしまった。
「【源変】――【冷風】」
透明で壮麗な声音は、もはや苛烈な炎も消してしまう程の気迫を纏っていた。
前に伸ばしていた右手と揺灯を放つ左手とを重ね合わせる。一瞬の閃光が彼女の手を支配すると、白く凄絶な冷気が辺り一面を襲った。
一瞬の出来事だった。
風が走る。
瞼を開けるのが困難な程の衝撃に襲われ、腕で覆う。
足元は凍える程寒く、この温度に懐かしさすら感じる。冷涼な空気がまるで針で突き刺す様な痛覚を与え、体から体温を奪っていく。
彼女は、ただ悠然と前だけを見つめていた。
そこで漸く広がる景色に瞠目する。
今景色を彩るのは、燃え盛る赤の海でもなく、靡く緑の空でもない。
白き薄氷の大地であると今更ながらに気づくのであった。
「消えた」
そう小さく呟く姉は、少しだけ拳を震わせている。それは疲労からか、歓喜からか、はたまた緊張からくるものかは読み取れはしなかった。
「凄くない? 凄いでしょ?」
振り向きざまに自慢するいつもの姉を見て苦笑が零れた。いつもの姉で正直安心した部分が大きかったのかもしれない。
「素直に凄いな」
「珍しいね、あたしを褒めるなんて」
「いつ特訓してたんだ?」
「特訓なんてしてないよ」
「いや嘘つけ」
「……」
「ハハハッ」
「ふふふっ」
一瞬の沈黙の下、僕達は笑いあった。
発する言葉は、冷気に晒され白く彩られる。しかし、会話をしている中で寒さは感じなかった。姉は馬鹿で自分勝手で雑な人間だけど、人望に溢れ才能に恵まれ、何より温かかったから。そんな姉と過ごす毎日には、自分の笑顔が無数に転がっていて堪らなく好きだった。
問題は無事解決に至った。帰宅の道は話す話題が多いだろう。
そうして帰路につこうと足並みを揃えたその時、唐突に蒼白な光が辺りを大きく覆った。
反射で手を眼の前に持ってくる。
激甚なる白光に襲われた後、空間が揺れ動く程の轟音が耳を劈く。
思考が止まった今、頭を激しく振り自身を正常な状態へと戻した。蒼穹から矢のように放たれた雷が奥にあるエスケープ山脈へと落ちたのだろう。
「雷? どうして?」
姉の声は震えている。
唖然とする僕らは、原因を見出そうと空を仰いだ。
「さっきまであんなに晴れていたのが突然……姉さんやっぱりこれ」
不安を拭おうと咄嗟に姉を覗き込んでしまう。姉の瞳は声と同じく揺れていた。迅雷一つでここまで恐怖を与えるものなのか。いや、違う。これは普通じゃない。
「うん、何かがおかしい……」
ついさっきまで晴れていたのが嘘の如く、落雷した幻象に違和感を感じざるを得ない。幻視したのではないかという疑問が脳裏に過るが、すぐに一蹴される。今も迅雷と轟音の威圧に体が震えていることが何より現実である証拠だった。
「カルガ、落ちた場所は?」
「エスケープ山脈。多分、英雄が眠る石碑がある場所だと思うが」
落雷の場所、それはエスケープ山脈にある光翼団の英雄が祀られる墓地だと感じた。
刹那、悲痛な叫喚が鳴り響く。
僕と姉は、確認し合うように瞳を合わせた。
「悲鳴が聞こえたのは落雷した場所とほぼ一緒だ」
「よっし、行くよ。カルガ」
青天の霹靂。謎の悲鳴。何かがすぐ側で起きている。
二つの音源の元へ駆け出す僕たち。小刻みに震える拳を強く握りながら。
音を辿って、仰ぐほど樹木が生い茂る山に足を踏み入れた。僕達が目指しているのは、我が国イスタルクでも有名な場所、シルの英雄が眠る石碑だ。墓地は、エスケープ山脈の中間に位置する。そのため石畳の階段が整備されており、僕達は墓地に続く一本道をただひたすらに従えば良い。
木漏れ日が僕たちを歓迎するかのように差し込んでくる。四方八方自然に彩られる中、鋭利な枝を押しのけ、眩しい程に真っ白な雪を踏みつけ、侮蔑する程に頑丈な石畳を力強く駆ける。
漸く奥が開き、見覚えのある光景が映し出された。
平らに整地された中間地点には樹木が存在せず、木漏れ日ではなく空から溢れる光が自然の照明として辺りを照らす。
