黒の世界に包まれる
この話の中では、イジメの描写がつづきます。
あくまでもこの時期特有の葛藤の表現として捉えておりますが
少しでも嫌だとお思いになられた方は、読まれない事をオススメしております。
目の前で間宮さんに悪く思われたのがよほど頭にきたのか山本くんの眉が吊り上がって、大きな足音を立てて一歩近づいて言い放った。
「小坂!おまえ何様だよ!お前は黙ってやめりゃいいんだよ!」
逆上した山本くんは勢いよく蓋を閉めた、私の両手がまだ鍵盤の上にあるというのに。
あまりの出来事に私は反射的に手を引っ込めた、ギリギリ指先が蓋をかすめる程度で済んだけれど怪我をしなかった事に苛立ったのか、山本くんはさらに顔を赤らめてドスドスと足音を鳴らしながら私に近づいて私を引っ張った。
急に蓋を閉められた事に驚いてとっさに胸元の前にあった手首を、山本くんが勢いよく捻り上げた瞬間、私の右手に、痛みが走ったのだ。
「──いたっ」
捻られた右腕の、どこかの筋にピキッと痛みが走り痺れた。
私の声を聞いて驚いたのか満足したのか分からないが、ニヤッと笑った山本くんは追い討ちをかけるように私の右手をピアノに向かって投げつけた。このあたりは、もう何をされてるのかすら分からなくなっていた、バンッて音がして私の右手はピアノの蓋の部分に叩きつけられた衝撃のショックで痛みなど分からなくて呆然としていた。
そんな私に向かって、こう言い放ったのだ。
「さっさとどかないから悪いんだ、元はお前が悪い。俺は悪くない!天罰だ!」
鼻息荒く理不尽なセリフを吐いて椅子に座っている私を見下したかのように見下ろしていた。
そして間宮さんの肩を叩いてこう続けた。
「小坂が怪我したから卒業式は間宮が弾けばいい。楽しみにしてるから宜しくな」
目の前で私の腕を引っ張って怪我をさせたかもしれない状況を見て、間宮さんは少し狼狽えていたようだが「は、はい!まみりん 頑張りまぁすっ!」と少しひきつった笑顔で答えていた。
その応えに満足したのは、私一人残して、二人は音楽室を後にしたのだ。音楽室は静寂に包まれていた、壁に貼られた音楽家の肖像だけが私を見ている。
一人取り残された私は、ただ呆然としていた。
一体全体なんだったんだろう、そこまでして演奏したかったのだろうか。
そもそもなんで後輩の間宮さんが出てきて弾きたがるのか、そしてなぜ全く関係のない山本くんが決定するのか、と。考えてもでてこない答えに、なんだか気分は重苦しくなってきて、楽しみだった音楽室が一転して暗くなってしまった気がした。
なんだか悲しくて、私には見えない大きなナニカが両肩にのしかかったように感じて、私は思わず俯いてしまった。ぶつけた腕がだんだん腫れていくように、その大きなナニカも大きくなって私は押し潰されそうになる。
それはグイグイと私を追いやるように圧をかけてきて……、やがて私の目頭が熱くなった。
目のふちに溜まった熱の塊はだんだんカサを増して、やがて決壊する。一本の筋が出来たかと思ったら一気にこぼれ落ちる粒が、私の制服のスカートの上に落ちて、やがて紺から黒に近くなっていく。
ボロボロとこぼれ落ちる雫を見て、慌ててピアノから離れた。楽器は濡らしたらダメだ、そうは思っても私の意思とは反対に涙は溢れ続けた。悔しくて、悔しくて、言葉にならない嗚咽が、ただただ音楽室に響いていた。
いくら泣いても止まらない涙を一生懸命手で拭った、左手の甲だけじゃ足りなくて無意識に右手で拭ってしまった。
「いたいっ!………もうなんなのよ…」
ピアノにぶつけた箇所に触れた時の痛さに、音楽室に響き渡るほどの大きな声が出て、思いがけず涙が止まった。けど、あまりにも悔しくて左手で握りこぶしを作り、ピアノの蓋にグッと押し付けていた、その時。誰かがカチャリとドアを開ける音が聞こえた。
パタンッと閉まる音は……廊下につながるドアではなく、準備室のドア。
下履きのペタペタする音がして、先生ではないことがわかる。けれどなんでそこにいたんだろう、音楽室の鍵は私しかもっていないのになんで準備室に入れたのだろうか。
そんな私の思いとは裏腹に足音は近づく。
「……小坂さん、大丈夫?」
私を気遣う声は、まだ姿は見えないけれど聞いたことのある声。
そしてまた近づく足音、ようやくピアノを影を超えて顔を出したのは、同じクラスの谷くんだった。
谷くんはさっきまでいた山本くんと特別仲がいい訳でもなく、普段からニコニコしている。バレー部員なのに、いつも静かにしているイメージで正直音楽室とは縁がなさそうだった。
