うす暗い中、零れたのは雫
ゴンッと鈍い音がした、けれどなぜか私の右手は無機質な壁とぶつかる事なく何かを殴った。
殴ったはずの右手は、痛くもなんともなかった。
私の手は誰かに制止されて壁を殴った、壁と右手の間には誰かの手を挟んだまま。
痛みがない事に、まるで嵐が一瞬止んだように思えて、吹き荒れていた風も、雨粒も一瞬消え去って何が起きたかなんて気づけず呆然としていた。
「……よかった。小坂さん、みーつけた。
…小坂さんも、感情的に……なるんだね。
でも、……手は、傷つけちゃ…だめだよ」
息を切らして、途切れ途切れに言う声が、薄暗くて、ジメジメとした土管に響いた。
聞き覚えのある声に、思わず身体が強張ったのが分かったと同時に確かめるのが怖くなった。こんな雨の中、私なんかのためにわざわざ追いかけてきてくれたのかと。でも教室から逃げ出して何もかもから逃げ出したかったのに、あっさり見つかってしまったショックとが反発してどうしていいのか分からなくなったのだ。
ささやかな幸福感と、自分の幼稚な行動への罪悪感とが入り混じって申し訳なくなる。
だから、誰が来てくれたのかが分かっていてもなかなか顔を向けられなかった。それでも今さら無視はできないから、と油の切れたゼンマイ人形のように、ギッギッギッギッと音がなりそうなくらいぎこちなく土管の入り口に顔を向ける。
暗闇に慣れ始めた私の目には、逆光でうまく顔が見る事ができなかったが、やがて目が慣れてきて分かった。薄暗い土管の入り口に顔をだしたのは、音楽準備室でも会った谷くんだ。
──やっぱり、谷くんだったんだ
そう分かっていてもどうしていいのか分からないまま沈黙が流れた。
谷くんは全力で走ってきたからなのか、両手を両膝につけて前かがみになっている。
肩で息をしている様子を見るとあの時、廊下で聞こえた足音は、走って追いかけてくれた谷くんのだったのかもしれない。
心配してくれたのか、それとも村田先生に言われたのか分からないけれど、私にはなんでここに来てくれたのか分からなかった。こんな私を気にかけてくれていたかと思うと嬉しい気持ちもあった。
けれど、そんなに親しい仲でもないし、音楽室での一件以外では特になにもしていないただのクラスメイトのはず。
だけど、谷くんは息が落ち着かない今でも、顔をあげて私を見て口元から白い息を短く吐きながら笑っていた。
谷くんの息が少し落ち着いてくるまで、私は何度も深呼吸して自分を落ち着かせてから聞いた。
「……どうしてここに?」
頭に浮かんでいる事はたくさんあったのに、私はこれしか言えなかった。
そんな私の問いに谷くんはキョトンとしながらも白い歯を見せた。
「小坂さんが…教室出た後、追いかけたんだけど…見失っちゃってね。
そしたら、ここが見えて、まさかと思って来てみたら…声が聞こえたんだ」
少しずつ息を整えながらも、余裕が出来てきたからか、谷くんは壁にぶつかった自分の手の事より私の右手を確認してくれていた。
「…前にもね僕、ここで、遊んだことがあったんだ。」
そしてそう言いながらもっと私の右手を見るために、土管の中に覗きこむように前かがみになって入り込む。雨の中追いかけてくれたせいか、身体についていた水滴が下に集まって土管の中をポツリ、ポツリと黒くする。
その姿を見て私は、壁に向かって鬱憤を吐き出して、自暴自棄になった自分を恥じた。
血が上っていた頭はやがて冷静さを取り戻しながらも、きっと怪我をしたであろう谷くんの手を見て私はやってしまった重大さを実感する。
「…ごめんなさい……、こんなつもりはなかったの」
短気を起こした自分に、この時期に谷くんの手を傷つけてしまった罪悪感に、押しつぶされそうになりながら私は必死に声を振り絞って言った。
どうしようと狼狽えていると、私の様子をみた谷くんは笑って言った。
なんでなのか谷くんは安堵した様子でほっと息を吐き出したようだった。
「ちょっと赤くなっただけだから。大丈夫。それよりも小坂さんの指が、怪我しちゃう方が困るから」
谷くんは私の手の様子を見て満足したのか、一息ついて土管の中に入って体育座りをした。ちょうど私とは反対側の壁に背をつけて。谷くんが動いた事で私の所にまで少し光が入るようになった。
谷くんも土管の壁に背中から頭までくっつくて休憩していた、腕は膝の上に乗せるように伸ばして。
反対側に座った事で私からは右手の様子がよく見えるようになる。土管の中で薄暗いからハッキリと見えるわけではないけれど。
私の右手を見ていた谷くんの手は、ぶつけた所が少し赤くなっていた。
だんだん腫れてくるかもしれない、私がピアノにぶつけた時みたいに。
すると過去の嫌な記憶が甦る、私がされて嫌だった事を私は谷くんにしてしまったのだ。
「私の指なんて大したことないよ。谷くんの、その、手は大丈夫?
