1-3 章夫とみゆき
みゆきは元々、感情の薄い人間である。
父親は分からない。母は育児放棄気味であった。
みゆきが高校生の時、母が再婚した。が、
「みゆき…、今日はお母さんがいないから………」
義理の父が、みゆきの布団に入ってくる。
仕方がない、と思ったが、母がそれに気付いた事を察知した時、みゆきは家を出た。
路上生活を始めると、声をかけてきた男がいた。女連れだった。
「おい、お前。…行くとこねーのか?」
「何よ、辰哉ぁ、次から次へと…」
女がそう言うと、男は「うるせぇよ」と言って女を殴った。
痛い! と叫びながら鼻血を出す女を無視し、男は
「行くとこ無いなら、ウチに来いよ。寝泊まりくらいなら、させてやるよ」
そう言って、後ろで「辰哉のバカぁ!」と叫ぶ女に蹴りを入れ、みゆきの腕を掴んだ。
その日からみゆきは、辰哉と一緒に暮らし始めた。
ただ、辰哉にとって女は、みゆきだけではなかった。別の女を連れ込んでは、
「お前、ちょっとどっか行ってろ」
少しの金を渡され、追い出された。
ネットカフェなどで夜を明かし、帰ると辰哉の手下とすれ違う。女を肩に担いでいる。
昨日連れ込んだ女が、顔や身体を腫れ上がらせて運ばれていた。
そんなことが、頻繁にあった。
◇ ◇ ◇
みゆきが辰哉と暮らして、しばらく経った頃。
辰哉が世話になっているという、暴力団の組織・坂口組の長の娘・加奈が、父に懇願した。
『ねぇ、パパ! やっぱアタシ、辰哉が良い! お願ぁい、辰哉以外と結婚なんて、考えらんないよ!』
『だけど加奈、アイツは…』
『女がいっぱいいるって言うんでしょ? あと暴力? …でもさぁ、殴られてない女もいるらしいじゃん? 何か暗そーな女って噂だしぃ…、アタシの方が絶っっ対、辰哉と相性良いと思うんだよねー』
………そして、辰哉は加奈と結婚する事になった。
みゆきは少しの金を渡され、帰る家を失った。
(………これから、どうしよう…)
いつも夜遅くまで開いている居酒屋の隅で、食事をしながら呑んでいるふりをする。
すると、店の入口の方から声がした。
「…はい、はい。◯◯町まで、お願いします。…もう、しっかりして下さいよー」
面倒見の良さそうな、優しそうな顔をした男が、同僚をタクシーに乗せていた。
章夫だった。
章夫は会計を済ませ、駅とは逆方向に歩いていく。
みゆきは自分も会計を済ませ、章夫の後を追った。
(………? 付いてきてる?)