光翼団の石碑達は誰かを迎え入れるかのように綺麗に並べられていた。厳粛に整列する石碑を見ると、いつも異様な雰囲気を肌で感じ、自然と畏敬の念が湧き出てくる。
「あ、ファースト家の石碑の近くで誰かが倒れてる」
横にいる姉が指を指し、僕に知らせる。
指を指す先に目を移す。僕達が見つめる先は、真正面にあるファースト家親子の二つの石碑。ファースト家二つの石碑は、他の石碑が横一列に並ぶ中で、正面で威容に構えている。
それは、兵士を従える王のように厳然たる振る舞いだった。
そして、王のように佇む二つの石碑の下に青年が一人、うつ伏せの状態で倒れていた。
駆け寄って見てみると周りの雑草が焦げている。やはりあの迅雷を受けたのであろう。
冷や汗が頬を吊たる。落雷を受けた場合、人は最悪死に至る。というか、あの迅雷を諸に喰らってただで済む訳が無い。早急に治療を施さなければ……。
「姉さん、はやくこの子を本部に運ばないと。随分とまずい状態だ」
「分かった。戻って救援を呼ぶ暇なんてないしあたし達だけで本部まで運んでいこ」
僕は光翼団が戦う姿を間近で見ていた。人が死ぬかの瀬戸際、どの様に行動すれば良いのか大体は把握しているつもりだ。
青年の様態は、まさに重傷。息はあるがこのまま何も処置をしなければいずれ死ぬ。それとこの傷。落雷で受けた傷だとは思えないが、何と酷い有り様だ。
背負ってみると体重はそこそこあって、筋肉で引き締まった体躯をしている。
「意外と重いな」
「あたしが運ぼうか?」
「いや僕が運んでいく。でも何かあったら僕を姉さんが守ってくれ」
「よっし! この姉さんに任しておきなさい!」
胸を叩く姉。こういう時は信頼出来るんだよな。
深く息を吐く。ここからは、純粋な体力勝負だ。第三分団本部、ましてやシル城門までもかなりの距離がある。間に合うか、時間がないな。
青年は、自然現象として落雷を受けたならば相当な悪運の持ち主だ。それに晴れた空から雷が落ちてくるのも常識的に有り得ない。ここは、シルゆかりの石碑。そして、倒れた前の石碑こそ祖父が最も世話になったファースト家親子二人の物だ。誰か人が絡んでいても可怪しくないとも思う。しかし、周囲に人影は見当たらず、何か不自然な様子も今のところはない。流石に短絡的か。
いや、待て。思考に回す時間はないだろ。とにかくまずは青年の命を救うこと。今僕に課された任務はこれだけだ。
全力疾走で走り抜けたおかげか、予想以上に早くシルへ戻って来ることができた。城塞都市の守りの要である立派な城壁が見えてくる。シルは高台に造られており、坂道を駆けてきたため、僕を含め二人とも息が荒い。
「ホルン様、カルガ様お帰りなさいませ。その背負っている男はどうされたのです?」
城門の前へ着いて早々、見張りの兵士に声を掛けられる。城門は、馬や大勢の兵が行き来しやすいよう大きく造られている。それでいて、門番が二人ではどこか心細く感じてしまう。
「さっき運悪く雷を受けて危険な状態なんだ!」
「それは、急がなければ。今日、モナ副分団長は一日中本部に滞在されていると伺っております」
「母さんは本部に居るのか。助かる!」
僕達の母モナは、この城を守る光翼団第三分団の副分団長でもある。門兵が母さんの居場所を教えてくれたのは、母さんが天術でも特殊な【戦復】を習得しているからだ。
【戦復】は、身体を復元する術。この戦復の効力でなければ、青年が助かることはないと門兵も僕も判断している。
急いで門を抜け、シルに入る。
そうして最初に目に入るのは、正門から本部へ続く市場の大通り。喧騒な市場は、笑顔と優しさに溢れている。一度だって活気を忘れたことがない。
「あれ? ホルン様とカルガ様だ!」
「分団長御子息が帰ってきたぞー!」
「おかえりなさーい」
父のオーラグレイが第三分団長であることから、僕達は多くの人から認知されている。だけど、慕われる理由は父のお陰だけではない。
