最悪!
雷。
雨音が激しく響く中、自分は真っ黒な空を見上げている。
ここはどこ?
どうしてここにいる?
そうだ、僕。
僕は。
「貴様は常に苦しそうだな、カタルよ」
振り返ると、軍服を着た女性が、水溜りを蹴りながら歩いてきた。楽しみの中にも憐れみを湛えた笑顔。
彼女は長いまつげを伏せると、忠臣のように跪き、僕に向かって頭を垂れた。
「いや……魔王様」
その低い声に呼応したかのように、再び雷が落ちる。
どうしてこうなってしまったんだっけ。
人生は最悪なことの連続だ。
ぴぴ……ぴぴぴぴぴ……。
アラームが鳴り響いている。僕は手を伸ばし、スマホの画面を素早く操作した。
もう一度布団にくるまろうと身じろぎして、ちょうどいい角度を見つける。眠りにつけそうだ、と意識を手放しかけた瞬間。
唐突に、自室の扉が大きな音を奏でながら開かれた。
「たまには早起きしろ、カタル!!」
聞き慣れた声。
まどろみから抜けきれないまま、僕はふわふわした声で返事をする。
「母さん、今日は休日だよ……」
「違う、問題は学校じゃない! カタリのことだ!」
カタリ。聡明な姉の名。
思い出すと同時に目を開く。今日は姉が、とある組織に入団する日だった。
「あ、そっかぁ……しばらく会えないし、挨拶しないといけないよね……ふわぁ」
まだ上がりきらないまぶたをこすりながら起き上がり、床に足を下ろす。
面会はできると聞いているが、毎日は会えなくなるのだ。これから国のため世界のために働く姉を無視するなんて、たとえ反抗期だったとしてもみっともないだろう。
応援の言葉くらいきちんと送ろう。そう考えていると。
「違うんだ、カタル……」
母の、低く沈んだ声。
「実は、カタリが熱を出した」
「えっ?」
どれほどの熱なのかは分からない。しかし母の様子から推測し、姉が簡単には動けない状態なのだろうと察した。
姉が今日から入る騎士団。令和がはじまって数年経つこの時代に騎士団というワードは馴染んでいないが、何よりも必要だと言える組織だった。
化け物と戦うようだが……一般人の僕はニュースですら化け物を見たことはなかった。
「それって姉さんヤバくない? 入団式は時間厳守、遅れたら二度と立ち入れない。名誉を捨てたとして迫害されてもおかしくない……って聞いたけど」
「今日の入団式に行けなかったら終わりだ。最悪お前たちの父親が職を失うぞ」
「そこまで!?」
「とはいえ母親として、あの状態のカタリを動かすわけにはいかない。……ってわけで」
母は、殴りそうな勢いで、僕の方を掴んだ。
「お前が代わりに行ってくれ!!」
「は!?」
想像もしていなかった提案に、間抜けな声を返す。
僕と姉はよく似ている。困ったときは姿を交換することもあった。だが、さすがに、今回は厳しい。
なぜなら。
「む、無理でしょ。騎士団に入れるのは、優秀な『女の人』だけなんだし」
筆記も面接も実技も受けていない……だけならまだしも。男である僕は、最初から問題外。
だが母は諦める様子なく、食ってかかるように懇願してきた。
「頼むカタル! 面会のときに入れ替われえば問題はない!」
「そんなこと言われても……」
「カタリの努力を、無駄にしてないでやってくれ……!」
断ろうと口を開く。
と同時に、過去、姉と会話したときの記憶が脳裏に蘇った。
『カタル、私が代わりに学校に行く』
いじめられているのだと、姉に打ち明けたときの記憶だ。当時から凛とした様子の姉は、僕を救うことをためらわなかった。
『任せてカタル。何があっても守ってあげる』
その日の放課後、姉は傷だらけになって、ふらふらと帰ってきた。そして翌日には、僕へのいじめはきれいさっぱりなくなっていたのだ。
