23-12 無自覚の悪意
「……………」
《2》は黙っている。《2》の隣でガブリエルが、
「飛空船に乗ってた子よ。手を出しちゃダメだからね!」
釘を差した。その言葉に、裕人は少し安心したが、どう話を切り出して良いのか迷っているようだ。
…少しの間の後、裕人はようやく、
「………ベートさん。僕、ここにいる友達が心配、ってのもあるんですけど、…どうしてもあなたにお訊きしたいことがあって。…でも、その前にちょっとだけ、聞いて欲しいことが…」
「……………」
《2》も天使達も黙って聞いている。裕人は、
「…僕、お母さんがいないんです」
意を決して、そう切り出した。そして、
「お母さん、僕が赤ちゃんの頃、事故で死にました。…そのこと自体は今更なんですけど、僕、それと関係あるか分かんないけど、この前、誘拐されて殺されかけました」
佐藤によって誘拐され、廃ビルから突き落とされた、あの時のことだ。
「…でも、久吾さん…、あなた達がラストナンバーって呼ぶあの人が助けてくれたんです。…その時はそんなに話も出来なかったんですけど、そのあと、久吾さんの家に行く機会があって、それから僕、時々久吾さんのところにお邪魔するようになったんです」
ふいに裕人は、ガブリエルを見る。目が合って、首をかしげるガブリエルに、裕人は思わず笑みを浮かべる。
「………で、僕、もしかしたら、って、ちょっと気になって、…その、お母さんの、ことを―――」
◇ ◇ ◇
「―――あの時は、ありがとうございました。僕、あの時色々混乱してて、ちゃんとお礼言えてなくて…。ごめんなさい」
名奈家の応接間で裕人が礼を言うと、久吾は「気にしないで下さい」と笑顔で答えた。裕人は、
「…ねぇ、久吾さん」
「?」
「あの時、お父さんと話をして、…それから、久吾さんとお父さんが知り合ったの、僕が赤ちゃんの頃だって聞きました。それで、あの………、久吾さん、僕のお母さんに会いましたか?」
訊かれて久吾が「ええ」と答えると、
「! そっか…、ど、どんな人でしたか? 僕のお母さん!」
久吾は少し考えながら、
「…そうですね、とても綺麗な方でしたよ。あなたのことを、それは大事そうに抱いてらっしゃいました」
聞いて裕人は嬉しくなったが、もう少し切り込んで、
「そっか…。…あ、でも、久吾さんって、相手の魂が良いものかどうか分かるんですよね? …その、…お母さん、どんなでした?」
久吾は、ああ、と思いながら、
「そうですねぇ、お会いした時は心配事があったようで、少しくすんでいましたが、その後は…、そう、春の日差しのような、柔らかい亜麻色…、でしたかね。章夫さん程ではなくとも、良い魂だったと思います。………ただ」
少し言い濁した久吾に、裕人が「?」と思っていると、久吾は、
「…裕人さん、『無自覚の悪意』って、お分かりになりますか?」
「? 無自覚の、悪意…、ですか?」
「ええ。世の中の人々の、人を妬んだり、恨んだりする心、ですかね。誰にでも多かれ少なかれありますけど、そういう心の、…波動、とでも言いますか、これ、意外とあちこちに蔓延っているんですよ」
「えええ…」
裕人が嫌な顔をする。久吾は続けて、
「そういう悪意って、何かしら秀でた人に向かっていくんです。見た目が美しいとか、勉強が出来るとか…、それから裕福だとか、人に好かれているとか…。…そうですね、例えば、宝くじが当たって大金が手に入った、という人が何故か不幸な末路を迎える、というのも、この悪意によるものですかね」
「へぇ…」
裕人が感心していると、久吾は、
「…あなたの御両親ですが、章夫さんはあの通り、人柄も良く優秀な方です。奥様も美しい方でした。ですが、あなたも知っている通り、章夫さんには非道い噂が立っていましたね」
「あ」
裕人は思い出す。
章夫には『あの人の家族になると死ぬ』という噂が立っていた。久吾はさらに、
「奥様…、あなたのお母様も、美しい方でしたからね。無自覚の悪意を向けられていてもおかしくない。この悪意、上を目指して頑張る人を、引きずり下ろそうとするんです。仏典で言うところの、…確か『三障四魔』でしたか。これは、説明するのは少し複雑で…、まぁ分かりやすい例えだと、勉強を頑張ろうとしていたのに、目先の面白いことに心を奪われたり、邪魔が入ったりして結果上手くいかなくなる、という様な…」
ふむふむ、と聞く裕人に、久吾は、
「頑張ってもどうせ報われないとか、自分は不幸だと感じてしまう心も、この悪意によるところが大きい。大半の人は、その悪意に飲み込まれて、ある程度の折り合いをつけ、諦めてしまうのですが…」
? と思う裕人に、久吾は笑顔で、
「あなたのお父様…、章夫さんは悪意の寄せる不幸に屈することなく、乗り越えていくんです。ですから、その魂が輝く…。あなたのお母様は、そんなお父様の心根を見抜かれて、惹かれたのかな、と私は思うんですよ」
へぇ、と裕人は少し感激して、嬉しくなった。久吾はさらに、
「赤ちゃんだった頃のあなたは、大事にされているだけで魂を輝かせていましたが、成長するにつれ、魂の色は変化します。…今のあなたは素直な上好奇心いっぱいで、色がくるくる変わるので、視ていると楽しいですよ」
え!? とドギマギする裕人だったが、久吾は笑顔で、
「無自覚の悪意…、これはどうにもなりません。ですが、どうか裕人さんも、それを乗り越える力をつけて下さい。あなたのお父様のように、ね」
◇ ◇ ◇
「―――そう言われて、僕、考えたんです。僕が殺されかけた時、あのおっかない人がお母さんのこと、悪く言ってたのを…。元彼って人とお母さん、…その、一緒に………」
あまり考えたくないことだった。だが裕人は、言葉を選びながら、
「………僕のお母さん、もしかすると、そういう『悪意』に気づいてたのかな、って…。どうにもならなくて、最悪の状況を想像して、それをどう回避するか、自分なりに考えてたのかな、って。…だから、僕とお父さんを………」
そして、裕人は、わしゃわしゃ、と頭を掻きながら、
「…あぁ、言葉にするの難しいな、…だから、その、お母さん、悪意に気づいてたから、一生懸命足掻いてたんじゃないかな、って思ったんです。だから、お父さんを見つけたんだ。まとわりつく悪意を振り払いながら、お父さんを選んだんじゃないか、って…。つまり、その………」
裕人は、《2》を真っ直ぐに見据え、
「…確かに世の中、悪い人もいっぱいいるけど、だから、良い人の存在が際立つ、っていうか…、悪いものがあって初めて、良いものって分かるんだ。そりゃあ、みんな良い人の方が良いんだろうけど、良いものしかない世の中になっちゃったら、その…、ありがたみが無くなる、っていうか…」
そう聞いて《2》は僅かに表情を歪ませ、
「………つまり、私のしていることが間違いだと、そう言いたいのか?」
「あ………」
裕人はたじろぎながら、後ずさりする。