止まない雨はない
谷くんの大人びた様子に言葉をうまく発する事ができなかった、自分がより幼く感じて。
そう言われてもすぐ引き下がれるような事でもなく、「でも……」と私が言いかけた時。
「もうーっ!本当に大丈夫だってば。
そんなに気にするなら、落ちちゃったらお願い聞いてもらってもいい?」
急におちゃらけてみせる谷くんは、受験生には禁句である「落ちる」をサラっと言った。
合格内定している私でも気を遣っているワードだし、そもそもどの受験生が気にする言葉だと思っている。それなのに谷くんは気にする事なく堂々とサラッと言ったのだ。
「え… それは困るかも。って、せっかく言わないようにしてたのに…」
「僕は気にしてないんだよねー、落ちる時は落ちるし。それに今更あがいた所で大きく変わんないかなー」
谷くんはおもむろに身体を起こしたかと思うと伸ばしていた左手で頬杖を突きながら私を見て笑う。
そんなおちゃらけて笑う姿に、私もつられて笑った。
「あ……そうか志望校落ちたら小坂さんと逢えなくなっちゃうかもだ。
ピアノが聴けないのは、ちょっとショックだなぁ」
ふと思い出しかのように、急にしょんぼりとする谷くん。
さっきから、いやずっと前から気になっていたけど、やっぱりなんか噛みあわない会話に私は眉をひそめる。
落ちるよりピアノが聴けない方がショックというのが私には理解できなかった。
なんでこんなにピアノに執着するのか分からなかったから。
ピアノなんて、誰でも弾けるしCDを買えばいくらでも聴けるのだから。
「…そんなに、ピアノが好きなの?」
恐る恐る聞いてみると谷くんはニッコリ笑って答えた。
「うん、小坂さんのピアノが好き。昔聴かせてくれたじゃん?あれから小坂さんのピアノが好きなんだ」
その返事に私は言葉にならなかった。
そう言ってもらえるだけの演奏をできている自信はなかったから。
それに昔っていつのことを言うのだろうか。個人的に聴かせてあげたのって極僅かだったけど、その中に谷くんがいた事は思い出せなかった。
私が一生懸命記憶をたどっていると、それを見越してか谷くんは続けて言う。
「小坂さんは覚えてないかもだけどね」
その時の谷くんは、なんでか穏やかな表情になって、口元だけ笑っていた。
私が覚えていないくらい昔の事なんだろうか。
それでもなんとか思い出せないのか、としばらく考えてみたけど出なかった。
「えっと…、私、谷くんに聴かせてあげた?ちょっと覚えがなくって…」
私の答えに、「やっぱりね」と呟いて少し残念そうな顔をして一息ついた。
「そうだね、あの時は僕の事 あきちゃんって呼んでたから」と谷くんは優しげに微笑んだ。
「……あきちゃん?」
なんだか引っかかる、あきちゃん、あきちゃん。
すぐ思い出せないけれど、聞き覚えのある名前だった。
「うん、そう。僕、尭良って名前なんだけど、言いにくいのか、昔からアキラとかあきちゃんとか呼ばれててさ。背も小さかったのもあってよく女の子と間違われてたんだけどね。
でも昔、小坂さんとここでかくれんぼした事もあるんだよ」
その一言で私の中でおぼろげだった記憶の一部に、欠けたピースがハマった気がした。
ここでかくれんぼしたのは、あの子しかいなかった、そしてその子の名前はあきちゃんだという事も思い出せた。
でもあの子しかいないと分かっていても、恐る恐る聞いた、私の記憶の一部をそっと救い上げるように。
「……もしかして…。家まで、二人で一緒に帰った、……あきちゃん?」
谷くんは顔をくしゃっとして笑ってくれた、私が思い出したのを喜んでくれているかのように。
「そう、一緒に手をつないで帰ったのが僕だよ。その後、暗くなっちゃったからって僕の親が迎えに来るまで小坂さんのピアノ聴かせてもらってたんだよ」