姉に甘えている……そう言われないために、姉と少し距離をとっていた。しかしどうあがいても事実だ。
恩を返すべきだろう。そう思い至った。
回想が終わり現実に戻った僕は、深く長いため息を付いてから、答えを返した。
「仕方ないなぁ。帰ってきたら、一ヶ月連続野菜炒めだからね?」
「助かる! 力を入れると約束するぞ!」
深い深い後悔。
何とかなるだろうという甘い予想。
そして男子高校生として……ほんの少しの、いやらしい期待。
一言におさまらない心情を不安で塗りつぶしつつ、スカートを履いて家を出た。
「ダメ……」
「こんなのはダメ……」
「カタル」
「カタル、戦ってはダメ!」
入団式。令和に生きる僕には縁遠い単語だと思っていた。
入学式に似ているが、この緊張感、静けさは桁違いだ。肌が痛むほど、ピリピリとした空気が張り詰めている。
新団員は……百人いるかどうか。日本中からこの人数が選ばれたと考えると、勝手に背筋が伸び、冷や汗が首筋を伝った。なぜかパイプ椅子の固さに意識が行く。
舞台で話す偉い誰かの話は、ほとんど頭に入ってこない。難しい言葉の中に「悪魔」という単語が混ざっている、くらいしか分からなかった。
今後カタリ姉さんを騙り続けられるだろうか……などとくだらないことを考えていると。
「諸君! よくぞ来てくれた!!」
はつらつとした声が響き渡った。
顔をあげて、スピーチをはじめた人物を見る。軍服に白衣という変わった装いをした、若い女性。自信に満ち溢れた姿。整った顔立ち。
見覚えがあったが、どこで見たのかは思い出せなかった。
「私は三戸初<みつとはつ>! 君たちの力を百パーセント引き出す役だと思ってくれたまえ。君たちは最高の武器を手にし、この世界を守る。そう、この私と共に! そんな私のことが気になるか? まず、血液型はだなッ!」
……彼女の演説……正直どうでもいい自己紹介は長かった。非常に。後半は聞くことを諦める程度には。
しばらく待っていると、三戸さんは他の職員に止められ、舞台を降りていった。
次に、少し疲労気味の司会の声。
「全団員を代表し、夜野銀河<よるのぎんが>団員から一言……」
今度は、先輩からのありがたいお話のようだ。
緊張と不安で胃が痛い。一刻も早く終わってくれ。誰にも気づかれない程度に小さなため息をつき、視線をつま先に送る。
そのときだった。
『ヴーッ! ヴーッ!』
鼓膜をつんざく警報音。
さすがに他の新団員も驚いたようで、一瞬であたりが騒がしくなる。椅子の倒れる音、各々の驚愕の声。そして誰からともなく、悲鳴があがりはじめた。
『アハハハハハハハハ!!』
けたたましい笑い声。
人間離れしたその高音に驚き、天井を見上げる。
目が痛くなるような配色の、アメーバ状の、何か。その物体から、ボタボタと彩度の高いカラフルな液が垂れていた。
阿鼻叫喚と化した会場。僕は動けず、その怪物に釘付けになってしまった。
運の悪いことに、それは僕に目をつけた。べたべたと水音を鳴らしながら近づいてくる。
「は、はは……最悪……」
追い詰められると、人は笑えてくるらしい。
死ぬんだ、僕は。
このままだと間違いなく死ぬ。
目を瞑って最期を待つ。間違いなくそいつは近づいてきている。
『カタル!』
姉の声。
幻聴であることはすぐに理解した。
『カタル、死なないで!』
風邪をこじらせたとき。姉は僕の手を握ってずっとそう言っていた。意識はもうろうとしていたが、姉さんの震えた声は覚えている。
そのときと、同じ感情が僕を支配した。
死にたくない。
死にたくない!
