渡良瀬ほのか
私は幸せだと思う。
夫の渡良瀬健司とは大学時代、居酒屋のバイトで出会った。『時遊』というその店は学生が集まる街にあり、そこそこ繁盛していた。暗めの内装はオシャレだし、『いらっしゃいませーい!』なんて大声を出さなくていい店だったから応募して、採用されたのだ。
バイトリーダーとして私の教育をしてくれたのが健司。私と同い年だけどバイト歴が長く、厨房もホールもレジも、何でもテキパキとこなす姿はカッコいいと思っていた。
見た目はちょっと輩系のワイルドな感じ。それでいて物腰は柔らかく話も面白いので、彼目当ての女性客は多かった。何度も通って顔を覚えてもらおうとしたり、出待ちをしたり。健司も、そういうのは拒まないタイプなので、ちょいちょいつまみ食いをしていたみたいだ。
それでも、決まった彼女というものは作らなかった。一度、聞いてみたことがある。
「健司、なんで彼女を作らないの? 一人に絞れないとか?」
「ああ、そうだなぁ。まだピンとくる奴に出会えてないような気がしてるんだよな。ずっと、こんな付き合い方してちゃいけないのはわかってるんだけど」
「そうだよ。あたしたちもう、来月就職じゃん。そろそろ落ち着きなよ」
「そういうお前こそどうなんだよ。色っぽい話の一つも聞かねえけど」
ぐっ、と答えに詰まる私。
「いいのよ、あたしのことは。あたしは大器晩成型だから、社会人になったらちゃんと女らしく変身してみせます」
「ははっ、そうだな。ほのかは元が良いから綺麗になると思うぞ。そんな引っ詰め髪じゃなくてさ、パーマでもかけてふわっとさせて……」
健司は突然私のヘアゴムを引っ張って髪を解いた。パーマもカラーもしたことのない黒髪が肩に落ちてくる。
「綺麗な髪だな」
健司が私の髪に手を入れ、サラサラと弄んだ。
その時、私は大失態を犯した。ずっと隠していた想いを顔に出してしまったのだ。自分でもわかるくらい、真っ赤な顔になって。
それに気づいた健司は、私の顔をじっと見つめる。そして私の頭を優しく持ち、そっと顔を近づけてキスをした。
本当なら怒るところだけど、私は嬉しくて。初めてのキスが健司だという喜びに震えていた。
健司は唇を離すと至近距離で私の顔をまじまじと見る。そして、優しく笑った。
「お前、こうして見ると可愛いな」
「な、何よ、その言い方!」
「俺、ピンときたかも」
「な……」
健司が私を抱きしめる。私はもう、自分の気持ちをごまかせなかった。
そしてその日はそのまま健司の部屋へ行き、初めての夜を過ごしたのだ。
それから私たちは付き合い始めた。バイト先にもお客様にも内緒で。
彼は相変わらずモテるしイライラさせられることも多かったけれど、意外にも『つまみ食い』をすることは無くなった。そう言うと彼はふてくされた顔をする。
「なんだよ。俺、信用ねえなぁ」
「だって。前はホントに据え膳食わぬは……だったじゃない」
「それは彼女がいなかったからでしょ。今はほのかがいるんだから、そんなことしねーよ」
こんなに素敵な人が、私なんかに一途でいてくれる。私はなんて幸せなんだろう。
それから三年の交際を経て、私たちは結婚した。子供が出来るまでは共働きで、と思っていたらそこから五年、子供が出来なかった。不妊治療を考え始めた矢先、ようやく妊娠。私は三十歳になっていた。
「里帰り出産の間、遊び歩いたりしないでね」
「わかってまーす。飲みに行くくらいはするだろうけど、浮気なんてしないから。安心して身体休めてな。入院したらすぐ知らせろよ。飛んで行くから」
はいはい、と笑って私は実家へ戻った。軽口を叩いていても、彼の浮気なんてこれっぽっちも疑ってはいなかったから。
その後、陣痛が始まったので連絡すると、彼は本当にすぐにやってきた。そして私の手を握り懸命に励まして、産まれた時には涙を流して喜んでくれた。
「ありがとう、ほのか……!」
私はこの時の彼の涙を一生忘れないだろう。
愛菜と名付けた娘のことを、健司はそれこそ目の中に入れても痛くないほど可愛がった。お世話も進んでしてくれて、母乳以外は全て完璧にこなしてくれる。しかも、昔厨房で鳴らした腕で、私にも栄養たっぷりのご飯を作ってくれるのだ。
「いっぱい母乳出してもらわないとなあ」
そのおかげで、断乳まで母乳はしっかりと出てくれた。
月日は流れ、愛菜は四歳になった。彼の子煩悩振りは近所でも評判を呼び、公園でも人気者だ。『愛菜ちゃんのパパー!』と、たくさんの子供が寄ってくる。『だめー、愛菜のパパなのー!』そう言って手を広げる愛菜に目をウルウルさせながら、みんなを遊ばせている健司。
「素敵な旦那様で羨ましい」
ママ友はみんなそう褒めてくれる。
「ありがとう。私もそう思うの」
にっこり笑って答える私。
健司、あなたと結婚して本当に良かった。