ただ在るということのむなしさ
幽霊の 正体見たり 枯れ尾花。
小学生の時分には、地元の子供会が肝試し大会をやっていたものだった。
幽霊に扮した父兄が物陰に潜んでいて、わっ、と脅かしてくる。
肝試しが終わると袋詰めされた駄菓子が子供たちに配られて解散となるが、大人たちの集まりからは誰々がどこでお化け役をしていた、といったことが漏れ伝わってきていた。
そんなことは言われるまでもなく、このお化けは誰々のお父さんだなと了解しているのだが、怖いものは怖い。
もちろん怖かったのは誰かのお父さん扮するお化けではなくて、闇夜に潜むかもしれない本物のお化けのほうで、もっと言えば本物のお化けがいるかどうかよりも、闇の中には何かがいるかもしれない、という事実そのものだった。
時は流れて大学生となった今、夜の道を一人歩くのは、怖いどころかむしろ昼間にはない気楽さすらある。
自分以外の人がいない。それがわかっているからだ。
大都会の雑踏の中を人のペースに合わせて歩くことに慣れるのと似て、闇夜にも人は慣れる。
昔何かがいるかもしれないと恐れていた闇の中には、十中八九何もいない。
20余年の経験は、ある種の統計学的な結論を導く。
誰かのお父さんが扮するお化けも、あるいは本物のお化けも、現実的に見れば不審者や犯罪者も、そうそう出会うことはもうないのだ。
だから夜の道が好きだった。
人を気にする必要がないから好きなペースで歩けるし、民家の迷惑にならない声量なら歌だって歌っていい。
そんなことはおまけに過ぎなくて、ただひとりで居られるんだと思えることがうれしかった。
余計なことを考えるのは、きっと疲れているからだ。
疲れていると昔のことをふと思い出す。
なんでそんなに夜が怖かったんだろう。
きっと夜は自分の世界じゃなかったんだ。
最初は母親の腕の中、少し経つと近所の公園、小学生にもなると2キロも先の学校が自分の世界になった。
それらは全部昼間の話で、夜は自分の世界じゃない。だから見慣れた近所の道であっても、何かがいるかもしれない、と思ったんじゃないか。
街灯に照らされた夜道は、今ではすっかり自分の世界だ。
大学への道のりも入学当初はおっかなびっくり通っていたが、半年も通えば慣れたもので、自動運転みたいに勝手に到着だ。
夜だって昼間と違って見えるだけでいつもの町並みなんだと了解ったのはいつ頃だったか。
いつの間にか自分の世界は版図を広げて、闇夜だって”普通の町”の烙印を押されていた。
そんな風にものごとに注釈を書き加えていって、それ以降は一顧だに値しないものが増えていく。
それが大人になるってことなのかもしれない。
そう、思っていた。
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その闇との出会いは唐突だった。
ある晴れた休日に犬の散歩をしていると、前方からなにやらざわめきが聞こえてきた。
事故でも起きたのだろうか・・・
そこは住宅の間の隘路で、コンクリートブロックの隙間をどうにか一人と一匹が並んで通れるかどうかという細道だった。そこを抜けると大通りに面した公営のテニスコートがあり、その脇の公園を一周して町内に戻るのがお決まりの散歩コースなのだ。
普段人が集まることのない散歩道は人で埋まり、どうやらテニスコートの方向を遠巻きにしているらしいことがわかった。
住宅を一ブロックを迂回すれば公園には行けるのだが、どうも気になる。
なにかあったんですか?
こんな野次馬丸出しのことを自分が口にする日が来るとは思っていなかったな、などと考える間もなく人垣が動いた。
どよめきと同時に後方へ押し出されると、困ったように鳴く飼い犬を庇いながら迂回路へと退避する。
人々のこの反応は交通事故ではありえない。原因がまだ健在であることを暗に示している。
クマが出るほど田舎ではないし、けものが近くにいれば犬が相応の反応をするだろう。
とすれば、十中八九出会うこともないと思っていた犯罪者だろうか?
