やがて黒く染まる
何もかもが真っ黒く塗りつぶされた私は、階段を降りてそのまま走った。どこへ行きたいでもなくただここから、今から逃げ出したかった。
校門を駆け抜け、いつも通い慣れた道から外れ、空から降ってくる大きな雨粒に黒い場所が増えていくアスファルトの上を走って、走って、走って。
走りながら、目が熱くなっていったのが分かる。それと同時に視界がぼやけていくのが分かる。でもだからって私が逃げる場所もなければ、行きつく先も見えなかった。どこか誰もいない場所に逃げたかった、走った所でそんな場所なんてないというのに。頬をつたう雫が雨なのか涙なのかも分からなくなるくらい、濡れた顔は走ってあたる空気と外気温で冷たくなっていた。
そうこうしているうちに、冷たい空気を吸い込みながら全力で走った私の身体が先に悲鳴をあげる。息がきれる、唾もうまく飲み込めない、うまく呼吸ができないのは泣いているせいなのかすら分からず、息も絶え絶えに走るのをやめた先にふと見えたのは、昔よく来た公園だった。
あそこなら…、と昔の記憶を頼りに息が上がったまま足を進めると、求めていたものがあった。今となってはさほど大きくはないが、昔はとても大きくみえた小山。大きな滑り台の土台になっている小山には大きな土管が通っていて大人でも入れるのだ。
学校から飛び出して、家にも帰れず、行き場のない私にはピッタリだった。雨宿りにも最適な土管の中には誰もおらず、雨粒が激しく私に叩きつけてくるようになった中、私は「お邪魔します…」と言って中に入った。
思わず懐かしさがこみ上げる、この中にいると外の音は小さくなり、代わりに自分の声は響く。
昔にもここに来ていた時は、周りからの声を遮りたい時に入ってはよく呟いたものだ。
大きな雨粒が降っていてもその雨音はあまり聞こえず、雨雲に覆われた空からの光は土管に差し込む量も少なく、今も昔も私の姿を隠すにはちょうどよかった。中に入ると土管の出口は見えるものの、中間部はほぼ真っ暗だった。
私は暗くてあまり見えない奥にはいかず、まだ光の届く距離でそのまま崩した体育座りをした。さすがに冬なだけあって、土管に触れるとひんやりとしたが走って火照った体には心地よい冷たさ。腕は下に投げ出し、背中と後頭部を土管にくっつけて目の前にある土管の天井を見た。暗くてはっきりと見えないけども見覚えのある染みや痕跡がある。何か文字が書いてあるようにも見える。
──こんな薄暗さは久しぶりかもしれない。
そう思ったら、思わず昔の事を思い出した。
久しぶりにこの公園に気づいて立ち寄ったけれど、幼い頃はよくこの土管に入ったものだ。遊ぼうって誘われたのにピアノのレッスンがあるからっていけなかった日。
帰り道に一人ここに立ち寄って土管の中に隠れた幼い日の事を思い出す。
1人ブランコに座ってたら、たまたま一人、帰る前に出会えて、ちょっとだけかくれんぼして遊んでもらった。
あの時は夕暮れ前でまだ明るかったけど遊んでいるうちに暗くなってきて怖くてここから出れなくなっちゃった、幼い時の記憶。また遊ぼうって言った気がしたけど、もう誰だったか忘れちゃった。でもその子に連れられて帰ったっけな、そんなおぼろげな記憶を思い返しながら私は虚空を見つめた。
それからもレッスンでうまくいかなかったり、嫌なことがあるとこっそりこの土管に来たんだっけ。あんまり長居をするとお母さんに怒られるから、ちょっとだけここにいるようにした。
何回か怒られる度に、だんだん自由がなくなっていくのが分かったから。
──昔はこの壁に石で何か文字を書いたっけ…。
ぼんやりと壁を眺めていると、急に寒気がして身震いをした。
きっと雨の中、傘もささずに走ったからだと思った。でもここにはタオルも身体を温めるものもない。
私は少しでも体温を逃がすまいと両腕で足を抱えるように小さくなった。冷えた指を温めるように顔の周りに近づけると顔や腕から土管に滴り落ちる水分が見える。落ちた水滴は土管の中で弾けて周りに少しだけ飛び散った。吐く息が落ち着いていく頃には、水滴が土管や私の服に落ちていて、世界をより一層黒くしていた。