受験……もうすぐなのに…どうしよう」
谷くんは私の事を気にしてくれていたけど、こんな時期だというのに怪我をさせてしまった私はどうしたらいいのか分からなかった。
私は最後まで言えなかった、私の右手なんか受験が終わってるんだからどうなってもよかったのに。谷くんは、これから試験があるし、一分一秒と無駄にできない試験に怪我のせいで不利になってしまわないものかと。ムシャクシャして音楽を選んでしまった自分と手を、壁に八つ当たりをしようとしたら谷くんに怪我をさせてしまった、なんて安直だったんだ。
私は許しを請うように谷くんの右手を両手で持って額に当てた。
「ごめんなさい、こんなつもりはなかったの。谷くんの、受験の邪魔になりたかった訳じゃないの。
ただ、好きな音楽に触れてさえいたらそれでよかったのに。
………なんで、なんでこうなっちゃったんだろう…。謝っても取り返しがつかないのに謝るしか出来なくてごめんなさい」
最後の方は谷くんが聞き取れたか分からないくらい小さい声になってしまった。
でも言いながらギュッと目をつぶって唇を噛みしめた。
きつく噛みしめたせいで口には鉄の味がした、でもそれを気にするほどの余裕はない、私は、谷くんに迷惑をかけてしまったのだ。
どうしていいのか分からないままでも、私の頬を伝う雫は止まらなかった。谷くんの体を伝って落ちた雫のようにぽたり、ぽたり、と土管を黒く染めていった。
そしてごめんなさいと思うあまり、谷くんの右手をぎゅぅぅっと握りしめた、その手に傷があることも忘れて。
「泣かないで…、小坂さん」
そう言って谷くんは、左手を伸ばして私の頭を撫でた。そして少し咳払いをしてから、さっき私が壁に殴りつけて、さらに握りしめてしまった右手をグーパーして見せながら笑って言った。
「僕はバレー部だったし、これくらいの衝撃は大した事ないよ。ただちょっと赤くなっただけで、よくある事。だから泣かないで、大したことないんだから」
そう、谷くんは存在は静かな割にバレー部で活躍していたのだ。私の息は落ち着くまでにあんなにも時間がかかったというのに、さすがは運動部、もうは息も落ち着いていた。そんな谷くんはにっこり笑って言った、私にそっとなだめるように。
「こう見えても男子だからね?小坂さんよりは頑丈だよ」
谷くんが首をかしげて笑う度に、雫がポタポタッと落ちて土管を黒く染める。さっきより制服に染み込んでいったのか、落ちた雫は少なかった。
「で、でも受験の時に不利になっちゃうんじゃ…」
そういう谷くんは優しいけど、でも人生が決まる高校受験に不利になるのは、正直話が別だと思った。それこそ、私の理不尽な行動で怪我をしちゃったわけで。
なのに、谷くんは私の発言にキョトンとしながらも少し考える仕草をして言った。
「んー、そうだな。小坂さんが怪我をしてピアノ弾けなくなっちゃう方が不利だなー。
癒しが無くなっちゃうもんね」
最後は私を見てニンマリと笑ったのだ。
癒しだとか、何を言っているのか理解ができなかった。
でも気が済まなかった、谷くんにとって大したことがないとしても、私には手はとても大事だったから引き下がるわけにはいかなかった。
「癒しとかじゃなくて。受験だよ?志望校行けなくなっちゃたら私どうしていいか…」
谷くんの顔を、目をじっと見て懇願した。すると谷くんも私の必死が伝わったのか顔に張り付いていた笑顔が、口角が下がった。さっきまでがニコニコとおちゃらけていたというのに、今は波風のたたない水面でも見ているかのような静けさだった。
「大丈夫、いまんとこ合格圏内だし。これくらいで不利になるようなら今、教室で必死に勉強してるよ。だから気にしないで」
笑顔ではない今の顔が谷くんの素の顔だろうか、少し大人びて見える。
でも決して怒っている様子もなければ、余裕すら見えたのは受験勉強もきっちりこなしてるからだろうか。あの山本くんと同い年とは思えない感じがした。