16-5 《0》の夢・その4
順調だったノア一行の旅に、不穏な雲行きが流れ始めた。
天使達がそれまで感じていた神々の気配が、段々と感じられなくなったのだ。
人間達の間には、多神教の地位を下げ、唯一神を奉る一神教を敬う傾向が蔓り、それは更に信徒達の間で三つの派に分かれていった。
モーゼの律法に従う『ユダヤ』派。
預言者・ムハンマドが確立したクルアーンに従い、唯一神をアラーとする『イスラム』派。
そして、神の子イエス・キリストを『神』とし、父なる唯一神・神の子・精霊を三位一体と見做す『キリスト』派。
「………不思議なものだな。元は同じ神であるのに」
ノアがそう言うと、この頃元気のない天使達も、顔をしかめて人間達を見る。
「結局、地位や権力を持った人間が、自分達に都合良く『神』を利用しているんだ。………嫌な気配だな」
ラファエルがそう言うと、ミカエルもうなだれながら、
「………うん、争いの気配だ」
するとウリエルが、歩みを止めてうずくまり、
「………嫌。私、ここに居たくない」
ノアは急いでウリエルに駆け寄り、
「大丈夫か? …どこかで少し休もう」
そう言って、ウリエルを抱きかかえ、休めそうな場所を探した。
◇ ◇ ◇
「―――お嬢ちゃん、大丈夫かね? ゆっくり休むと良い」
途中、馬車で通りがかった裕福そうな商人が声をかけてくれ、自宅に招いて休ませてくれた。
「…ありがとうございます。助かりました」
ノアがそう言うと、商人は笑って、
「いやぁ、キレーな娘だしな。困った時はお互い様だよ」
すると、部屋の入口から声がする。
「…あ、あのぅ、旦那様………」
肌の色の黒い下男が恐る恐るそう言うと、呼ばれた商人は下男を一瞥し、
「…何だ、先程の用事は済んだのか?」
「い、いえ! とても今日中に終わるような量では…」
途端に、商人は下男に蹴りを入れ、
「いいからさっさと片付けろ! 終わるまで、食事は出来ないと思えよ!」
下男は、ヒィッ! と言いながら、走って持ち場に戻った。
ノアはそれを見ながら、
「…お世話になっている身で失礼かと思いますが、いささかご無体が過ぎるのでは…」
すると商人は驚いたように、
「アンタ、奴隷を知らんのか?」
奴隷、と聞いて、ノアは驚く。商人はニヤリと笑いながら、
「肌の色の黒い奴らは、むかーし昔、罪を背負ったノアの子供・ハムの子孫だそうだからな。どう扱おうと構わない、って神父様が言ってたんだ」
………今、何と?
ノアは愕然としながら商人を見る。商人は、何も知らないのか、と笑いながら、
「アンタらはずいぶん遠い国から来たのかな? じゃあ、教えてやるよ」
そう言って、話し始めた。
「…ハムってのはな、葡萄畑で酔っ払って裸で眠っちまった父親のノアの裸体を見て、その醜態を兄弟に告げ口したんだ。神父様達によると、それがハムの罪なんだとさ」
………一体、何の話だ?
「父親の身体を隠すため、裸体を見ずに覆い隠したハム以外の息子・セムとヤフェテは罪にならなかった。肌の色が黒かったハムは、南の方で自分の子孫を増やしたんだ。…だから罪人・ハムの子孫はみんな、肌の色が黒いんだとさ」
………何を言っているんだ? この男は…。
ノアの怒りが込み上げ、反論しようとしたその時、ミカエルがノアの手をそっと握った。
「……………」
思わずミカエルを見たノアは、ミカエルの困ったような笑顔を見て、落ち着きを取り戻した。
得意になって話す商人の言葉を黙って聞き流し、
「―――という訳だ。だから俺があの奴隷をどう扱おうと、誰も文句は言えないのさ。ハハ」
商人はそう言って笑った。
すると、ウリエルが起きてきた。少し辛そうだが、
「………ごめんなさい、心配かけて。もう大丈夫よ」
そう言って寝床から出て、歩き出した。
「お、おい、…本当に大丈夫なのか?」
商人はそう言ったが、ミカエルが、
「おじさん、どうもありがとう。だけど、ごめんね。ボク達、急ぐんだ」
可愛らしい笑顔でそう言った。ノアも察して、
「いや、本当に助かりました。何も御礼出来ず申し訳ない」
丁重に礼を述べ、一行は家を出た。
◇ ◇ ◇
「…恐らく、肌の色の黒い人間を差別するために、捏造された話なんだろうな」
歩きながら、ラファエルが言った。
先程の話に衝撃を受けていたノアは、焦燥とした様子でウリエルを抱えながら歩いている。
「………一体、彼らは、…信仰とは、何なのだろうな」
するとミカエルが、
「考えてもしょーがないよ。あんまり人間達に関わらない方が…」
そう言いかけた時、後ろで、バタリ、と音がした。
振り返ると、ラファエルがうつ伏せで倒れている。
「「ラファエル!」」
皆でラファエルに駆け寄る。ラファエルは、うう、と呻いて、
「………ち、力が、…入らない。………おい、ミカエル。…ウリエルのことと、いい、…お前、…何か、隠してない、か?」
皆でミカエルを見る。ミカエルは観念したように、
「………ごめん、その…。………本体がね、分身はボク達以外、みんな消えちゃった、って…」
聞いて、ガブリエルが真っ青になり、
「………消えた!? …そ、それじゃあ私達も、もうすぐ消える、ってこと!?」
ミカエルはうなだれて、そうかも、と呟いた。
ノアは、ウリエルと一緒にラファエルも担ぎ上げ、
「………アララト山に行こう。『方舟』にさえ入れれば、きっと何とかなる。…君達が消えるなんて、そんなことさせるものか!」
そう言って、一行は急いでアララト山に向かっていった。
諸説ありですが、
セム→ヨーロッパ圏
ハム→アフリカ圏
ヤフェテ→アジア圏
に子孫を残していったそうです。
ノアが全ての人類の祖と言われる所以ですね。