「ホルン、うち寄ってくだろ? 新作の料理を作ったんだ。食べて行ってくれよ」
「これ、今日採れたリンゴよ。ホルンちゃん、持って帰っていって頂戴」
「ホルン、ホルン、いっしょにあそぼー」
「みんなーありがとう! でも今急がないといけないの。ごめんね」
慕われる理由は全て姉にあった。
姉の人望は、父に勝らずとも劣らない。優しく誰とでも気兼ねなく接し、そして同世代で別格に強く将来有望。逆に慕われない方が難しかった。
僕はその見飽きた光景に目を逸らす。今は余計な事を考えたくはない。
「あたし、先に本部へ行ってママに事の詳細を伝えてくる。その方が良いでしょ?」
提案を投げかけた姉の方を向くと真剣な眼差しで送られた。
本部はシルの中央に構え、城の真横に位置する。正門から本部への距離はお世辞にも近いとは言えない。詳細を伝えてもらうだけでも生存率は高まるだろう。
「そうだな、僕が責任持ってこの子を運んでいく。いってらっしゃい」
やはりこういう時は頼りになるな。
青年を抱えて走り続けそろそろ体力も限界に近づいてきた頃、本部の前に二人の人影を確認する。
鷹揚な立ち振舞をしている母さんと姉の姿があった。
僕を視認したのか、母さんが走って迎えてくれる。
「お疲れ様、カルガ。ここからはこの母さんに任せておきなさい!」
「うん、ありがとう」
息を切らしながら僕は、母さんに青年を預ける。
本部の中にある治療室へ運ばれるまで付き添い、扉が閉まるまで目を離さなかった。
僕たちは全力を尽くしたが、これ以上は何もできない。手持ち無沙汰となった僕は、力が抜けた代わりに疲れが押し寄せてきた。体力的なものではなく、精神的な疲れが。
僕は「死」を恐れている。それが他人であれ不変だ。誰も死んでほしくはない。それが僕の信念であり、我儘な願いなのだ。だから守りたかった。これが自分のためだったとしても。自分が呪縛から解放されたい一心で彼を救助した悪辣な行いだと知っていても。
姉は本部の外へ出た様子だったので、追いかけてみる事に。本部の外扉、その横にある木製ベンチに座り、夕日を眺める姉の姿があった。
僕は、姉の横へ腰を下ろし、昏く長い影を落とす。
視界を前へ向けると映るのは綺麗に整ったシルの町並み。今いる本部は、少し高く盛り上がっていて景色を見るには最適な場所だ。
陽が城壁と重なり、空は蒼白から橙色へと変わっていく。宵闇に迫る天は、いつものように自身の影を朦朧とさせる。自分が取り巻く心の影に慈悲深く接してくれているかのように。
「綺麗だね」
「綺麗だな」
長い沈黙が訪れた。姉は自ら放つ神妙さを隠しきれてはいない。いや、隠すつもりもなかった。
「あの子助かるかな?」
「うーん、どうだろうな……」
「気のない返事。まあいいや。あたしね、人が死ぬ所は何度も見てきたけど、自分の行動が人の死に直結するのは初めてだった」
「姉さんは特に何もしてなかったけどな。いてっ」
僕の発言が気に入らなかったのか、強く頭を殴ってくる。
「人を救おうとする時こんな感覚に陥るのなら、あたし達が未来で命を懸けて戦う時はどんな感覚なんだろうと。そう考えてしまって……」
「やっぱり姉さんは、光翼団に入るつもりなんだな」
「当たり前でしょ。それが夢であり、パパから生まれたあたしの使命でもあるから」
血筋や家系である程度の差ができてしまうのが天術だ。光翼団の幹部も名家ばかり。努力では覆せないほどに才能を重視するこの世界で、姉と僕が光翼団に入って戦うのは必然と言ってよかった。父の子である時点で逃げることは許されてはいない。
「カルガはさー、死ぬのが怖い?」
揺れる姉の声は、多分僕でなければ聞こえない。それほど小さかった。
僕の回答に怯えたように、自信無さげに。
「さあ」
「真面目に答えて」
真面目に答えて、か。
