消えた8月
初投稿になります。よろしくお願いします。
「静子さん、トイレ行きましょうか」
私の声かけに、静子さんは困ったように首を横に振る。その様子を見て、私はそっとため息をついた。
ここは、とある老人ホーム。私はこの施設の職員。介護歴10年になるが、まだまだうまくいかなくて悩むことは多い。相手は機械ではない。人間なのだ。
静子さん―鈴木静子さんは、御年98歳。難聴と認知症の症状があり、入所している方の1人だ。
私はそんな静子さんの耳元に顔を寄せ
「ト、イ、レ」
通じたのか、静子さんは大儀そうに立ち上がると、歩行器を使用し、のっそりのっそり歩きはじめた。
やれやれ、と私もそのあとを、のっそりのっそりついてゆく。
排泄を終えると、自室に向かう。もうすっかり日も落ち、就寝時間となっている。他の入所者は、皆眠っている。この施設では1人1人個室が当てがわれており、私は静子さんを自室へと誘導した。
入口に入ると、すぐ左側に、洗面台がある。その鏡の前に…
あった。それは、古びたラジオだった。
そうだよね…ある、よね…。
私がそんなごく当たり前な事を心の中で確認したのには、理由があった。
動くのだ。
このラジオが。音を出す、などの本来の機能ではない。移動しているのだ。
眠る静子さんの枕元に。何度離しても。
当然、そんなことがあるはずもなく、職員の間では、歩くことのできる静子さん自身が、毎晩ラジオを枕元に置いて眠りについているんだろう、という結論に至っていた…そう思うしかなかった。
難聴の、しかも歩くことも歩行器がないとおぼつかない彼女が、なぜ?
…などと考えていたら、恐ろしくて夜勤などできない、というのが、本音ではあるのだが。
そんな毎日のなか、私は夜勤の日を迎えた。
夜間には、利用者が皆安静にして居室で過ごしているか確認する、巡視というものがある。私は懐中電灯片手に、居室をそっと覗いて回る。
そして、静子さんの居室も。
本人を起こさないように、そっと扉を開ける。そして、静子さんが眠るベットの方へ灯りを動かす。
「えっ…」
私は思わず声を上げた。動いている。移動している…あのラジオが!
静子さん…また自分で持って行ったのかな。私は半ば強引にそう思い込んだ。本人はすやすやと眠りに就いている。なんにせよ、ケガがなくて良かった。
私はそんな静子さんの寝顔に安堵しながら、扉を閉めようとした。
その時だった。
サー…サー…
なんだろう。私は純粋に疑問に思い、再び居室を覗き込んだ。
サー…サー…サー…
彼女の眠る、すぐそばのラジオからだった。
ああ。静子さん、スイッチ付けて寝たんだな。消しておくか。私はそう思い、ラジオに触れようとしたその手が、止まった。
そうだ。このラジオ…電池が入っていない。動力源がなければ、音を発するはずがない…!
しかし、音は確かにこのラジオから発している。
サー…サー…ザーザー…し…し…
限界だった。私は居室を飛び出し、他の業務をこなしながら、ひたすら夜明けを待った。
数日後、静子さんの息子さんが面会に訪れた。8月の暑いさなかだからなのか、しきりに額の汗を拭いている。隣りに座ったのが息子さんだと分かっているのか、いないのか、静子さんは椅子に座ったまま、空を見つめている。
「いやあ、毎日暑いですねぇ」
と、愛想よく笑う息子さんの目元は、静子さんそっくりだ。
「そうですね~」
私も他の業務をこなす傍ら、相槌をうつ。すると息子さんは、1枚の写真を静子さんの前に出した。私も見たが、随分と古い。セピア色に染まった写真だった。
「これ、覚えてるか?」
息子さんがそう静子さんに問う。静子さんはしばらく写真を眺めた後に、甲高い声で
「分からん」
と言った。それを聞いて息子さんは深くため息をついた。
「もう、ボケちゃってるのかなあ」
「どなたの写真なんです?」
私は息子さんの落胆ぶりに、思わず口をはさんだ。
「いやね、親父の写真なんですよ。とはいっても、戦死してしまって、僕には全くと言っていいほど記憶がないんですけどね」
ということは、静子さんの旦那さんということになる。そうか。静子さんは戦後、女手一つで息子さんを育ててきたのか。
私は98歳の静子さんしか知らなかったが、意外な一面を垣間見ることになった。ふと、写真に写る今は亡き旦那さんと、目が合った気さえした。
そして、私はまた夜勤の日を迎えた。いつものように巡視をし、静子さんの部屋にも入った。
あった。
あのラジオだ。また静子さんの枕元に潜り込んでいる。私はもう慣れっこになってしまい、ラジオをそっと洗面台へ移動させようとした。
その時だった。
ザーザー…ザ…。
「ひいっ」
私は思わず、手に持っていたラジオを床に落とした。
ザーザー…ザーザー…。
気のせいではない。
ザーザー…し…し…ずこ…
「!?」
し…ずこげ…んき…か…
男の声だった。「しずこげんきか」…そう聞き取れた。
し…し…ずこ…ザーザー…
もしかしたら…いや、これは確信だった。
「静子さん!」
私は静子さんの耳に、ラジオを押し当て
「静子さん、旦那さんですよ!旦那さんが、ラジオで…」
「あんた、なにする‼」
静子さんは、寝ているところを突然襲われたと思ったのか、私を思いきり突き飛ばした。98歳とは思えないような力で。
「静子さん。旦那さんがね、来てるんですよ。元気かって、心配してるんですよ」
私はなるべく穏やかに、そう説得するも、静子さんには通じなかった。
「あんた、なに!?私は知らん、わからん」
と言い続ける傍ら、ラジオからはしきりに
し…ずこ…ザーザー…しずこ…
と聞こえる。
だけど…静子さんの耳には届かない。時の流れ…忘れてしまうということは、こんなにも哀しいことなのか。
私は、なおも鳴り続けるラジオを前に、膝まづいた。もはやそれは、祈りだった。
ごめんなさい。静子さんのことは、私たちでお守りしますから、どうかどうか、安らかに見守りください。
何度もそう祈り続けた。
ザーザー…そ…そ…みま…も……
そして
ザーザー……プツン。
その音を聞いて、私ははっと顔を上げた。
ラジオからは、何の音もしない。心なしか、一段と古ぼけてみえる。
静子さんは…いつの間にか、布団に戻り眠りに就いている。
私は、そっとラジオを手に取り、静子さんの枕元に置いた。静子さんの寝顔が、より一層穏やかになった気がした。
人は、忘れてしまう生き物だ。だけど、想いは、きっと繋がる。時代を超えようとも。
私は、自分は見たこともない、そして消えゆこうとするあの夏を、想った。
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