一滴、一滴落ちていく度に私の身体は落ち着きを取り戻していったが、私の奥底深くにいたものはまだ蠢いていた。
それが少し顔出してきた時、私は狭く暗い中でポツリと呟いた、誰に言うでもなく自分に言い聞かせるように。
「……なんでこんな事になっちゃったんだろう」
いつもなら教室にいて、ぼんやりとしながら授業を受けていただろう。時に指をカタカタ動かしてピアノを弾いているようなそんな仕草をしながら。たしかに周りの子に比べたら真剣に受けてはいなかったけれども。でも、でも………。
「私、いちども勉強が嫌だなんて言ってないのに……な」
そう、音楽室で言われた事、受験勉強が嫌で推薦にしたって思われていた事。思わずため息が溢れる。
それは今日、村田先生が言っていたように私の志望校は推薦枠を除いて入学する事は困難だった。
夏期講習に行って、一定の水準に達していれば推薦で受験ができる。そこから合格者後の一部の辞退者や、演奏水準で落とされる者がいない限り基本的には一般受験の道はなかった。
すなわち推薦を受けられなかったら、ほぼ受験すらできないっていう事。でもそれは調べないと分からない事だし、それを言う必要はなかった。そんな事は関係ないからだ、それに普通の子は高校は勉強をしにいく。私だけ普通と違う道を選んで、でもどこかで分かってもらいたかった自分もいた。
でもそれは分かってもらえないと思って、変に喋らずただ黙っていた。けれどそれは間違っていたのかもしれないと薄々分かっていた。
分かっていても、仕方がないとしても私の鬱屈とした気持ちが収まるわけではなかった。
私は吐き出した、どうせここには私一人だから。
「そもそも推薦が何よ。…推薦取る以外に入学する術はないのに、私だけ志望校に受験できないっておかしいじゃない。
大人が勝手に決めたことなのに、推薦じゃないと入れないとか私が選んだんじゃないのに。
それに私だって好きで嫌がらせされて黙ってたんじゃない、言ってもまたやり返されるだけよ。
なのに、なのに!なんでみんなに嫌な思いさせるのよ!」
誰に言うでもなく壁に向かって吐き棄てるようにぶつけた声は土管の中で共鳴はしたものの、いくつもある汚れのようにすっと染み入った。私の声、不協和音は奏でられて次の展開を予兆するような、まるでサスペンスの効果音ようにかき鳴らして残響音だけがこだました。
私の声がだんだん大きくなっていっても、土管の中には響いても、外の音にかき消される。
外の雨粒がどんどん大きくなって殴りつけるように、吐き出しても吐き出してもなおこみ上げるものは止まらない。私の中に渦巻いていたのは嵐だ、吹き付ける風に、叩きつけるような雨に、自分自身が傷つこうが治まる事はなかった。
「先生に言えばよかったの?この時期に?そうしたら山本くんはどうなるわけ?今日みたいに受験させてもらえなくなるかもなのに?
それに私だって問題を起こしたら内定はどうなるの?分からないじゃない、何が正しいのよ。
私が耐える事で、クラスの、この世界の不協和音にならないように耐えていたのに、黙って耐えたらみんなの願書を出させないの?なんで?みんな悪くないのに、なんでなの?
なんでこんな理不尽な思いをしなきゃいけないの?なんで?もう、もうやだよ。
……私はただ、そこにいたかっただけなのに…」
最後はもう必死で絞り出した切実な思いだった、浮いている存在も分かっていたから。
遊びたくても人と違う選択をしてしまった私には自由になる事が少なくて。
学校以外で遊ぶことができないと分かると一人二人と離れていく事にもう慣れていた。
それでも教室にいる時はみんなと同じだと思えていたのに、その空間にも私の居場所が失われていって。
もう何もかもが嫌だった、ガキっぽい嫌がらせに、大人の理不尽さに、音楽を嫌いになった私自身に。
何もかも全て吐き出すように、悔しくさのあまり私は壁に勢いよく右手で殴りつけた。