ニュースで目にする刃物を持った不審者が暴れています、というやつでならばこの状況も納得だ。
しかし一目散に逃げださないところを見ると、そう危険はないのかもしれない。
引き返すか迷いながらも、足はいつもの公園へと歩みを止めていなかった。
恒常性バイアスというのだったか。津波から逃げ遅れた人の中には地震という明らかな異常があるにも関わらず、どこかでいつも通り大丈夫だと思い込んでいた可能性があると講義で聞いた。自分も今そんな心理に陥ってはいやしないか。
そうこうしているうちに大通りへの曲がり角に達すると、こちらでも人垣ができている。
だが、”いつもの道”よりは広い分だけ人がまばらなようで、人々の注目の的がなんなのか、漸くわかった。
それは真っ暗な闇だった。
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闇はゆらめき、徐々に拡大しているように見えた。
蝋燭の火が作り出す影のように、ただ静かに闇の裾野は揺れていた。
真っ暗な闇は内部を見通すことができず、また同時に昼間との境界が闇に輪郭を与えていた。
小さな子供に3D映像を見せるのは眼の発達によくない、というのは半ば常識だ。
ただ奥行き知覚は脳の機能としてはじめから十全に備わっているものではなく、学習の成果として獲得されるものだと知ったのはつい最近の講義での話だった。
闇は見慣れたものだと思っていた。
だが今目の前にある闇は、これまでの経験に裏打ちされた知覚では捉えきれず、視覚野が混乱していることが自分でもわかった。
どうにか平静を取り戻そうと足掻き、目の前の現象を日常に結びつけようとする。
真っ先に浮かんだのが、子供のころの記憶だった。
光源を絞って常夜灯だけが照らす部屋の中で、歳の数だけ刺さった蝋燭の火がゆらめいている。思い出の中で両親の体は大きな影となって不規則に揺れていた。
暗源。そんな造語が頭をよぎる。
闇はその中心をテニスコートと定め、金網から手足を伸ばしている。
一点から放射状に広がる闇は、せつなに身をすくめ、にわかに広がり始めた。
闇に飲まれたテニスコートはどうなったのか。生物が闇に触れたらどうなるのか。
もちろん何もわからない。何もわからないが、迫りくるものからは逃れなければならない。
即座に犬を抱えると、来た道を引き返す。
到底逃れえない速度の拡大を背に帰らなかったことを後悔しながら駆け出すも、直線路はすぐに終わる。
迂回路はテニスコートに面した大通りとほぼ平行に走っていた。息を切らして曲がり角で振り返ると、闇の広がりは止まっていた。
少し冷静になって観察してみると、闇は建物を完全には飲み込んでいなかった。
住宅のブロック塀に遮られ、鋭角に伸びた闇の影を見るにその源は移動していないようだ。
ともかく今のうちに家に帰らねばならない。両親にこのことを伝えなければ。明日からの大学はどうなるのだろうか。雑多な思考が頭を支配する。
抱えたままの犬が降りようともがくが、しばらく我慢してもらうほかない。
今はこの体温だけが、自分の世界のすべてだった。
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国民の保護に関する情報です。直ちに避難、直ちに避難です。直ちに建物の中、また地下へ避難してください。
公民館のテレビが繰り返す。今映っているテレビの中継だろうか、ヘリコプターの音を遠くに聞きながら今を振り返る。
息を切らして自宅付近の路地まで戻ると、またも人だかりが出来ていた。
どうやら帰る家すらないらしい。いや、家は恐らく在るのだろう。
それでも我が家が闇の中にあるという事実を、改めて確認したいとは思わなかった。
雑踏の中でふと聞きなれた口笛が聞こえ、気づいた犬が腕の中で大きく暴れる。放してやるとリードを掴む手をすり抜けて駆け出して行った。追いかけなければ、そう思った時だった。
町内放送のメガホンがけたたましく鳴り響く。避難を呼びかけるその声は、何から逃れるべきなのか教えてはくれなかった。
犬を探して無人となった道路に取り残される。近くにいるはずの両親は見当たらず、今日に限って携帯は家の中だ。一縷の望みは近所の公民館が避難場所に指定されていることだった。
畳の部屋の嗅ぎなれない匂いの中で、ぼんやりとテレビを眺める。初夏の日はまだ高く、午後3時の暖かな空気が思考を麻痺させる。
犬は、両親はどうなったんだろう。明日からの大学はどうなるんだろう。あの闇はなんなのだろう。
当然に湧き上がる不安や疑問をよそに、中継は闇が公園からあふれ出し”いつもの道”を覆うさまを映していた。
建物の被害があったという報道はない。だからあの闇の中のテニスコートも公園も、散歩道だってそっくりそのままに違いない。今は眼に見えないだけでそこに在る。だが在ったとしても、”いつもの道”はそこにはない。
人が死んだり行方不明になったという報道はない。人にも動植物にも害はないのだろう。でもあの闇の中には、誰かのお父さんが扮するお化けも、本物のお化けも、不審者や犯罪者もきっともういないのだ。
ただ闇だけがそこに在って、闇には注釈をつける余地がどこにもなかった。
-終-