「うわああああああ!!」
ようやく叫ぶことができた。
右手の下に何かがあった。先程までは床しかなかった場所に、固い手応え。白いようで、薄い青みを帯びた、雪のような色の……長剣。
混乱の末、僕は咄嗟にそれを振る。激しい光と共に、化け物が真っ二つになった。
だが、化け物は2つになってもうごめき、再び僕に襲いかかってくる。どのように動きべきか分からず固まっていると、爆音と共に「何か」が僕の前で弾けた。
目の前に、見知らぬ女性が現れた。女性は化け物に槍を突き刺し、ひとつも表情を変えずに引き抜く。
化け物はまた分裂した。それに臆さず、女性が僕に手を差し伸べる。
「……大丈夫か?」
その手を取って立ち上がる。女性は、冷静に告げた。
「一緒に倒そう」
「で、でも、斬ってもまた増えるんじゃ……」
「核は一つだ。それさえ潰せれば勝てる。そのために闇雲に攻撃しないといけないが……二人なら何とかなるだろう」
頭の中は真っ白どころか何も考えられていなかったが、戦うべきだ、戦うしかないということは理解していた。
ふらつきながら何度も敵を斬りつける。剣は重く、一振りでも腕が千切れそうなほど痛い。わがままな子どもの面倒を見るほどに扱いづらい。
しかし、何か固いものに剣を当てた途端、相手はぴたりと止まった。僕も体を動かせなくなり、立っていることすらできなくなる。
意識を手放す直前に見えたのは……散り散りになった化け物が最期に放った、星々のような輝きだった。
目をあけたとき、最初に見えたのは真っ白な天井だった。
痛む頭を抱えながら上半身を起こす。誰かが背中を支えてくれた。
その「誰か」は、先ほど共に戦った女性だった。不機嫌そうにも見えたが、その手つきは慈しむように優しかった。
そこは保健室のような場所だった。治療室だろうか。ここは、と聞こうとするが、先に彼女が問いかけてきた。
「大丈夫なのか?」
そっけない言い方だ。僕がうなずくと、彼女はふいっと顔を背けて部屋から出ていってしまう。その背中を引き留めようと、手を伸ばしかけたが。
「あら、起きた!?」
背中を向けていた方向から、男性の声が聞こえてきた。
女性しかいないのでは、と不思議に思い振り返る。立っていたのは、高身長の、男性。声も低いし、少なくとも生物学上は男性なのだろう。
「あ、驚かせたかしら? アタシは芽衣勉<めいつとむ>、勉先生でいいわ。非戦闘員のドクターよ」
「非戦闘員……」
「ええ、あなたたちをどうこうする力はないから安心してちょうだいね。男は戦うな、がノマド騎士団の決まり事だから」
男は戦うな。
その発言に少し違和感を覚えた。戦うな、というと、戦えることはできるかのようだ。女性しか入れないと聞いていたから、男性は戦えないのだと思っていた。だが彼は「戦うな」としか言っていないし、僕も戦えた。
「……お、男は戦えないんですか?」
「戦えるはずよ。ただ、訓練というか。強化に耐えられるのが、女の子だけなのよ」
確かに男性・女性の区別は曖昧であるべきだが、生物学上は男のほうが戦闘に向いているのでは。偏見かもしれないけれど、体格の問題はあるはずだ。疑問を文章にできずにいると、勉先生がにっこりと微笑んだ。
「それにしても大立ち回りだったわね。初日から夜野さんと肩を並べて戦うなんて!」
「さっきの人、夜野さんって言うんですね」
「ええ、夜野銀河さん。ここの戦闘員の中では間違いなく最強ね」
勉先生が、ベッド横の椅子に腰掛ける。僕の脈を測り、何度かうなずいた。
「大丈夫そうね」
その表情に既視感を覚える。
誰かに似ているが、誰だろうか。何度も見たことがあるような気がしたのだが、結局その正体は掴めなかった。
「あら、緊張している? アタシのことは大丈夫よ、絶対にあなたたちのほうが強いもの。アタシが力をつけたり他の男が入ってきたりしたら……そうね、拷問の末に投獄でしょうね!」
とんでもないワードを重ねられ、びくっと体が跳ねた。
絶対に男だとバレないように、できるだけはやく、姉と入れ替わる。そう決意したが。
「あ、でもお父さんとかに会えないわけじゃないから安心してね。一年もすれば面会権が与えられるはずよ」
「そうですね……。……。……一年!?」
「ええ、はやければ一年でも面会できるわ。応援してるわね! じゃあいってらっしゃーい」
僕の無事を確認した勉先生は、ぽいっと僕を治療室から追い出した。
「……さ、最悪だぁぁぁぁぁ!!」
母さんのバカ! と、心のなかで叫ぶ。脳内の母は、脳天気な笑顔でこちらに向かって手を振っていた。