嬉しそうに笑っている様子を見ながらも、私は驚いていた。
その時しか弾いてないのに、しかもあんなにも昔なのに、今でも私のピアノを好きだって言ってくれている事に。
でも、なんだかそれはこそばゆい感じもしたけど、素直に嬉しかった。私の演奏を聴いて、好きでいてくれた人がいたって事に、思わず涙腺が緩みそうになった。
谷くんの前で泣くわけにはいかない、と慌てて前髪を触る仕草をして手のひらで目元をぬぐう。そして話題をそらそうと昔の話をした。顔が熱い気もして思わず前髪を前へとかきよせて顔を隠そうとしながら。
「…あの時のあきちゃん、女の子だと思ってた…」
そう言った後に今の谷くんは男の子なんだって今さら実感してしまう。
なんだか急に距離が近くに感じて直視できなくて目線は斜め下を見てしまった。
一方、谷くんは「まー 髪の毛もくせっ毛でふわふわしてたし背も小さかったからねぇ」と言いながら土管に背中をつけて天井を見上げている。
そんな様子をチラっと横目で見て「私より小さかったもんね…」と昔の面影はほとんど残ってないなぁと確認しては、膝の所で指を組んでいたところに顔をうずめる。
「だよね。結構女の子と間違われてさ、反動で中学はいってから背を伸ばそうとバレーしたんだよ」
谷くんは薄暗くて見えない天井や壁をずっと見ている。
その様子をチラチラ見ながら私は近く感じていたけど、思わず気が抜けてしまった。
私だけがなんか勘違いして、一人だけ思いあがってた気がして。
「…そっか、あの時のあきちゃんが谷くんなんだ。だから、ここ知ってたのね」
「うん。小学校は別だったから気づけなくって。」そんなことは露知らず谷くんはマイペースにキョロキョロと土管の中を眺めていた。
でもふいに私を見て「でも中学校でピアノの曲を聴いた時にすぐ分かったんだ!あの時の子だって。嬉しかったんだ、また小坂さんのピアノが聴けたから」満面の笑みを私に向けた。
急にこっちに顔を向けてくるから、思いっきり目があってしまって、私は心臓がドキッてした。
そこまで私の演奏が好きだったのは知らなかったし、そう言ってくれる人もほとんどいなかったから。
『上手いね』とか『すごい』とか先生とかは『もっと上を目指しましょう』とか言ってくれるけど、単純に演奏が好きって言われた事はほとんどなかった。
思わず「……言ってくれればよかったのに」と目線を逸らしながら照れ隠しに言ってしまう。
「まぁ言わなくてもいいかなぁって。練習する時とかこっそり音楽準備室で聴いたりできてたからね」
ググッと腕を伸ばしてあくびをした谷くんは頭の後ろに手を入れてくつろいでいたが、私は疑問の一つを思い出して思わず言ってしまった。
「もしかして、それでこの間も準備室にいたの?」
「秘密だよ?あそこは廊下とつながる小さな窓の所、掃除の時にこっそり鍵開けてるんだ」
「それで私が知らない間に準備室に入れたのね」
「言っちゃダメだよ?僕の秘密の場所なんだから」
ポンポン会話をしてはお互い記憶を掘り返して、笑って、驚いて、また二人顔を見合わせて笑った。
もう逢えないものだと思い出の中の消えかけていたあの子との再会に、私は、またこの時間を取り戻せて嬉しかった。何年も経過した事を思えば、遊んだ事はたった一瞬なのに、覚えていてくれた事が本当に嬉しかった。私の演奏を好きだって言ってくれた事も、ピアノが少し嫌になっていた自分にはすごく嬉しかった。嬉しい事ばかりで固くなっていた口元にも自然と笑みが出てしまい、笑いながら二人会話していると、谷くんが横目で外を見て言った。
「あ、雨が止んだね」
その一言に、私は今の楽しい時間の終わりを感じてしまう。
雨が上がったであろう外の様子を見ている谷くんを私は無言で見つめていた。
谷くんは土管から顔を出して確認すると、ゆっくりと光の中へ出ていったのだった。