上を見上げてみると、悠然に背を向けるカラスが塔で鷹と対峙していた。鷹は、鋭い眼光でカラスを見定めている。負けじとカラスも牽制する様に咆哮を放つ。どうしてか、僕にはカラスの気持ちが分からなかった。弱者が強者に抗う気持ちが。
深い息を落とす。
「僕は」
僕たちは、他人の死を見て死に慣れている。だが、慣れているからといって恐怖を感じない訳ではない。僕にとってすれば死に慣れたからこそ、更に死への恐怖が強まった。死に慣れてしまう程に僕は、死に逝く人を見てしまった。
命を捧げ国を守る光翼団に入団するのが、使命で絶対。偉大な父の息子である僕は、光翼団で活躍しなければならない。だが、僕はその未来に納得できなかった。いや、納得はしていたんだ。しかしそれも、あの時に変わってしまった……――。
表向きは光翼団入団の夢を掲げているものの、実現は望まない。
僕は父を超える才を持ちながら、光翼団に入団できない程の実力に制御している。
皆を騙して不変の弱者を演じているのだ。
「僕は、死ぬのが怖いと昔から思っているぞ。弱者だからな」
しかし、理解はしている。逃げてばかりではいけないと。確かに光翼団の入団を回避すれば死ぬ確率も十分減るだろう。しかし、そう簡単なものではない。そう簡単なら悩みはしない。
「実はね。あたしもね、死ぬのが怖い」
照れ臭そうにはにかみ、共感の意を示す姉。
それが、僕は意外に感じた。姉らしくもない。馬鹿な姉が自分の考えを持って言葉にする事が余りにも似合わなすぎた。だからこそ、続くであろうこの先の言葉に身構えてしまった。
姉は下唇を噛み一拍子おいて慎重に優しく言葉を紡いでいく。
「だけど、戦うことが怖い訳じゃない。あたしには絶対の自信がある。負けない自信が、死なない自信がある。カルガも、きっとそう。さっきカルガは自分を弱者だと卑下したけど、あたしはそうは思わなかった。カルガは、死だけでなく変わらない自分にも恐怖を感じているから」
「……それがなんだって言うんだよ。変化しない自分に恐怖するのは、自ら弱い人間だと主張してるもんだろ?」
「それは違う――」
先ほどとは違って、優しくも厳粛な声音で否定する。気持ちと連動しているのか、前屈みで見つめ直してきた。
瞳が弱く揺れている。それは何かに畏怖しているようだった。死なのか、はたまた……。
慈悲深い剣幕で姉はこう続ける。
「――不変を恐れるのは強者の条件であり証拠だよ。カルガは、決して弱くなんかない」
「何だよ……それ……」
理路整然なる言葉を浴びせられ、思わず俯いてしまった。姉の気迫に押されたのも理由としてあるが、羞恥が垣間見える心を晒したくはなかった。
「あたしは戦う。光翼団に入ってこのシルを、いやこのイスタルクを平和に導く。カルガも本当はそう思ってるんでしょ?」
「買い被りすぎだ。まず僕は弱い、光翼団にすら入団できない程にな」
「カルガはさぁ……。いや、ううん。やっぱり何でもない」
姉は首を振って下を向いた。
それから長い静寂が訪れた。どれだけの時が過ぎたのだろうか。
本部の中から走り音が聞こえる。僕は立ち上がり、本部の中を覗くと息切れする母さんが目の前に来ていた。
母さんが僕たちの所へ来る理由は一つ。姉さんは、その事を察し口を開く。
「あの子は……どうだったの?」
「命に別状はなかったわ」
助けることができた。この事実は、冷ややかな汗を止めるには十分すぎる理由だった。
深く息をついてしまう。それでもこれまでとは違う息。
「よかったー! あたし達はなんとか間に合ったんだね」
「これは僕のおかげだな」
「まあ今回はそういう事にしておく」
姉と拳をぶつけ合った。
姉も相当心配していたらしく、漸く安堵した笑顔を覗かせる。
「……けど」
だが、まだ話は終わっていなかった。
浮かない様子の母。憂き目を見たような、そんな様子だった。
「けど――?」
その先を言い出せない母を見て、姉は答えを求めるように復唱した。
