1-1 黒いスーツの男
ちょこちょこ編集しながら書いてます。
―――2009年某日。
「ご、五百万!?」
仕事から帰った章夫は、妻が見慣れない男を自宅に入れていたことにも驚いたが、妻のみゆきが、元交際相手というこの男に、大金を借りていたことに驚愕した。
「ああ、俺も緊急で入り用になってな。すぐに返してもらいたいんだが…」
やたらと顔の良い、相手の男がそう言った。みゆきは息子の裕人を腕に抱いたまま、黙って俯いている。元々口数の少ないみゆきだが、申し訳無さそうに口をつぐんでしまっていた。
「ちょ、ちょっと待ってもらえますか? 用意するにも、この時間じゃ…」
「良いとこ紹介しようか? 闇金だけど」
「いや! それは………」
章夫が断ると、男は苛ついたようで、
「…いいからとっとと外に出て、金を準備して来いよ。ここで待っててやる」
声に凄みを入れ、威圧してきた。
すると、妻のみゆきがやっと口を開いた。
「………章夫さん、ごめんなさい…、私…。その…、大事に、したくなくて………」
か細い声でそう言う。
仕方がない。このまま従うふりをして、警察に…、と思ったのを見透かされたように、相手の男は、
「もし、警察に行こうってんなら、子供がどうなっても知らねーよ?」
ギクリ、とした。この男、子供を盾にするつもりか、と思った瞬間、みゆきが赤ん坊の裕人を章夫に差し出した。
「…ごめん、章夫さん。………裕人を、守って」
すると、男が楽しそうに、
「そうだな…。やっぱりみゆきは良く分かってんな。…おい、ダンナ。子守も頼むわ。一緒に連れて行け」
「そ、それは………」
章夫が何か言おうとしたが、相手の男に睨まれた。男はみゆきの肩に手を回し、抱き寄せる。
そうしていると、二人は美男美女でとても絵になる。章夫はつい、自虐的な感情を持ってしまった。
しかし、みゆきは、
「…章夫さん、お願い…。裕人を、頼みます。…私は、大丈夫だから………」
頭を下げて章夫に懇願した。
「………」
相手の男の目が、早く行けと言っている。
章夫は仕方なく、裕人のお出かけセットの入ったバッグを持って、外に出た。
◇ ◇ ◇
とはいえ、当てなどあるはずがない。
このまま警察に行くことも考えたが、自分よりも似合いの二人を思い出すと、逆に躊躇してしまった。
途中駅ビルに寄り、授乳室を借りて裕人のおむつやミルク等の世話をし、それから金融会社を見て回ったが、章夫は借金する事に踏み切れずにいた。
一度戻って、自宅アパートの前を遠目に伺うと、ガラの悪そうな手下の見張りの小男がいた
どうしたものかとため息をつく。すると、裕人が「あぅ…」と、か弱い声を出したので少しあやすと、寝息をたて、章夫はホッとした。
その時、不意に声をかけられた。
「どうかしたんですか?」
声をかけてきた男は、黒のスーツに黒のアタッシュケースを手に下げ、黒の中折れ帽を被っていた。
穏やかに笑みを浮かべるその顔は精悍で、開いているかどうか分からないくらい細い目をしていた。
「あ………」
こちらが戸惑っていると、男は赤ん坊の方に視線を移しながら近寄ってきた。
「おや、お子さんの顔色がよろしくないですね」
「!? え?」
言われてみれば。寝ているものだと思ったが、ぐったりとしていた。
「これはいけませんね。よろしければ私どものところで少しお休み下さい。すぐそこですから」
「ええ? いや………」
男に否応なく連れられたが、正直自宅にも帰れず困っていたところだ。有り難かった。
案内された男の家は、本当に数秒の距離だった。…が、章夫は不思議に思った。近所であるはずのその家に、見覚えがなかったからだ。
(あれ…? こんなところにこんな家あったかな…?)
ただ、章夫もそれほど周辺の家に詳しいわけではない。近所づきあいなどもほとんどないので、「さぁ、どうぞ」と促されるまま中に入る。
しかし、その男の家は、さらに不思議だった。
「メへ、お帰りなさいませ、旦那様」
出迎えてくれたのは、ヒツジのぬいぐるみだった。
1歳児程度の身長で二頭身、黒いスーツに蝶ネクタイをしている。
「ただいま、めぇさん」
「メ? こんな夜中にお客様ですメか?」
「ええ、赤ちゃんを少し休ませてあげようと思いまして」
「赤ちゃん! それは大変ですメ。ささ、どうぞ」
ヒツジのぬいぐるみに促されて案内されながら、章夫は心の中で軽くパニックになっていた。
(え? ぬいぐるみ? ヒツジのぬいぐるみが動いて喋ってる………?)
するとふいにヒツジがこちらを向き、挨拶をした。
「あぁ、申し遅れましたメ。ワタクシ、めぇ、と申しますメ。お世話をさせて頂きますメ」
どうぞ、と案内された部屋には、10歳前後の子供が2人。
一人は短い黒髪にセーラーの付いた服と短パンを着た、可愛らしい男の子。
もう一人は長い栗色の髪をツインテールにした、肩にケープの付いたワンピースを着た美少女。
どちらも目鼻立ちがはっきりして日本人離れしている。
…それからバイクのヘルメットの中にすっぽりと納まった、白くて丸い…、あれはアザラシ? の、ぬいぐるみ…?
「わぁ、赤ちゃん!?」
「カワイイ!!」
「こっちに寝かせよーぜ!」
寝かせよーぜ、と小さなヒレを振ったのは、やはりアザラシのぬいぐるみだ。これも動いて喋っている…。
章夫はだんだん、夢でも見ている気分になった。
◇ ◇ ◇
「…落ち着いたようですね」
黒いスーツの男は、赤ん坊の寝顔を覗き込みながらそう言った。
長い時間屋外にいたことでぐったりしていた裕人は、温かい部屋の中で、今は安らかな寝息を立てていた。
二人の子供とヘルメットアザラシが、「かわいいねー」などと言いながら赤ん坊を見守っている。
すると、スーツの男が章夫に話しかけてきた。
「…さて、申し遅れました。私、名奈久吾と申します。こんな夜遅くに小さなお子さんを抱えて、一体何をされてたんですか?」
章夫は自分も名乗ってから、
「…実は、今家に帰れなくて…」
少しずつ話し出した。
◇ ◇ ◇
話を聞いて久吾は、ふむ、と少し考えてから切り出した。
「…では、お金が用意出来ればよろしいのですね?」
「それはもちろん…。でも…」
章夫の話を遮って、久吾はにこりと笑った。
「こうしましょう。お子さんの一日分の寿命、私が一千万円で買い取らせて頂きます」
「………はい?」