そんな谷くんがなんで準備室にいたのかは分からないけれど、私は俯いていた顔をあげて呆然としてしまった。
ポカンと眺めていると、谷くんが顔色を変えて慌てて駆け寄る。そしてポケットからハンカチを取り出して私の涙を拭こうとする。私は慌てて手で隠そうとして…、またしてもぶつけた箇所に触れてしまいおもわず痛みで顔を歪ませた。
「……っつぅ…」
あまりの痛さに左手で右手を抑えてしまうほどに。
それを見た谷くんは「腫れてるっ!大変だっ、保健室に行こう!」と私を立たせようとする。けれど片付けもせずに行かれない、それにどんな顔していけばいいのか分からないし、怪我したことはバレたくなかった。なんでだか分からないのに私は必死に抵抗した。
「だ、大丈夫だって。ちょっとぶつけただけだし、後片付けしてから行くから。谷くん、心配しすぎだってば」
慌てて取り繕っては、私は椅子から立ってピアノの屋根を下ろそうとする。手を伸ばそうと背伸びしたら、谷くんが代わりに下ろしてくれた。私を心配そうに見ては、何か言いたそうな顔をしている。
「あ、ありがとう」
「あとは僕がやっておくから、先に保健室行ったらいいよ。僕が鍵閉めて返しておくから」
谷くんはそう言って、譜面台の横に置いた私のハンカチを渡してテキパキと片付けを始めた。
その様子を見ながら私は、さっきまでの事を思い返す。谷くんには今回の事を他の人に言ってほしくなかった。周りに、先生にも知られたらまた何をされるか分からない、今度は何されるの?右手の次は左手?それとも??もう私の心は不安で一杯になってもう溢れそうになっていた。
「あ……あの、谷くん。今回の事は、内緒にしてもらっていい?大事おおごとにしたく…ないんだ………。だから先生にも誰にも言わないでほしい」
谷くんから渡されたハンカチを左手でグッと握りしめて、でも直接顔は見れなくて俯きながら言った、顔を見たら情けなくて泣いてしまいそうだったから。
「………言わないよ。小坂さんが、そう望むなら僕は言わない。でも小坂さんの腕が心配。だから、言わない代わりに、保健室に行ってくれる?」
私の顔を不安げに覗きこみながら谷くんは言った。
「うん……今から保健室に行ってくるよ」私は促されるように答えた。
「約束だよ?行かなかったら言っちゃうかもしれないから、ちゃんと行ってね?」
谷くんは、少しおちゃらけた風に言いながら、ピアノにカバーをかけてくれた。そして私が零した涙以外は元通りになった頃、時計が昼休みが終わる時刻を指し示していた。廊下の人気ひとけもまばらになってきて、私たちは音楽室を後にする。
谷くんは鍵を返しに職員室へ行ってくれるのだそう、2階の職員室まで一緒に階段を降りたけど終始無言だった。その時間がまた私に重くのしかかってきたけれど、別れ際に「誰にも言わない代わりに辛くなったら僕に言ってね」と谷くんが少し困った顔をして言ったのが印象的だった。
谷くんの優しさに視界がにじんできた私は、渡されたハンカチで涙を拭うと、ズキズキと痛む右手をかばいながら保健室へと向かった。
保健室の前で大きくため息をしてから部屋に入ると、保健の先生は私の腕を見て悲鳴をあげ、無理やり氷水の中に入れさせられた。しばらく冷やされた後、湿布を貼られ、包帯できつく固定された。ここにくるまでに腕はかなり腫れていた、これは打撲だと思うが普段から腕を酷使しているため腱鞘炎もあるだろうと言われる。
傷んだ筋を治すためにしばらくピアノは弾かずに安静にするようにと言われて、更に私の目の前が真っ暗になったのだった。
卒業式にピアノが弾けない、ピアノの練習もできない、よく分からないうちになんかねじ曲がって勘違いされている。でも先生に言って大事にもできない。
…そもそも私にとって音楽って?ピアノって?
自問自答したところで答えなんて出るはずもなかった。
もうここまでの記憶もおぼろげだ。
学校からの帰り道、空は厚い雲に覆われていて太陽の陽射しも陰り、私は激しく吹き付ける風にあおられそうになりながら、必死に帰った。
家に着いた頃には髪の毛はボサボサになり、持って帰ってくるべき本も教室に忘れてしまった。
宿題も手につかず、今日は怪我をした事もあってピアノに触れずに休んだ。
布団の中でも脳裏に焼き付いているのはピアノに右手を叩きつけられた場面。
あの時どうしたらよかったんだろう、なんでだろう、頭がぼーっとして思考がまとまらない……
思考がまとまらないまま、私は枕に黒い染みをつくりながら意識を手放した。