「あの子……記憶がないのよ。自分がどの様な名前かさえも……覚えてない」
一瞬にして言葉を失う。記憶がないって……。また、僕は救えなかったのか、人の人生を。
待て、大丈夫だ。僕達に非はない。彼の命を救ったのは僕達だ。この事実に変わりはない。それに関与してなかろうとも記憶は失っていた可能性も考えられる。雷の衝撃が原因かもしれないし、あるいは他の事情によってかもしれない。とにかく僕達が嫌疑をかけられる心配もないわけだ。僕は彼を救った、そうだ、そうなんだ。
「――ルガ! カルガ!」
「ん……どうした?」
気付いたら姉さんが、僕の両肩に手を当てて揺らしていた。
「どうしたじゃないでしょ? 大丈夫?」
「平気だ。何だよ心配そうな顔して」
「ほんと? ならいいけど……」
「二人共、付いてきて。あの子に会わせるから」
母さんと姉さんが重たい足を進める中、僕は外の景色に目を逸らした。
すると、先の鷹が咆哮しながらシルを去って行く場面を目撃する。
頭に残る残像。記憶は好意的に忘れ去る事はできない。
このような無駄で甲斐がない出来事も記憶してしまう自分を遺憾に感じ、憤慨した。
重い瞼を開ける。目は光を拒み、順応するのに時間を要した。
何十年か昏睡していたような気さえ起こす程、身体は正常に動かなかった。
自分が寝ているのは、白いベッドの上。煉瓦で囲まれて、質素で飾り気が全くない部屋の中。ろうそくが置かれ、薄暗い部屋を照らしてくれている。
自分は何処に居るのか、何一つとして分からない。
風と共に靡くカーテンが目に止まり、窓の外から景色を確認するべく上半身を起こそうと試みるも、
「いてっ」
全身に激痛が走った。自分はいつこの様な大怪我をしたのだろうか。
目線を下ろし、痛々しく巻かれた包帯を見てそう思う。
「起きたのかしら?」
薄紫色の髪を肩まで伸ばした麗しき女性が部屋に入ってくる。
手には果物が入った籠を持っていて、それが自分のためだとすぐに分かった。
「やっぱり傷が痛む?」
近くに配置してある椅子へ腰掛け、問いかける。
この人が、怪我を治してくれたのだろう。
「動かそうとすると少し……」
「そう。尽力はしたんだけど、痛みを完全に消すことはできなかったみたいね。私の力不足だわ、ごめんなさい」
「いえ、大丈夫です。そんなことより、ここはどこなんですか?」
さっきから気になっていた疑問を麗人にぶつけてみる。
「ここはね、拠点シルの光翼団第三分団本部の中だわ」
「ん? もう一度聞いてもよろしいですか?」
「あ、聞き取れなかった? 今いる場所は国イスタルクの拠点シルの中――」
頭が真っ白になる。一つとして思い当たる単語が出てこない。いすタるク国?拠点シル?こうよく団?なんだそれ……。
包帯を巻いてベッドで横になっていたこの地は、自分の見知らぬ土地だった。
「どうかしたの? 体調が悪化してきた?」
助けてもらって、また迷惑を掛けるなど流石に申し訳が立たない。もう少し、もう少し自分は気丈に振る舞うべきだ。
「いえ、大丈夫です。少し考え事を」
「ならいいの。あ、自己紹介がまだだったわね。私はモナ、何かあたったら気軽にモナと呼んで」
自分も自己紹介をしようと口を開いた。
「自分は……」
なぜだろうか。声が喉に詰まる。不思議と思考が止まった。
「じぶんは……」
この後の言葉が付いて来ない。名前なんて忘れる訳ないのに。
「ジブンは……」
記憶は、水のように掴み所がなく、確信に触れようとすると霧散する。闇に囲まれ、鎖で封印されているかの様だった。思考を回す、回してみるが、全くとして意味を為さない。自分が存在しているか自体怪しく感じてくる。
怪我を負い、包帯を巻きながら上半身を起こし、冷汗を掻きながら心拍の鐘を早く打って、今考えている、ジブンは。
いやジブンじゃない、オマエは。
「――オマエは、ダレだ?」
記憶は――、
零へ。