章夫は不審に思ったが、ドキッとするほど綺麗な娘だ。
(…まさかね。多分、方向が一緒なんだろ)
しかし、アパートに着いてしまった。振り向いて、訊いてみる。
「………もしかして、付いてきてた?」
みゆきはコクリと頷く。
「…えーと………、行くところがない、とか?」
再度、頷かれた。うーん…、と章夫は考えた。
「…ごめん、ウチは男の一人暮らしだし、その………」
「………ダメ?」
上目遣いにこちらを見る美女。一瞬詐欺も考えたが、それにしては雰囲気が違う気がした。
正直、自分の自制心の方が心配だったが、
「困ってるんだよね…。もうこんなに遅い時間だし…。じゃあ、一晩だけ、どうぞ」
家に上げた。みゆきはホッとして、ありがとう、と礼を言った。
章夫はシャワーを使ってもらい、男物のパジャマだが、着替えを用意する。
「ベッド、使っていいよ。じゃあ僕も、シャワーを…」
「…一緒でいいわよ?」
章夫は真っ赤になって、シャワー室に逃げ込む。
戻っても、毛布を身体に巻いて、床に転がった。
「……………」
みゆきは、世の中にはこういう人もいるんだ、と思いながら眠らせてもらった。
翌日、章夫は休日だった。みゆきは、黙って座っている。
「うーん…、どうしたらいいかな…」
章夫が困っていると、みゆきが
「………迷惑?」
「い、いやいや! そういう訳じゃ………。君こそ、こんなとこで、嫌じゃないの?」
聞くと、みゆきが首を振り、
「………こんなに安心して眠れたの、初めてかも…」
そう言われ、驚いた。
(今までどんな生活をしていたんだろう…)
章夫はみゆきを、可哀想だと思ってしまった。
「………じゃあ、色々必要なものを揃えようか」
するとみゆきが、微笑んだ。
思い出せない程幼い頃以来の、笑顔だった。
◇ ◇ ◇
みゆきは、家事を章夫に教わりながら、一緒に暮らすようになった。
「僕は一人暮らしが長いからね。昔は母と、年の離れた弟がいたんだ。…もう、いないけれど…」
章夫の両親も、弟も、亡くなっていた。
父を早くに亡くし、年若い頃から章夫は、働く母に代わって家事全般をこなしてきた。
その母も、弟と一緒に交通事故で死んだ。
みゆきは家の事を覚えながら、章夫と共に夜を過ごすようになっていった。
―――しばらくして、料理の匂いなどに過敏になり、体調の不良を感じた。
「…もしかして………」
妊娠検査薬を買ってみた。陽性だった。
「…! すごい! みゆき! 僕達の子供だ!」
章夫がとても喜んだ。そして、
「………みゆき、結婚、してくれるかい?」
結婚を申し込まれた。みゆきは頷いた。
◇ ◇ ◇
式をする余裕はないが、籍を入れ、写真だけ記念に撮った。
「ごめんよ、みゆき…」
みゆきは「充分よ」と首を振る。
慌ただしく時は過ぎ、無事に出産を迎えた。
「おめでとうございます、男の子ですよ」
元気な泣き声と、自分の指を握る小さな手。
みゆきにとっては、とても不思議な存在だった。
「…可愛いなぁ、ちっちゃいなぁ」
章夫はとても嬉しそうだ。
退院して家に帰ると、章夫が上手におむつ替えをする。弟の面倒を見ていただけあって、手慣れている。すごいな、と、みゆきは思った。
名前は『裕人』と名付けた。
自分の腕の中で眠る、不思議な存在…。小さくて、あたたかくて、いい匂いがする。ずっとこうしていたいな、と、みゆきは思った。
―――裕人の首もすわり、一緒に外出できるようになった。
裕人を連れて、散歩に出たり、買い物に出るようになった。
…すると、見覚えのある顔が、目の前に現れた。
「…久しぶりだな」
辰哉だった。
「………どうして?」
「ちょっと問題がおきてな。…お前、子供が出来たのか。ダンナがいるってことだよな?」
「………」
「…お前の家まで案内しろ。俺は金が必要なんだ。お前のダンナに…、…いや、お前、俺に借金してたことにしろ」
「え………」
「出来るよな?」
「……………」
みゆきは俯いてしまった。
ここで『出来ない』と言う訳にはいかない。多分、この人は、躊躇なくこの子を…。そう思うと、言うことを聞かざるを得なかった。
(………章夫さん、ごめんなさい)
◇ ◇ ◇
「マジかよ。ウソみてぇな話だな」
みゆきからの電話に、辰哉はそう言った。
「本当みたい。大金が揃ってるのが証拠よ」
「…へぇ。今ダンナは?」
「仕事よ」
「ふぅん… じゃあお前、その名刺の連絡先に電話して、その男を呼び出せ」
「…分かった」
「赤ん坊も連れて来いよ。今から一時間後だ」
そのまま電話が切れた。
受話器を持ったままみゆきは、抱いた裕人を支えながら名刺を手に取り、書かれている番号を打った。